岩か砂か

2024年4月7日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

マタイの福音書 7章24~27節
“ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」”

ハレルヤ!おはようございます。二〇二四年四月に入りました。新年度に入り新しいスタートを切った方々も多くいらっしゃるのではないかと思います。新しい領域に主の守りと勝利があるようにお祈りさせていただきます。
早速ですがみことばに入らせていただきます。マタイの福音書七章二十四節から二十七節、今日はこちらから学んでいきたいと思います。

“ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」”

有名な例え話です。そして比較的理解しやすい話ではないでしょうか。賢い人と愚かな人の対比があり、それぞれどのような条件で家を建てたか。その結果はどうであったか。

ここから「岩か砂か」というテーマで学んでいきたいと思います。

二〇二〇年から、私たちはあっという間に四年という歳月を過ごしました。この四年間、様々な出来事があったと思います。大きな混乱、困難もありましたし、社会の変化もありました。そのような中でこの二〇二四年、私たちの足元が岩なのか砂なのかということを、真摯に向き合って考える必要があると思います。

今日主題にしている箇所は、マタイによる福音書七章ですが、これはいわゆる「山上の垂訓」と呼ばれるまとまった教えがある箇所の全体の結論部分になります。山上の垂訓はマタイの福音書で言うと、五章から七章にまたがっています。
その五章の冒頭部分が、「八福の教え」から始まります。

そちらを見ていきたいと思います。

“ 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。”
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。”

一読して、そのまま入ってくるものと、そうでないものがあるのではないかと思います。地上の価値観だけでは理解できない部分があるのではないでしょうか。それらを理解するために、一つ目の「幸い」から重要な点だけ学んでいきたいと思います。

マタイの福音書五章三節、

“「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。”

まず、「心の貧しい者」という表現ですが、それは感性が乏しかったり、人の気持ちもわからない、心の余裕のない人とか、心が狭い人、そのような意味ではありません。
自分の心の貧しさを認めている人、自分の霊性の貧しさを認めている人、そのような意味です。
そして次にもう一つの重要なキーワード、「幸い」です。これが八回繰り返されています。また、この後の教えでも出てきますし、聖書全体を通して、この「幸い」という表現はたくさん使われています。非常に重要な言葉ですが、実はしっかりと意味を受け取ろうとすると、難しいです。

「幸い」という言葉を聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか?一般的に、私たちがすぐ思い浮かべる他の言葉は「幸せ」という言葉ではないでしょうか。しかし、「幸い」と「幸せ」は似て非なるものです。

「幸い」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「マカリオス」という言葉です。複数形は「マカリオイ」となります。
その言葉が意味する内容は、いわば「至福」です。地上的な価値観で測れるような祝福ではなく、霊的・天的な祝福です。それは八福の教えの文脈を見てもわかります。
さらに聖書が聖書の中でそれを証明しています、どういうことでしょうか。第一テモテ一章十一節にこのような言葉があります。

“祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。”

ここで「祝福」と訳されている言葉、これも「マカリオス」です。神ご自身を形容するために使われています。ここからも地上的ではなく天的、また霊的な祝福を表す言葉であると言うことができます。
私たちの思い浮かべる「幸せ」とは違うという話をしましたが、どういう点が違うでしょうか。「幸せ」という言葉は、主観的な言葉です。人間の主観が多分に入ります。私たちもそれぞれ自分の願望がかなえば幸せ。自分の身の回りが物質的に豊かであったり、病がなくて健康であること、そのようなことを「幸せ」と感じ、そうでなくなればその「幸せ」は無くなります。それが人間です。生まれながらの人間は、地上的な主観でしか物事をはかることができません。
しかしこの「マカリオス」は、それらと比較出来ない、非常に大きな意味を持った祝福の言葉であるということを受け取りましょう。

八福の教えは、それぞれの描写で示されている人々、そのように生きる人々に、「幸い」を宣言する祝福に満ちたものです。これらの大きな前提を受け取った上で、主題の箇所、マタイの福音書七章二十四節から二十七節の例えにもどります。

“ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。”

「賢い人」と「愚かな人」どの様な違いがあるでしょうか。「これらのことば」を聞いて行う者か、行わない者かということです。聞くだけは簡単なわけです。しかしそれを真摯に受け止めて、行動が変わるかどうか。生き方が変わるかどうかが重要です。
行う者は岩の上に自分の家を建てた者、行わない者は砂の上に家を建てる者。それぞれの選択による結果が待っているということになります。
主の教えに従うこと、みことばの真理に従って生きるということが何よりも大事です。

私は、二〇二四年に向けてのみことばとして、「み声に聞き従うこと」というお話をさせていただきました。また前回一月の主日礼拝では、「門の外へ出る」ということが求められているというお話をさせていただきました。私たちが、この世の変化に対して、あるいは今まで当然と思っていた領域に対して、もう一度みことばの光を当て、真に何が私たち一人ひとりに求められているかを、みことばから受け取り、生き方を変えるべきであると教えられています。

また私は、同時に、この数年来、ダビデ王の生き方を通しても多くを学び、共有させていただきました。ダビデとサウルの違いは何だったでしょうか。ダビデは最後の最後まであらゆる場面で主に従い続けました。ウリヤの妻バテシェバの件で大きな罪を犯した時も、すぐに悔い改め、一切の言い訳をせず、他人のせいにせず、誠意をもって主の前に悔い改めました。ダビデの生き方を学ぶ中で、私たちは本当に多くのことを学ぶことができます。
そのダビデの晩年そして、その子ソロモンの行動からも、今日の主題と同様の点が学べるので、少し引用させていただきたいと思います。まず第二サムエル記二十二章一節〜三節、

“主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。彼は言った。「主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。”

これは第二サムエル記の終盤で、ダビデが天に召される少し前の描写になりますが、ここでも「岩」というキーワードが出てきます。主題の例え話と直接比較できる使われ方ではないですが、この「岩」というキーワードも、聖書の中でよく用いられます。旧約聖書の中では主に対して、守りの象徴としてこの言葉が使われます。
私たちを守ってくださるのは主です。これは主を信じる者は受け取っているはずの真理です。しかし今の時代どうでしょうか。私たちを守ってくれるものが主だという生き方を、本当にできているでしょうか。主のみことば、主ご自身よりも、優先して、依存しているもの、より頼んでいるものがあまりに多くなっているのではないでしょうか。この地上に与えられているものを、クリスチャンが主の手にあって用いることは何ら悪いことではありません。しかし私たちの根底が何か、土台が何かということをすり替えられないように、絶えず注意して生きる必要があります。
繰り返しになりますが、ダビデは生涯通して主により頼み、主に従い続けました。それがダビデがダビデたる所以なのです。

そんなダビデもこの地上を去る時を迎えます。後を継いだのは、その子ソロモンでした。ソロモンは王になったその後、夢で主と出会いました。それが書かれている記事が、第一列王記三章五節から九節をお読みします。

“ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」”

その主の返答が、十一〜十二節、

“神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。”

ソロモンは、主ご自身もおっしゃった通り、自分の願望を願いませんでした。むしろ父ダビデの故に、主のなされた永遠の契約に対して、自分が果たすべき使命のために必要なものを願い求めました。その契約は第二サムエル記七章十六節、

“あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」”

ソロモンは自分の威勢を強めるような短絡的な望みをいだきませんでした。実は先程の「心の貧しい者は幸いです」に共通するのですが、ソロモンは自分の未熟さ、いたらなさを認めていました。七節に、

“しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。” とあります。

ソロモンの即位の年齢は、正確にはわからないらしいですが、十二歳ぐらいだといわれます。それゆえ自らの未熟さを認め、自分に必要なもの、王としての使命を果たす上で一番重要なものを求めたのです。善悪を判断して聞き分ける心、民を裁く能力を主に願いました。その答えとして主は、このように言われます。十一節、