岩か砂か

“「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、”

ソロモンのこの願いは聞きいれられ、ソロモンは歴史上最も知恵のある者として、聖書の外でも有名な名前になっているわけです。
この直前の十節には、
“これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。”とあります。
ソロモンの願いが道徳的・倫理的に素晴らしかったというだけでなく、より重要な点は、その願いが主のみ心にかなったということです。主のおもいと合致していた。私たちの願うところ、思うところではなく、ただ主のみ心がなるように、これはイエスさまも十字架の死に際して祈った祈りであります。私たちが望むことを願うばかりが祈りではありません。

生きていると、様々な場面で自分の願望が先立ちます。食欲一つとっても、今日はあれが食べたい、今日は寿司の気分だとか、いや今日は焼肉の気分だとか、とにかく自分の願望が満たされるのが一番心地良い、残念ですがそれが我々人間です。
しかしだからこそ、主のみ声に聞くこと、主に従うこと、主に従って歩む人生に大きな祝福があります。私たちは主の前に大胆に祈ることができます。しかしそれは主のみ心のままにという、態度がなければなりません。

そしてそのような正しい祈りの態度、正しい主との関係があるならば、主の祝福は、そこにとどまらないのです。この場面でも同様でした。続きを見ていきますと、

“そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。”

ソロモンが願った知恵とともに、あなたが願わなかった富と誉れもあなたに与えるよと。私たちの主はこのような神です。

“あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」”

健康も命さえも、主が保証してくださっています。もし私たちが豊かな生活、富や、またいくらかの地位、また命のこと、健康を願い、長生きがしたいと思うなら、なおさらのこと、私たちの祈りはそれらに向けられるのではなく、主に従うこと、主が私たちに望むことを私たちの願いとすることです。そうすれば、すべて与えられます。
マタイの福音書六章三十三節のみことばが思い浮かべられますよね。これも山上の垂訓の中のひとつです。「神の国と神の義を第一に求めなさい。」
これが聖書の原則、祈りの原則です。私たちと主との関係の原則です。

ダビデとソロモンについて見てきました。そんなダビデが歌った詩篇。その背景を考えながら受け取ると、本当に力強いです。二十三篇四節〜六節、有名なみことば、今朝も賛美で歌いました。

“たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。”

ダビデはどんな困難の中でも主への信頼は揺るがず、自分の命をつけ狙うサウルにさえ手をくださず、主に従い続けました。「いのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来る」、先ほど祈りの原則で学んだ通りです。主を第一にすれば私たちが望む「いつくしみ」も「恵み」もむしろあちらから追いかけてきます。
「いつまでも主の家に住まう」主に従い続ける人生です。

そしてまたソロモンの箴言、その冒頭の一章七節、

“主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。”

これも単なる格言ではなく、十二歳で王になり、自分の望むところではなく、民のために善悪を判断し、聞き分ける心を願ったソロモンが語るこの言葉、どれほど重みがあるかということです。自分が獲得するものではない。主を恐れることが何よりも正しい知識の初めだということです。
主を第一とすることがすべてです。そうすればすべて付いてきます。

教会で提供することができる「商品」は聖書しかありません。神のみことば以外ありません。
時に世の中と教会・神の国の領域を比較する場面があるかもしれません。神の国の価値観は馬鹿にされることもしばしばです。相手がクリスチャンでなければなおのことです。
教会では、今日皆さんが私のような者の話を、長時間聞いていただける前提があるわけです。何百人の方が話を聞いてくれる。そんな特権、普通はそうそうないのです。なぜこの場が成立しているか、それもみことばのゆえです。皆さんがみことばに向き合うという心が備えられている上で、委ねられた者がみことばを語るから、この場面が成立しています。
しかし、そうでない場面でも、私たちはみことばを伝えなければなりません。皆さんは私たちよりも、その役目を社会で果たしてくださっていることと思います。先週もお話があった通り、日本人は空気を読み、空気に支配され、ことばすら発せられないものです。しかし、世の中に何も遠慮する必要はないですし、世の中に対して卑屈になる必要はありません。当然ですが、私たちがより頼んでいる聖書のみことば、そして真の神は、何一つ恥じることはありません。またその方に従って生きる生き方も、何一つ恥じることはありません。また、世の中の状況や情報を恐れることもありません。クリスチャンがもう少し大胆に、しっかりと確信を持って、主により頼んで生きる生き方をしていけたら、きっとこの国も変えることができます。

この世の知識、学問の領域は、一見、高尚に、また年々進化しているように感じるかもしれません。しかしそれは裏を返せば、いつの時代においても発展途上であり、五年や十年で考え方が変わるものだということです。以前当然だと思われていた結論が五年や十年後には、別のものに変わります。今や五年や十年どころか数週間、数日で、様々な領域の結論、考え方は大きく変わります。
それらの確立もされていない領域と、天地が滅びても滅びない神のみことばを同列に比較するべきであるはずがありません。
「教会に商品は聖書のみことばしかない」のです。私たち登壇者には、舌べら一枚しか商売道具はありません。私たちはみことばを恥とせずに伝え続けるのみです。

さらに言うならば、ダビデとソロモンの記事でも学んだように、実際には言葉だけではありません。どのような生き方をした人物が発する言葉かで、その重みは全く違ってくるわけです。ですから私たちは言葉だけではなく、生き方そのもので、示す必要があると思うのです。
そのような大それた役割を私自身、果たしていけるとは到底思えません。ですから心から主に祈って、果たすべき役割を、少しでも主のみ心にかなうように果たすことができるように、祈って前に進んでいくわけです。
主を恐れることが知識の初めである。今の世の中にこそ、真剣に適用する必要があると思います。

最近はメディアや社会の状況に対しても言及されることが多くなってきました。個人的にも今のこの時代、悪の現れというのがあまりにもひどい時代になったと感じます。
二〇二〇年以前と、それ以降では、やはり世界は全く違うのではないでしょうか。社会や世界情勢の領域においても、以前よりも大胆に多くの悪が働いていると思います。
悪魔は偶像礼拝の領域にだけ潜んでいるものではないです。あらゆる情報、この世の知識、学問の領域など、人々が当然のように受け取り、疑いもしない領域にこそ存在し、大きな罠を張っています。メディアをはじめ、社会のあらゆる領域に対して、偶像礼拝と同じぐらいの危機感を持って、すべてを吟味しなければなりません。
そのような中で私たちがやることは何か。それは変わりません。神のみことばに立つ生き方をし続けるだけです。

教会は、そういう意味において、世の中とは全く異質のものを提供しているわけで、世の中と違うのは当たり前です。世の中の考え方に迎合するべきではありません。商売や事業がやりたければ、世の中で成功していただければいいのです。そして神に栄光を返していただければいい。そして学問がやりたいのであれば大学を初め、世の中の教育機関で、一生懸命頑張っていただければいい。主のために学んでいただければいい。
人との交りや、人の心を扱う文脈においても、私たちは、互いに助け合い愛し合い前進します。しかし、誤解のないように聞いていただきたいですが、その様な点も、もしもそれのみが教会の集まりの主目的だとしたら、それは違います。そのような機能も社会にも同じようなものは存在します。様々な社交的な集まりが地域にもあり、カウンセリングなどもあります。人と人の結びつきも、それだけが主目的であるならば教会である必要はないのです。
教会というのは、この地上にあって唯一神の国の原理で動く神の機関です。教会とこの世の機関の価値観や求められる機能を、混同し始めると、自分たちが立脚している場所、土台が何かという点が崩れていきます。
しかし、先ほど触れた様々な点、それぞれの領域においても、クリスチャン一人ひとりが真に主に繋がり、主のみ心を第一にし、本来の目的で集う集団であるなら、今度は逆に、社会よりも圧倒的にそれらの領域も、大きな祝福として、その教会に存在しているはずです。もし教会にそういうものを感じない方がいらっしゃったら、それは教会の各器官である私たち一人ひとりが、もう一度主に心を向ける必要が問われているのです。人を指差すのではなくて、自分が変わるということを私たち一人ひとりがしていけたら、教会も、もっともっと主の祝福のあふれる場に絶えず変えられていきます。

このように教会とは何かということも、私たちは今、突きつけられていると思います。マタイの福音書十六章十五節から十七節以降のお話を最後に見て終わりに差し掛かっていきたいと思うのですが、「岩」というキーワードを考える時に、思い浮かべられる場面です。ペテロはじめ、弟子たちの信仰告白の場面です。

“イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。”

この「幸い」も「マカリオス」です。

“このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。”

教会というのは、戦いの最前線に立つ軍事基地です。弟子を代表するペテロ、そもそもペテロという名前が「岩」という意味。当時話されていた言葉、アラム語では「ケパ」、そして後に出てくる「岩」という一般名詞も「ケパ」、ギリシャ語では「ペテロ」は男性形で「ペトロス」、そして一般名詞としての「岩」は、女性形で「ペトラ」。弟子の筆頭ペテロ、そして弟子全体、彼らが脈々と紡いできた信仰、それが私たちにも今この時代に継承され、イエス・キリストへの揺るぎない信仰、岩、それらの前提の上に教会は建っています。
そのように教会を考える時に、いかに私たちが、この地上の取るに足らないもの、私たちの個人的な、地上的な思いを、持ち込んでいないかということを受け取る必要があるかもしれません。

皆さん、お一人お一人、神の国の勇士です。世にあって、その誇りを持って生きていきましょう。世に、大胆に神の国を宣言する存在であり続けましょう。
揺るぎない信仰を持ちましょう。二〇二〇年以降、様々なものが崩れ去ったようなこの時代、今のこの二〇二四年、皆さんの足元は岩ですか。岩の上に立脚し続けましょう。ダビデの生き方を学びました。ソロモンの生き方を学びました。彼らは特別な人ではありません。自分たちもそのように生きればいいのです。

最後に主題のみことばに戻ります。

“ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」”