大いなる年
2024
主よ。遅れないでください!

2024年1月7日(日)新城教会主任牧師 滝元順

詩篇40篇16・17節
“あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「主は大いなる方」といつも言いますように。私は苦しむ者貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け私を救い出す方。わが神よ遅れないでください。”

ハレルヤ!素晴らしいギター演奏を聴かせていただきました。午後からのミュージックスクールでまた演奏してくれると思います。頌の演奏、世界レベルの演奏です。タダでギターも教えてもらえて、あまりありがたみがわかっていないのですが、「頌?その辺におったじゃん!」みたいな感じですが、特権でございますので、ギターを弾かれている方、弾いていなくても覗きに行って下さい。

今年は「大いなる年 二〇二四」とタイトルをつけさせていただきました。
「大いなる年」と言いますと、良いことばかりが広がるように思わないで下さい。「大いなる」というキーワードで聖書を検索しますと、結構「大いなる試練」とか、「大いなる苦しみ」とかいうテーマも多くあります。
今日読んでいただきました聖書箇所は、「大いなる方」と、私たちの主を賛美した後に、『私は苦しむ者貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け私を救い出す方。わが神よ、遅れないでください。』と続いています。

一月一日、能登半島で巨大地震が発生しました。マグニチュード七・四ということで、阪神・淡路大震災の八倍ぐらいのエネルギーではないかと言われます。だんだん全容が明らかになっています。明日は我が身どころか、日本ではどこでも地震は起こり得るわけで、備えなくてはいけません。「戦いの時が来た。備えよ!」と歌いましたが、明日は我が身かどころか、今日は我が身ぐらいの緊迫感があります。
新城教会に属しておられて、能登出身の方もおられます。実家の様子を聞きましたら、結構大変な状況です。ぜひ祈り、支援もさせていただきたいと願っています。Kさんに電話したら、「実家はたぶん瓦が落ちたくらいかも・・。」みたいなことを話していました。しかし実家に行ってみたら、家は倒壊していました。九十歳のおじいちゃんが一人で住んでいましたが、おじいちゃん、這い出して避難所に行った事がわかりました。
また今日も、来られています、Iさんのご実家も、こんな感じです。

これも全壊ですね。道路も地割れして孤立集落みたいです。まだまだ支援が届かない地域も多くあるようです。
イエスさまが、「世の終わりになると国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉や地震が起こります。」と二千年前に預言されました。以来、この言葉は現実になっています。

 この地図は、この百年間に、世界の何処で地震が発生したのかをマッピングしたものです。日本には逃げ場がありません。
いつ何どき、どこでも発生する可能性あり、覚悟が必要です。耐え抜く力を祈らなくてはいけないです。
もちろん、避けることができたら幸せです。しかし日本自体がこういう場所ですから、どこかで必ず起きるわけです。しかし背後に祈りがある時、神は私たちを守り助けてくださるはずです。

昨年から能登半島では地震が続いていました。リバイバルミッションでは、去年、能登の羽咋で地震から守られるように、また地震が来ないように!と、特別な祈祷会まで開催したので、残念です。しかし背後に祈りがあったことは、最悪の中にも神のみ手も動いたと信じます。
SIRの働きを弟がやっています。毎年、一月一日には皇居に行ってとりなしています。なぜなら日本人は初詣に、八千万人ぐらいが出るからです。
あの文化・習慣は、いつから始まったのかと言うと、古来からではないのです。明治時代、明治政府によって作為的に始められたものです。一月一日の朝五時半、天皇が国民を代表して、四方拝という八百万の神々を礼拝する行為をします。それにあわせて、国民が天皇と共に日本の神々に礼拝するというのが初詣の意味です。
人々は簡単に考えているのですが、あの行為によって、日本全体が暗闇の手に陥ります。それは日本を太平洋戦争にまで向かわせた、暗闇の力との契約に他なりません。かつて日本が突き進んだ負の歴史に学ばなければならないのです。
教会はその意味をしっかりと知り、国の未来の為にとりなし、祈らなくてはいけないのです。皇居は四十七都道府県を示す花の輪プレートに囲まれており、「県の花」が紹介されています。
今年、SIRのとりなしてたちがどこで祈らされたのか。あの広い皇居周囲で立ち止まり祈ったのが、なんと石川県だったそうです。石川県は黒百合が県の花だそうです。彼らはなぜ石川県のプレートの前で祈るのか不思議に思ったそうです。一月一日の朝の五時半、石川県の守りと祝福を祈ったそうです。
その日の午後、彼らはなぜ祈らされたのかの理由を知ることとなりました。能登でM七・四の地震が起こったからです。

続く一月二日、国民の心が暗くなっているただ中で、羽田空港で二機の飛行機が衝突し炎上する事故が起きました。どうして起こったのかと言うと、これも、能登の地震のせいでした。なぜなら海上保安庁の飛行機は、能登に支援物資を運ぶ為に、間違って滑走路上に出てしまったからです。
事故の第一報が入っても、詳しいことは分からず、四百人近くが乗っているということで、全員が亡くなったのかと思いました。しかし全員が脱出できたのも奇跡でした。主が日本に憐れみの手を伸ばして下さったと思います。地震に加えて四百人近くが亡くなったら、国民、撃沈でした。
今年は大事件から始まり、ある意味、すでに「大いなる年」が実現しているかのようです。今後の一年は、祈りにかかっています。

事故が起こっても、なかなかテレビでは情報が入りませんでした。それに反して、すぐに情報が入ったのがSNS関係でした。孫がSNSを見ていて、テレビ報道の一時間ぐらい前に、「日航機と海上保安庁の機体がぶつかった。日航機は全員避難した。」と話していました。今の時代って、一般のニュースより、SNSの方が実力があります。国内外に問題は山積みです。
何が言えるのかと言ったら、これからの世界、人間の手ではすでに限界ということです。これからは人間を創造された神、イエスさまが王となり、地上を治めてくださらない限り、悲惨な状況は広がるばかりです。
飛行機事故の機内映像が出ていました。火炎が迫る只中で、一人の子どもが、「神さま助けて!」と叫んでいました。あれは、本能的な叫びです。機内に煙が充満して、数分後には死ぬかもしれないという間際に、子どもが「神さま助けて!」と叫びました。どの神さまに叫んだのかは別にして、究極的な場において、絶対的な方に助けを求め叫びたい気持ちは、機内の全員が持っていたはずです。それを素直に表したのが、子どもでした。
新型コロナの時もそうであったように、全世界が「神さま助けて!」と叫びたくなる事件はさらに多くなるのです。

昨日は、東京でリバイバルミッション主催の、「新春リバイバル聖会」が開催されました。大変祝福された聖会となりました。メッセンジャーは有賀先生、平岡先生、今回は日本のキリスト教会のリーダー的存在の小山健先生、そして、私も加えていただきました。
 四人の先生方がどういうメッセージを語るのか、わかりません。私は最後のメッセンジャーでしたから、祈らされました。四つがうまくかみ合うかどうかは、祈りにかかっています。
今日は、年末に七人の先生方が語ったメッセージのまとめをご紹介させていただきます。神は、一人だけに語るのではないからです。それぞれの賜物に応じて語ってくださいます。
賛美リーダーは、ローレンさんという、私の友人、アーサー・ホーランドの娘さんがリードしました。彼女は二月、新城教会に来られます。ぜひ期待して下さい。国を越え、言葉を越えて、一つになって主のために働くことは重要です。

“しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」”(使徒の働き 一章八節)

日本には八千ぐらいの教会がありましたが、コロナで二千教会ぐらいが閉鎖したと言われます。
しかし仏教や神道の国で、なぜ八千もの教会があるのかと言ったら、日本で宣教した人たちがいたからです。
今から二千年前、聖霊が弟子たちに臨みました。その結果、彼らは力を受けて、エルサレム・ユダヤ・サマリアの全土、『さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』と語られたイエスさまのことばに従ったからです。

昨年は七十周年ということで、新城教会で神が働かれた足跡を確認しました。それは今後も主が何かを成してださるという期待に繋がりました。特に、津具村で起こったリバイバルについて、何度も語らせていただきました。
私は二ヶ月くらい前、リバイバルミッションニュースに、津具で起こったリバイバルについて記事を書きましたら、結構、反応がありました。神学校でもう一度学び直されている牧師夫人は、津具村のリバイバルを卒業論文にしたいので教えてくださいと言われました。それで私は、もう一度資料を洗い直して、新たな情報が与えられました。
他にも、日本で長く宣教されている先生からも連絡が来て、なぜこのことを早く知ることができなかったのか!残念だったと、言われました。日本でもこんなことが起こっていたなんて!もっと早く知るべきだった!という声も寄せられました。

津具村のリバイバルは、30年以上前は誰も知りませんでした。それが明るみに出たのは、甲子園ミッションが一九九三年でしたが、それに先だって九一年ごろでした。
ある日、平岡先生が興奮して、「おい!順!すごいことがわかったぞ!」と言うのです。
何がわかったの?と聞くと、津具村のリバイバルの話でした。平岡先生の所属する教団の一人の牧師が、牧師会でレポートしたと言うのです。
実は、発見のきっかけとなったのは、調べた牧師の母親が、「羊」という名前であったことでした。その牧師の家族は奥三河の出身で、羊はいない、猿しかいないような場所出身の一族でした。なぜ母の名は羊なんだ?と疑問を持ったそうです。「羊?クリスチャンネームっぽいな・・。」と感じて、家系のことをいろいろと調べたと言うのです。そうしたら、今まで封印されていた情報が、顕にされ、それをまとめて論文にしたのです。
それは三十年も前に発表された論文で、その後、発表した牧師も亡くなり、どこに行ったのかわからなくなっていたのですが、平岡先生が探し出してくれました。
また追って紹介したいと思うのですが、その冒頭に、

“二千年前にエルサレムで起こされた出来事が、この日本の文化の中で事実となり、それが現代の教会の中に「もっと大規模に実現するのではないか」と、歴史的な事実にたって「リバイバル」を期待していた学者たちがいた。その人々とは、東京女子教授で比較文化研究所長であった小川圭治や、金城学院大学教授で日本のキリスト教地方史の研究者である真山ミツヤ、その他の人々であった。それらの人々は、「日本の近代史」を再究して「日本の教会の夜明けに起こされた働きは、神が教会の中に特別に起こされたリバイバルであった」と証言している。その原点として、明治六年(一八七三)「横浜の初期祈祷会」の中に起こされた「小さな、しかし力強い出来事」を「エルサレム」で起こされて、世界の歴史の中で繰り返されてきた「リバイバル」と同じ原則と現象と認めている。”

今から三十数年前、リバイバル甲子園ミッションの準備段階で、一人の牧師が書いた論文の序文です。
新城から二十分ぐらい北に行きますと、かつて海老という村がありました(現在は新城市に合併されました)。

いつも話していますけど、ジェームス・バラがこの日本に来て、津具村で宣教したわけですが、もう一カ所、マクレイという宣教師が、津具村の南に位置する、海老村に宣教の拠点を持ったのです。明治の初期、津具村、海老村、そして新城町にリバイバルがあったのです。
 海老村に行ったことがありますか?何にもない所です。しかし、かつてそこに教会があって、四十名ぐらいのクリスチャンがいたと言うのですから驚きです。また多くの求道者もいたと言うのです。
また津具には、初代牧師を顕彰する記念碑が建っています。すごいことがあったわけです。一五〇年くらい前、この谷に主が働かれたのです。
父が東京でクリスチャンになり、帰郷して、その後リバイバル運動を始めたのも、決して偶然ではありません。これは神の摂理の中で起こされたことです。