大いなる年
2024
主よ。遅れないでください!

海老村のリバイバルでは、新城をターゲットに伝道したと言うのです。この近くに「平井」という地域がありますが、かつてそこには教会がありました。「新城の教会員数は二十名」という記録があります。教会の近くに東郷西小学校があります。当時の校長はクリスチャンで、国家神道のただ中、毎朝、教育勅語の朗読があったそうですが、校長は読むことを拒否したというのです。「教育勅語は聖書の精神に反する!」と言って拒否したのです。教育勅語は儒教の精神で書かれた、国家を神道でまとめる為の策略でした。すごい信仰の校長先生ですね。そんな人物も新城にいたというのです。
新城で教会が滝元明によって始められたのも、決して偶然ではありません。皆様方がこうして新城教会に集ってくださっているのも、決して偶然ではなく、一人ひとりに大きな役割があるのです。歴史を振り返ると、その流れを発見できます。

「福音とは何か」についても、新年の集会でお話しさせていただきましたが、人とはすべての被造物を支配するようにと神から、「被造物の管理人」として、創造され、任命されたのです。そして管理人の役割を回復したのが、クリスチャンです。イエスさまは、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と語られました。
しかし、「者」が、人だけではないとお話しさせていただきました。先日、岩波文庫から出た、岩波訳聖書を見ますと、『全世界に出て行って、すべての被造物に福音を宣べ伝えよ。』と訳しています。福音とは、人だけでなく、すべての被造物の為のものです。人以外の被造物にも福音は伝わるなんて、すごいですね。神は人間を通して、すべての被造物を豊かに回復しようと願っておられます。
またパウロはこう語っています。
コロサイ人への手紙一章六節、

“この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。”

日本宣教は遅々として進まずに、なかなか大変です。プロテスタント宣教が始まって、百五十年以上が経ったわけですが、国民の一パーセントの壁を越えることができない状況です。
パウロは福音伝達が困難であることを十分に体験していました。しかし同時に、福音が勢いを持って広がる光景も見たのです。なぜ勢いよく広がるのだろうか。その理由についても述べています。「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解してから、実を結んで広がり続けている!」と結んでいます。福音の拡大は私たちが福音を、「本当に理解するか否か」にかかっているというのです。

続けてパウロは、コロサイ人への手紙一章で福音の全容について説明しています。
二十〜二十三節、

“その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。”

彼は「すでに聞いた福音の望みからはずれるな!」と警告しています。その内容は、第一に、福音は天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている、すなわち、「人だけでなく、すべての被造物のため」なのです。
二十節について、ある聖書学者が「キリスト教の救済論とは何か」について定義しています。

“キリスト教の救済論は、コロサイ一章二十節の、ほとんどこの一節に要約されている。万物、すなわち地上・天上のすべてのもの、人間も動物も植物も無生物も、個人も社会も国家もキリストによって、神と和らがせることが神の欲し給う処であり、悦び給う処であった。”

救いは人だけでなく、すべての被造物に対するものなのです。それを理解すると、福音は自動的に世界に広がると告げています。

二〇二四年、福音とは何か。人の救いだけでなく、被造物全体への福音であることを、もう一度、心に刻みたいものです。そうしたら福音は自動運転します!ということです。

詩篇百四十八篇では、すべての被造物が主をほめたたえ賛美するように命じています。五節と十三節は、『彼らに主の名をほめたたえさせよ。』と命じています。これが人の役割です。
身の回りのすべての被造物に、主の名をほめたたえさせるのです。家のペットにも、「主を賛美しろ!」草花にも、「主を賛美しなさい!」と命じる事は福音宣教そのものです!

ローマ人への手紙八章においてパウロは、

“今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。”

当時は迫害の嵐が吹き荒れていた時代でした。主を信じる者たちが、日々、ローマ帝国によって迫害され、処刑されている時代でした。クリスチャンになったら試練がある!なんてこった!と思っている人たちも多くいたかもしれません。しかしパウロは、「試練は人だけでなく、被造物全体のうめきで、彼らもまた、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる。」と語っています。
これは何を意味しているのか。「神の子どもたち」とは、クリスチャンたちです。私たちは、内にこもっているのではなく、被造物の切実な思いに耳を傾けて、彼らに福音を宣言しなければならないのです。
以前に何度もお話しさせていただきましたが、「切実な思い」とは、「アポラカドキア」と言う言葉が使われているそうです。文字通りに訳すと、「頭をまっすぐに延ばして観察すること」です。
ミーアキャットみたいに、周りを眺めて「俺たちのことを理解するクリスチャンはいないのか?」とうめき神に祈っているのです。

今年、福音を正しく理解して実行したら、人は被造物の管理人ですから、被造物は管理され、変化するはずです。能登で起こった地震も、ある意味、地球のうめきだと思うのです。地球は地表面の人類が悪ばっかりを行っているのを見て、悲しんでいるはずです。戦争や殺人による流血は土地を汚します。それで彼らは時に、身震いするのかもしれません。
聖書から地震について調べると、聖書は地震をただ単なる地球の蠕動運動だけでなく、霊的世界と繋げて語っています。地球がうめくことなくストレスを発散し、大きな地震に発展しないよう、祈らないといけません。
新城市には中央構造線という、最大の断層が走っています。日本列島は豊川の右岸と左岸では、全く違った地質です。かつてはお互い、違う島だったのです。二つの島がドッキングしたのが日本列島です。その境界線が中央構造線です。新城市の上を通過しています。新城市の住民が地震からの守りを祈るのは使命です。なぜなら、地球をはじめ被造物たちは、自分たちのうめきを聞いてほしい!と神の子どもたちに願っています。私たちが彼らのうめきを聞き分ける耳を持ったら、福音は勢いよく広がります。
二〇二四年の幕開けは大地震でした。主の民に任された、被造物管理という役割をしっかりと見据え、受け取らなくてはいけません。
詩篇八篇六〜九節、

“あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。”

人にはすべての被造物を治め、管理する仕事が任されています。その働きの実行を、強く求められる時代に来ているのではないかと思います。

新年礼拝にも、お話をさせていただきましたが、家内が一年半近く前に鉢植えし、病床から見えるベランダに置いて、最後まで愛していた花たちが、枯れては再生し、現在、四度目の花を咲かせています。本日の「奇跡の享子花」です。こんなに美しく咲いています。一年半咲き続けています。家内は召天する数日前まで、「主を賛美しましょう!」とか、「私のために祈ってちょうだい。」と話しかけていました。
 この花たちは私への慰めと希望になっています。切り株状態から芽を出す花たちを見ると、復活のイエスさまを感じさせます。また、そのうちに枯れるかもしれませんが、五度目の復活があるかどうか楽しみにしています。路地に植えているわけでもないですし、世話もしていません。ただ、外に出してあるだけです。花たちの回復を見る時、聖書が告げる死者の復活をも信じることが出来ます。イエスさまが帰って来られる日、死者の復活があると教えています。被造物である花たちが復活するならば、人だって復活するに違いない!のです。

最近、農業を始めた方がおられるのですが、初めてネギを作ったそうです。ネギたちに「主を賛美しなさい!」と命じながらマッスルファームではネギの世話をしました。すると、筋肉モリモリのネギができた!と喜んでおられました。家庭菜園にも、「主を賛美しろ!」と宣言してください。
 私たちは被造物の管理人であることを、少し忘れていたかも知れません。これからもっとその領域を深めて行きたいです。

そして、最も管理しなければならない存在は何か?それは、目に見えない敵である「悪魔と悪霊ども」です。悪魔悪・霊どもは元天使たちです。被造物なのです。
詩篇八篇を見れば、五節(新改訳第三版)に、

“あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。”
とあります。
しかしこの箇所、新改訳2017だと、『あなたは、人を、神より』ではなくて、『天使よりいくらか劣るもの』と訳しています。「エロヒーム」という言葉が、「天使」とも訳すことが可能らしいのです。しかしほとんどは「神」と訳されています。人が神よりちょっぴり劣る存在なのか、天使より劣る存在なのかで、霊的戦いの模様は全く変わります。人が管理人ということは、他の被造物の全てが任されているはずです。例外はありません。堕天使どもも、我々の足の下にあるのです。敵の力を打ち破る権限が、神から人に与えられています。

私たちが悪魔・悪霊どもに立ち向い勝利する時、イエスさまは地上に戻ってこられます。

今年は霊的戦いを更に激しく、前進させなければなりません。
コリント人への手紙 第一 十五章二十二〜二十五節。

“しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。”

既にイエスさまの十字架の死と復活によって、悪魔に対して勝利は取られています。しかし、地上には、敵の残党である悪霊どもが残っています。パウロはそれらを「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力」と述べています。これはただ目に見える組織ではなく、見えない悪霊どもの組織です。それらに対して、教会が立ち向う時、イエスさまは地上に帰ってこられ、神の国が実現するというのが聖書の教えです。

先日、この教会に来ている一人の少年に、イエスさまが夢の中に現れて語りました。
「お前たちが偶像の背後に働く悪霊どもをやっつけないから、わたしはなかなか帰ることが出来ない。悪霊どもをやっつけろ!そうしたら、わたしは帰ることができる!」と、夢の中で語られたと言うのです。
その夢は聖書に述べられている通りです。私たちが手をこまねいて、暗闇の支配者たちを管理しなければ、イエスさまの再臨は遠のくのです。時代が延びれば、地獄の人口だけが増えていきます。どこかでこの悪いサイクルをストップさせなくてはいけないのです。その責任が、教会にはあるのです。