大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
Look! 見よ!

2024年3月31日(日)新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書27章50〜54節

“しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」”

 

今日は三月三十一日です。明日から新年度ですね。いろいろ不安を抱えておられる方もいるかもしれませんが、すべてを主に委ねて歩んでいきたいです。

今日は教会暦では、復活祭に当たります。私は「イースター」という言葉は使いません。なぜなら、イースターとは、たいへん悪い言葉だからです。イースターとは、「イオストレ」という、春の女神の名前そのものだからです。それがイエスさまの復活を意味する単語に置き換わったのです。スペイン語はパスクワ(Pascua)です。この方がいいです。日本的に言ったら、「アマテラス」が、「イエスさまの復活日」とされたのと同じです。復活日は毎年変わり、曜日は同じ日曜日です。
太陽暦の中に太陰暦を落とし込むなら、復活祭は先週の火曜日でした。
今年はうるう月に当たるので、通常はニサンの月ですが、今年はアダルの月ナンバー2に位置します。イエスさまが復活されたのは、ユダヤの祭り、「初穂の祭り」の日でした。イエスさまは復活の初穂となられたのです。
今日は便宜上、復活をお祝いする日ですが、復活は歴史的事実です。クリスチャンにとっては、毎日が、主の復活の連続です。

今日読んでいただいた聖書箇所は、最近、よく紹介している箇所です。

“しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。”

イエスさまは殺されたのではありません。自分から霊を父なる神に手渡されたのです。ご自分で霊を神に渡され、受け取ることもできる方です。
「すると見よ!」とあります。メッセージタイトルを、「Look!見よ!」とつけさせていただきました。聖書中で驚くべき光景を表す言葉です。

「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記されています。神殿において、聖所と至聖所を分けていた幕が裂けたのです。大祭司でなくても、誰でも、直接、神の前に出られることを表しています。
今日、十字架の勝利ゆえに、誰でも、父なる神の前に出ることができるのです。
「地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。」と記録されています。
このことが事実ならば、人類の歴史中、最大の事件であり、最大の希望と言っても過言ではないです。このことが起こったとしたら、イエスさまは神であり、救い主である事は、間違いありません。しかしこれが嘘ならば、すべてをやめた方がいいくらいです。

ここで「地震」が大きな役割を果たしています。最近、地震が本当に多いです。地震はただ単に、プレートの沈み込みだけで発生するのではなく、霊的意味合いも含んでいるのではないでしょうか。
振り返れば、甲子園ミッション後、阪神大震災が起こり、以後、三十年間、日本は大地震の季節に入ったかのようです。それは同時に、霊的にも新しい領域に入った証拠ではないかと感じています。

「岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。」のです。
これはイエスさまが復活された瞬間の出来事ではなく、「死なれた瞬間」の出来事です。イエスさまが死なれた瞬間、かつて、主を信じ死んでいった人たちの墓が開いて、からだが生き返ったのです。
エルサレムに行きますと、オリーブ山沿いに多くの墓があります。どの墓なのかわかりませんが、死人が生き返ったのです。
別訳だと、「(さまざまな)墓が開き、眠ってしまっていた聖人たちの多くの体が起こされた。」と訳されています。こんなことが歴史上起こったのです。

復活した者たちは三日間墓場で待機し、イエスさまが復活された初穂の祭りの日に、イエスさまに連なって都に入ってきたようです。
この人たちは、その後、どこに行ったのか記録されていません。多分、イエスさまの昇天とともに、彼らは天に上ったのだろうと推測されています。それは「死と墓に対するキリストの力の証明である」と、ある人が注解していました。

「神はイエスの死によって、死の力を滅ぼし、死そのものを廃止されたという証拠として、眠った多くの聖徒たちを生き返らせた。これらの聖徒たちは、主が昇天するまで地上に留まり、その後、天使の従者に加わり、罪、サタン、そして墓に対する彼の勝利のトロフィーとして、イエスと共に天に勝ち誇って凱旋した。」

ここで復活した人たちは、イエスさまが公生涯に、死人を生き返らせたのとは違います。キリスト教信仰の中心は、死者の復活です。

しかしながら、「天国ってどこ?」と問うと、「死後の世界」と答える人が多いです。先日も、ある方と話したら、「私は苦しいことが多いから、早く天国に行きたい・・・。」と言われました。「天国に行きたいって、どういう意味?」と聞くと、「死んで天国にいたい。」と言うわけです。
死後の世界は、神の国の一部である事は確かです。しかしそこがゴールではないのです。そこは聖書の指し示す天国ではないからです。
死後の世界がゴールならば、別に、イエスさまは復活されなくてもよかったわけです。復活は肉体の回復です。肉体活動の再起動でした。

からだの復活には、どんな意味があるのでしょうか。聖書を理解するのに大切なのは、当時の世界観や周辺の環境がどうであったかの理解です。

イエスさまが地上を歩まれた時代背景は、ローマ帝国が世界を支配していました。世界史を勉強されたと思いますが、ギリシャ帝国の支配が終わり、イスラエルはローマ帝国の支配下にある中に、イエスさまは過ごされたのです。
ローマ帝国前のギリシャ帝国は、文化的にも、思想的にも世界に大きな影響を与えました。そこで拝まれていたギリシャ神話の神々は、人間の姿をしていたり、動物との合いの子みたいな、肉体を持った神々でした。
神話を見れば、肉体を持った神々は、悪ばかりを行っていました。それらは「何が神々か!」と言われる者たちばかりでした。
一つの物事が起こると、それに対抗する勢力が必ず発生します。作用反作用です。「ギリシャやローマの神々は肉体を持って、悪さばっかりしている。何が神だ!」みたいな反発が広がったのは、当然の反応でした。そんな環境から、「肉体や物質界は神が造ったのではなく、悪魔が造ったのかも・・?」という考えが生まれたわけです。
イエスさまの時代、一般の宗教思想は、ユダヤ教だけでなく、ギリシャ・ローマ的でした。
そんな中、やがて初代教会はある思想によって、大きな影響を受けることになりました。それが「グノーシス主義」でした。その思想は初代教会に大きな影響をもたらしました。グノーシス主義として形成されたのは二世紀ぐらいと言われますが、その基礎となった種は、既に古くからあったわけです。
グノーシスとはギリシャ語で、「知識」「認識」「悟り」という意味を持つのですが、この考え方の特徴は、徹底した「霊肉二元論」でした。彼らは「霊は純粋で神秘なもの、肉(物質)は罪悪性を持ち、堕落したもの」とし、「物質世界を創造したのは神ではなく、悪魔であって、肉体こそ、魂の牢獄である。」と主張したのです。
なぜなら、ギリシャ・ローマ神話では、神々は悪ばかりを行っていたからです。同時に、社会にも悪が溢れていました。人々は、こんな状態の世界を、善なる神が創造したはずがない、と考えたのです。
エペソ人への手紙二章二節、

“そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。”

この言葉は、私たちがイエス・キリストを信じる以前の状態を表しています。罪過の中に死んでいて、”そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。”と述べています。

しかし五節を見るならば、”罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、--あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです--”とあります。これが聖書が述べる「恵みによる救い」です。

エペソ人への手紙二章二節、

“かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。”

主を信じる以前は、暗闇の力、悪霊に支配されていたというのが聖書の主張です。これをギリシャ語原文で、意訳せずに表現すると次のようになります。

“もろもろの過ちや罪で死んでおり、それらの中にあってあなたがたは、かつてはこの世界のアイオーンに従って、天空という権勢領域の支配者(アルコーン)に従って、(すなわち)不従順の子らの内に今(でも)働いている霊に(従って)歩んでいた。”

このように訳されても意味が分かりません。「かつてはアイオーンに、アルコーンに従って歩んでいた」とはなんでしょうか。
これはグノーシスの人たちの神話に基づく神名です。

グノーシス主義の人たちは、彼らの神話に基き、アイオーンという天使が堕落して、デミウルゴスという悪魔になり、それが地球とか物質界を創造し、アルコーンという悪霊が空間を支配していると教えていました。
ゆえにパウロは、アイオーンに従って、アルコーンに従ってと記しているわけです。
パウロは神話の存在が、すなわち、悪霊どもだ!と断定しています。
アイオーンとか、アルコーンは、肉体を始めとする見える世界、物質界、そして空間を創造し、また、支配しているとみなしていたわけです。

聖書は、決して、物質界が悪魔によって創造されたとは告げていません。創世記において神は、

“神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。”

と述べています。神が天地を造られ、見える世界をも造られた後、「それは非常に良かった。」と満足されているからです。

しかしギリシャ・ローマ時代には、「物質界や肉体は悪いもの・・。」という思想が芽生えいました。そして人が肉体という牢獄から解放されること、すなわち、死後の世界に行くことが、最大の喜びという考えが存在していたのです。この思想がキリスト教会に強い影響を与えたのです。
救いは、「霊・魂・肉体」の「全人的救済」です。神は、霊も魂も、肉体も祝福して創造されました。
テサロニケ人への手紙の第一の五章二十三節には、

“平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。”

と祈られています。
もしも肉体が悪いものならば、からだは含まれないはずです。神は私たちの霊も魂も肉体も創造し、祝福してくださるのです。イエスさまは、「すべての悪霊を追い出し、病気を治すための力と権威を弟子たちに授けて、神の国を宣べ伝えて、病気を治すために彼らを遣わされた。」とからです。
もしも肉体が悪いものだったら、イエスさまは病を癒すことはなさらなかったでしょう。

今でもキリスト教会にはグノーシス的な影響が残っていて、霊と魂さえ救われればいい!みたいな考えがありますが、そうではなく、からだは重要な神の創造物なのです。それを証明するためにも、イエスさまはご自分からだを再生し、復活させたのです。
ということは、イエスさまの復活は、からだがいかに大切なものであるかの証明です。
『かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者』とあるように、グノーシスの人たちは、空中も、物質界の一部で、アルコーンの支配する領域であると考えていました。