主があなたがたのために戦われる

2023年6月11日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

出エジプト記14章13節〜16節
モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」
主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日こうして皆さんとともに偉大な主を賛美し、霊と真を持って礼拝をささげることができる、この時が与えられていることを心から感謝いたします。
この梅雨の時期、どんよりした雨模様だと気持ちがふさぎ込んでしまうような季節かもしれませんが、この雲の上にはいつも太陽があるように、変わらない光なる主が今日も私たちともにおられることを覚えて、皆様とともに、主に期待してこの礼拝のときを守っていきたいと思います。

今日は、出エジプト記十四章十三節から「主があなたがたのために戦われる」というテーマで、みことばを学んでいきたいと思います。
主ご自身が私たちのために戦ってくださる、偉大な主が私たちともにおられるということを、今日、皆様とともに覚えていきたいと思います。

この場面は、イスラエルの民が奴隷となって苦しむ中、主に助けを叫び求め、主がモーセをリーダーとして立てて、イスラエルの民を救出してくださった場面であります。そして信じられないような奇跡を主が行なってくださるのです。紅海が分かれて、イスラエルの民はエジプトから逃れることができた。そのような場面でありますけども、その背景を少し見ていきます。
アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの民は、約束の地カナンに住んでいました。その中で、ヤコブ子のヨセフが、兄弟の仲違いで悲しい事件の中、兄弟たちに奴隷としてエジプトに売られてしまいました。そのような状況において主はヨセフと共におられ、主ご自身のご計画の中で、ヨセフはなんとエジプトの王に次ぐ権威のある大臣のような立場に立たされることになりました。そしてパレスチナの地方に飢饉があり、兄弟たち、またヤコブたちは大臣になったヨセフを頼って、エジプトへ移住することができたわけです。イスラエルの民族がこの危機的な状況から逃れることができました。
そして神さまは異国の地においても変わらずイスラエルの民を祝福してくださり、イスラエルの民は増え広がっていきました。そんな中でだんだんと時代が経つにつれて、ヨセフのことも知らない民が増え、そして新しい王も立てられていきました。
そして新しい王は強靭なイスラエルの民に恐れを抱いたのです。もしも彼らが反逆したら、エジプトにとってはとても不利益だということで、過酷な労働を課してイスラエルの民を管理しようとするわけなのです。そんな中でイスラエルの民は、真の主に「助けてください!」呼び求めて、主がモーセをリーダーとして、イスラエルの民を救出してくださるということです。
そしてこの出エジプト記の十四章の直前の場面では、神さまご自身がエジプトの地で素晴らしい十の奇跡を行ってくださり、ついにイスラエルの民はエジプトを脱出したばかりの場面でありました。
エジプトの王は、大切な労働力のイスラエルの民を逃してしまったとすごく惜しく思ったのです。ですからそのイスラエルの民をもう一度引き戻そうと、王様自身がエジプトの軍勢を率いて、イスラエルの民を追いかけて行くのです。それも「選り抜きの戦車六百」という精鋭部隊を率いて、エジプト軍がイスラエルの民を追って来るわけです。
そんな中でイスラエルの民はどこにいたかというと、紅海に面した所にいたわけです。それも神さまご自身のご計画でありましたが、目の前は海、後ろはおびただしいエジプト軍という、逃れの道がない、八方ふさがりのような状況の中、イスラエルの民は非常に恐れていました。そんな中でモーセを通して、神さまがイスラエルの民に語られた言葉が、先ほど読んでいただいた言葉であるわけです。

「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

主ご自身が戦われるということを、この究極的な状況の中で神さまが語ってくださったわけです。
では、十の奇跡を経験したイスラエルの民は、「また再び、神さまは奇跡を現し私たちを助けてくださるんだ!」という信仰を持っていたか、主に信頼をしていたかというと、そうではなかったようです。出エジプト記十四章九節〜十二節を見てみます。

『エジプト人は彼らを追った。ファラオの戦車の馬も、騎兵も軍勢もことごとく、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」』

素晴らしい奇跡を経験したにも関わらず、イスラエルの民は神さまに対して不信仰・不信頼を表してしまっているわけです。
しかし生きるか死ぬか。またエジプトの地で再び過酷な奴隷生活に戻るかという恐れの極みの中で、このように言ってしまうことは、当然のことなのかもしれないとも思います。私自身弱い者で、神さまがここまで導いてくださったのにも関わらず、困難な状況に出会うと、今まで神さまがしてくださったことをすぐに忘れてしまうような者であります。このイスラエルの民も、自分自身の力ではどうすることもできない、コントロールできない現実の問題に直面したわけですから、恐れるのは当然だと思います。
皆さんは車で今日来られた方もたくさんおられるかと思いますけども、車の運転、皆さん得意でしょうか。得意ですね。今日事故に遭わずに来られましたね。車の運転をドキドキ不安に思いながらされる方は、そんなにたくさんいないのではないかなと思うのですが。
何年か前、私がアメリカに行った時に、セスナ機を持っている方がおられて、乗せてもらうチャンスがありました。上空を気持ちよく飛んでくださいました。私は操縦桿がある副操縦席の所に座らせてもらっていたのですが、「じゃぁ今からあなた、この操縦桿を握って運転してくれるか。」と言われました。私はすごくドキドキしながら操縦桿を握りました。隣でちゃんと操縦士の方がおられて制御してくれているので安心だったのですが、皆さんの運転している車のハンドルが急に飛行機の操縦桿に変わったらどうでしょうか?不安に思いますよね。ドキドキしますよね。今まで自分で経験したことがないこと、自分で制御できないかもしれない、そんなことに直面すると、誰しもが不安になったり、心配したり、心揺らいだりすると思うのです。そのように感じるのは当然なことなのです。
そのような状況において、神さまご自身は、「恐れてはならない。わたしがあなたのために戦います。」そんなふうに語ってくださっているわけです。

では、この神さまご自身の素晴らしい紅海を分ける奇跡を受け取っていくための鍵となることを、私自身が教えられていることですが、見ていきたいと思います。
十四章十三節・十四節、

『恐れてはならない。しっかり立って、』

とあります。また、

『ただ黙っていなさい。』

とあります。おびただしい大軍が来ているのにも関わらず、神さまはイスラエルの民に、何か武装して戦いの準備をしろとかではなく「しっかり立ちなさい」また、「黙っていなさい。」と言うのです。危機的な状況が迫ってきたら叫びたくなる気持ちになりますよね。でも「黙っていなさい。」ということなのです。
ここから、私自身が思い浮かんだ聖書箇所があります。それはヨシュア記六章十節です。

『ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」』

あの約束の地に入っていく最初の戦い、エリコの場面ですけども、町の周りを回るときの声を上げるということですが、それまで神さまは民に「声を出してはいけない。」と言いました。黙っていなければならなかったわけです。難攻不落のエリコの要塞都市、目の前にはそそり立つ城壁、大きな戦い、障害、問題・課題を目の前にして黙って回るわけです。

そしてもう一つ、『しっかり立っていなさい。』ということで、第二歴代誌二十章十五節/十七節、今年、私自身が神さまご自身から与えられているみことばの箇所の一部になりますけども、アモン人、モアブ人、セイル山のおびただしい大軍が南ユダの人たちを襲ってきた時の場面であります。

『彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」』

この戦いの場面で、「しっかり立って動かずにいよ。主の救いを見よ。」と、出エジプト記十四章の言葉にも似通ったところがあります。今日、皆さんの中で、人間の力では、自分の力では解決できないような大きな問題に直面しておられる方もおられるかもしれませんけが、神さまの奇跡を受け取る最初の秘訣として、神さまが私たちに求めておられることは、恐れないで、しっかり立って、黙っていなさい。ということなのです。
この戦いの状況の中で、危機的な状況の中で、黙る、しっかり立つ、動かない。それは何を表すかというと、神さまへの信頼であります。しっかり立て黙って何もしないということではなくて、これはもっと能動的な、「主に信頼する」ということを意味しているということを教えられます。
私たちの信仰の歩みというのは、主を信頼することであります。詩篇三十七篇五節〜七節、

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。』

とあります。
主が成し遂げてくださる。主にゆだねて、主に信頼することです。私たちはしっかり主の上に立たせていただいて黙る。これは主に信頼していくことを選ぶ。それがまず神さまの素晴らしい奇跡を受け取っていく大切なことであるということを教えられます。

しかし「主に信頼する」というのは、なかなか難しいことだと思います。特に現代社会において、「情報化社会」なんていう言葉で片付けられないほど私たちの周りに情報が溢れています。
スマートフォン一つ持っていれば世界の情報はどんどん入ってくるわけです。それが真実な情報であっても、偽りの情報であっても入ってきます。何でも物がインターネットに繋がっている時代になってきています。Alexaという機械があります。「Alexa、電気つけて。」とか、「音楽かけて。」と、とても便利ですね。「今日の天気は?」と聞けば、すぐに答えてくれます。
そして、私たちが自分の力で制御できない、自分が経験したことがない問題や課題に直面すると、すぐインターネットで調べますよね。今の時代、簡単に調べることができます。そしてその情報をもとに、自分が直面している問題や課題をコントロールしようとする、制御しようとするというところがあるのではないでしょうか。その情報によって自らを武装するようなことをしているのではないでしょうか。
直面する現実に対して対処するために情報を得ることは大切なことではありますが、それは本当に信頼するべき主に信頼することを忘れさせさせてしまっている。邪魔させているものであると感じます。問題を解決してくださるのは主であるにもかかわらず、そのような頼りにならない情報をいっぱい集めるのです。そしてその情報にちょっと不安なことがあると、心揺さぶられて余計に心配になってしまいます。情報をいっぱい集めようとする態度というのは、エジプト軍を自ら引き寄せて、自ら不安や恐れを煽らせている、そんな態度ではないかなということを教えられます。私自身もそのようにしてしまうようなところがありますので、本当に信頼すべき主に信頼することを選べるようにということを、私自身教えられておりますけども、共に学んでいきたいと思います。