岩か砂か

二十五節と二十七節を見ると、同じ困難が押し寄せています。どちらかだけがひどくて、他方は軽かったということではありません。同じ困難が打ち付けている。
また、困難が打ち付ける前は、岩の上だろうが砂の上だろうが、おそらくどちらも立派に立っていたと思うのです。見た目では区別がつかない。平常時はそのように建っていた。しかし困難が押し寄せた時、その土台が違えば結果も致命的に違うということです。困難が押し寄せた時にこそ、真価が問われます。その信仰のあり方が問われます。

さらにまた、「賢い人」と「愚かな人」という表現が使われているこの例え話ですが、ここで描かれている人よりも「さらに愚かな人」はどういう人でしょう。砂の上に家を建て、ひどい崩れ方をしたのに、もう一度砂の上に家を建てる、これが一番愚かな存在ではないでしょうか。そして社会は、特にこの国はそれをし続けているように感じて仕方ありません。その様な社会に対するある人の指摘をご紹介します。

「この数十年間、「贅沢」と「快楽」と「楽」ばかりが増えて、それを日本人は「発展」だ「進歩」だ、果ては「幸福」だと勘違いしてきて、結局、その「贅沢」と「快楽」と「楽」のツケを色々な形で今、支払わされている。」
ハッとさせられませんか? 真理を知らない人からもこの様な指摘が上がる世の中です。今日の主題とも重なります。

岩の上に家を建てましょう。
「岩」だと思っていたものが砂だったということが、この四年間でもたくさん起こったのではないでしょうか。もしそうならば、方向転換をして生き方を変えなければなりません。岩か砂か点検しましょう。
結論は簡単。主を第一にすること。主に従って生きること。岩の上に家を建て続けること。その上で私たちも堅い岩のような信仰告白と共に、主と共に生きていくこと。私たちクリスチャンがすることは、いつの時代もそれだけです。

お祈りして終わりにしたいと思います。

天の父なる神さま、み名をあがめます。今日みことばによって、もう一度私たちは心を新たにし、私たちの生き方、人生の土台が岩であるか砂であるか、みことばにより、あなたの前に出て、真摯にこのみことばを受け止め、私たち自身を、点検します。
今、私たちは岩の上に家を建てたいです。簡単にもろく崩れ去るこの世の価値観ではなく、本当に硬い硬い岩盤であるイエスさま、あなたの上に私たちの人生をこれからも建てあげていきたいです。どうかそのための力強い油注ぎを私たち一人ひとりに与えてください。
ダビデがあなたに従い続けたように従います。そしてそのダビデの故にその子ソロモンにまで及んだあなたの圧倒的な祝福を、霊的な祝福を、どうか私たち一人ひとりにも、ここにおられる兄弟姉妹一人ひとり、またその家族・親族、またこれから生まれてこようとする世代に至るまで、与えてください。
この困難な時代にあって、私たちはもう一度、ただ純粋にあなたに従い続けることを選択します。岩の上に立ち、岩のような信仰告白を私たちも持ち、進んでいくことができるように、新しい年度に入っているこの四月に新たな力を与え、また復活の主の大いなるわざを私たち一人ひとりに現してください。イエス・キリストのみ名によって感謝してお祈りします。