大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
Look! 見よ!

聖書の話とは別ですが、山本七平という思想家・作家がいます。彼の「空気の研究」という著作をご存じかも知れません。彼の研究によると、日本人には、日本人特有の『臨在感的把握』というものがあると言うのです。
『臨在感的把握』とは何かというと、山本によると「物体に何者かが宿っているように感ずるアニミズム的世界観」だと説明しています。日本人は水と空気で支配されていると言うのです。マスメディアが社会の空気を一瞬で変えたりリードするのも、日本人の持っている臨在感的把握が原因だと分析しています。
実際、空気と水に関する用語はたくさんあります。よく使うと思うのですが、「人の気配がする」とか、「雰囲気が悪い」とか、「重苦しい空気だ」とか、「張り詰めた・ピリピリの空気感」とか、「よどんだ」「濁った」「汚れた空気」とか、「しらけムード」とか「盛り上がらない」とか、「居心地が悪い」とか、「過ごしやすい雰囲気」だとか、「綺麗な」「澄んだ」等、別に実態はないのですが、空気感で支配されるのではないでしょうか。
「いや〜、今日の会議の空気は悪かったね〜。でもあの人が話題に水を差したから空気が変わったね。」みたいな会話をよく耳にします。
「KY」という言葉があって、「空気読めない」という意味だと一時はやりました。しかしKYの方、おめでとうございます。臨在感的把握から解放された自由な人です。
日本人がクリスチャンになれないのは、空気感からです。クリスチャンになったら、家の空気が悪くなるだろう・・。会社の空気が、社会の空気が、許してくれないだろうな・・。という空気読みでクリスチャンになれないわけです。
日本人はこの臨在感的把握から解放されないとクリスチャンにはなれません。それは空中の権威を持つ支配者からの解放です。また、そこから解放されたのが、日本のクリスチャンです。
空気を読んでいると、イエスさまのことをなかなか伝えられません。伝道できる人は、場の空気を読まない人です。少しぐらい空気が悪くても、信弘先生のように、商談中でも伝道できる人は貴重です。
今週、空気感に支配されないで福音を伝えましょう。

以前に紹介したことがあるのですが、「神の王国を求めて」という本があるのですが、その十八章に、「神の王国とヘブライ人の手紙」という、デイビッド・モーフィットという神学者の、ヘブル人への手紙の解説が紹介されています。

ヘブル人への手紙十一章十六節、

“しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。”

これを読んでどう感じますか。

「ヘブル人への手紙はしばしばプラトン主義的な霊肉二元論の世界観を持つ書簡として理解されてきた。」と著者は語っています。地上ではなく、天の故郷に憧れていたという記述から、そのように感じさせるわけです。
それは「地上は悪いところだ!死後の世界、天国に行きたい!」というグノーシス的思想ではないかと。

「つまり、この物質な地上世界から逃れて、霊の世界に行くことが救いだとされる世界観に基づく書簡だと考えられてきたのだ。次の一節などは、まさにそのような思想を端的に表したものとされてきた。」と十一章十六節が引用されています。

しかし、続いてこのように解説されています。
「だが実際は、ヘブル人への手紙は霊肉二元論どころか、むしろ人間は肉体と霊の両方が備わってこそ人間なのだという、霊肉一元論を強く主張している書簡なのである。そして、からだのよみがえりの希望と「神の王国」の希望とは、分かちがたく結びついている。」

ヘブル人への手紙は、一見、グノーシスの影響を受けたのではないか?と思われるのですが、詳しく研究してみると、そうではないと言うのです。これはむしろ霊肉一元論を強く主張している書です。そして、からだのよみがえりの希望と「神の王国」の希望は、「分かちがたく結びついている」と言うのです。

「御子は人となられ、人々を罪から聖め、また悪魔の支配から解放してくださった。人間がこのような大きな祝福に与ったのは、その本来の召命、「地を治める」という召命を果たすためだ。地を治めるために私たち人間には「からだ」が必要なのである。死んで霊の状態になってしまえば、その召しを果たすことができない。」
人とはからだを持っていて、はじめて人と言えるのです。からだを脱ぎ捨てた死後の世界の人たちは、人ではありません。現在の家内は人ではなくなってしまいました。幽霊ではないですけれど、魂と霊の存在になったのでしょうね。
死者たちは神の国の一部である「死後の世界」に入っていますが、人としての役割は果たすことはできません。彼らは天の教会で、肉体を持っている者たちに期待しているはずです。「あなたは肉体を持っているでしょう。だから役割を果たしてください!本来の使命、地の管理人として働いてください!」と応援しているはずです。
人は地を治めるために造られた存在です。からだを持っている期間は、この地を治める仕事に従事するのです。やがて地上から出て、死者の国に入ったら、その使命を果たすことはできません。
歳を取ると、「私に何の役割があるのですか?」と、私も含めて、思ってしまうのですが、からだがこの地上に残っている以上、重要な使命が与えられています。死ぬ寸前まで、地を治める使命があります。
家内は枕元に、先日紹介した花たちを置いて、息が絶えるまで、「主を賛美しましょう!」と命じていました。だから今でも、その花たちは咲き続けているのでしょう。

からだは悪魔が創造したのではなく、神が必要として与えたものです。イエスさまの復活は、その証明です。
やがてイエスさまは、この地に帰ってこられます。今年一年の大タイトルとして、「大いなる年 2024 主よ。遅れないでください!」と掲げています。
イエスさまの再臨について、聖書中、最もはっきりと述べられている箇所は、テサロニケ人への手紙第一 四章十五〜十七節です。

パウロは、これは主からのことばだと告げています。

“私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

これは再臨に対する主のみことばです。ここで、復活の順序について述べています。イエスさまが帰って来られる日に何が起こるのか。
「眠った人たちより先になることは決してありません。」とあります。イエスさまが帰って来られる日、最初に、先に天に帰った人たちが復活するのです。
そしてその後、「それから生き残っている私たちが彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちはいつまでも主と共にいることになります。」と告げています。
ここで復活の順序が、はっきりと述べられています。
かつて「left Behind」という映画が流行ったことがありました。突然クリスチャンたちが世界から消えて、地球は大混乱するという映画でした。しかしこの箇所を読むなら、順序が定まっています。「眠った人たちより先になることはない」と、はっきりと述べられています。
ということは、イエスさまの再臨と共に、死者の復活があり、そのあと生きている者たちも栄光の体に変えられ、主イエスと出会い、それから永遠が始まるのです。
「空中で主と出会う」とあります。パウロの時代、まさに空中とはアルコーンに支配されている領域と考えられていました。脱ぎ捨てるべき、不必要な世界と見なされていたのです。地球も、それを取り巻く空間も、悪魔によって創造された悪い世界とされていました。

しかしパウロは、イエスさまが帰られる日、悪と見なされていた、物質の世界で主と出会うと主張したわけです。

肉体にとどまっている間は管理人として、物質の世界を管理する責任があります。その働きは、死者たちにも、天使たちにもできない働きです。それは肉体をまとった人に委託されている、重要な働きなのです。私たちは肉体を持って、主の栄光を現すのです。

今日はイエスさまの復活を記念する日として、イエスさまがなぜ、肉体を回復されたのかについて歴史的背景と共に学びました。やがてイエスさまは物質界のただ中に帰られます。死者は復活し、私たちも新しくされ、この地が神の国となるのです。その日が来ることを心から期待し歩んでいきたいと願っています。

最後に一言お祈りさせていただいて、メッセージに代えさせていただきます。

天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝いたします。私たちに、からだが与えられている事を心から感謝します。霊と魂だけでなく、体も健康であり、祝福されますように。尊いイエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。