主があなたがたのために戦われる

アダムとエバのことを思い出すと、アダムとエバは善悪を知る知識の木の実を取ってはいけないと言われていました。しかし「神のようになれるよ。本当に取っちゃいけないのか?」と悪魔に誘惑されました。そして神のようにすべてをコントロールできる、制御できる、その誘惑に彼らは負けて、罪というものが人類に入ったわけです。人間の性質の深い部分で、「コントロールしたい。」「自分自身ですべてを制御したい。」そんな思いがあることを覚えます。そのような性質を持つ人間でありますが、私たちは主に信頼するということを選べる器となって主の奇跡を受け取っていきたいと教えられています。

「信頼する」ということで、もう少しお分かちしたいと思います。第一ペテロ五章六〜七節、

『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

「へりくだる」と聞くと、何か「この人は素晴らしい。」と、人を持ち上げるような、また神さまを持ち上げる、そういったイメージがありますが、この言葉のギリシャ語の意味合いには、「①自制に頼ることを捨て去る」、自分自身でコントロールすることを捨て去るという意味合い、また「②肉的な自我、うぬぼれ、自尊心を空っぽにする」、そんな意味合いがあるというのです。自分自身を捨て去って、そしてその代わりに完全なる主に頼るという、そのような意味合いがこの「へりくだる」ということにあるのです。
主により頼むことは、自分自身の力で何か主に寄り頼むことを掴もうとする、選ぼうとするのではなくて、むしろ私たち自身の内なるもの、握っている必要のないものを捨て去っていくということが、主に頼ることの秘訣だというのです。その時に完全なる主ご自身が私たちの中に働いてくださるのです。弱さの中に完全に主が働いてくださるというみことばもあります。私たちが弱くなって、何も握ることがなくなったときこそ、主ご自身に頼ることができ、そして主ご自身の完全さが私たちの中にあらわされるわけです。ですから、自分自身でコントロールすることを手放して主に委ねていく。そうすれば主が心配してくださり、主の素晴らしいみわざをあらわしてくださるのです。

八方ふさがり、目の前に逃れの道もないイスラエルの民に、主に信頼するということを求めておられます。「一生懸命あなたたちで海をかき分けて道を作りなさい。」と、私たちにできないことを神さまは求めておられるわけではないのです。私たちにできること、「主に信頼してくれないか」と語っておられます。

先日、南アフリカから牧師先生が来会され、素晴らしい賛美をささげてくださいました。福音を伝えることに燃えた方でありました。この方と交わりをする中で、たくさんの証を聞きました。
その一つの証で、お子さんたちご家族が東南アジアで開拓伝道していた話をしてくださいました。十数年経ち、教会も大きくなり、そろそろ現地の方に引き渡して、次の宣教地へ出て行こうと準備の期間であったそうです。
その準備の期間の中で、なんと新型コロナウイルスが全世界でまん延して、その国がロックダウンされてしまったのです。まさに八方ふさがり、逃れの道がないというような状況でありました。
更にその国には南アフリカの領事館がなかく、助けを求める場所がありませんでした。ですので本国の外務省の方に連絡を取ったそうです。すると隣の国に領事館があり、その隣国の南アフリカの領事館の方と連絡を取り合うことができ、なんと「あなたたちのために飛行機を用意するから準備しなさい」と言われたそうです。他の南アフリカの方々もその国に在籍されていたので何十名かの方々のために飛行機が用意されたということなのですが。しかしその飛行機が来る日にちは、飛行機が来る三日前にしか知らせることができないと言うのです。その頼りになるかならないか分からない情報ですが、そこしか頼ることができないので、信頼して、家財道具を全部売り払って、スーツケース二個だけにまとめて、準備をしたそうです。
そして飛行機の来る三日前に連絡があり、「夕方五時に飛行機が来るから、空港に三時に来るように」ということを言われたそうです。その人を信頼して、空港に向かいました。夕方五時に飛行機が来るということでしたけど、五時になっても、六時になっても、七時になっても、八時になっても、飛行機が来なかったのです。回りの人たちがだんだん心配になって、「飛行機は来るのかなぁ」なんて話していたそうです。
しかし宣教師のお子さんが言ったのは、「あの領事館の一人の方を信頼しよう。」とみんなを励ましたそうです。そして九時を過ぎて、遠くから二つの光が見えたそうです。それはバスでした。バスの中で出国用の書類を書かされ、そのバスが到着したのは、飛行機の場所でした。その飛行機に乗って、本国、南アフリカに帰ることができたというのです。そのことを通して、一人の方を信頼する大切さということを学んだというお話を聞いて、とても恵まれ、また教えられました。
八方ふさがり、逃れの道もない、そのような状況の中にあったとしても、神さまは既に道を用意されているということを覚えていきたいと思います。
イスラエルの民は紅海を目の前にして、逃れの道はなかったわけです。でも紅海が分かれて、道ができるわけです。海に覆われているのですが、もう道は用意されていたわけです。主の側では用意されていたわけです。ですから私たちがなすことは、神さまが私たちにしてほしいことは、主に信頼してほしいということですね。
たとえ目の前に道が見えなくても。将来と希望をふさいでしまうような問題、課題に直面していたとしても、既に主の道は備えられている、素晴らしい主の勝利と約束の地への道、安全な道が用意されているということを覚えていきたいと思います。

そして神さまはただ「信頼しなさい」と言うだけでなくて、主が戦ってくださるわけです。また、主の完全なる守りがあると励ましてくださっています。出エジプト記十四章十九節〜二十節、

『ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。』

神さまのご臨在が後ろに回って、敵から隔てるのです。私たちを完全に守っていてくださるわけです。今私たちとともにおられる主が、私たちを守っていてくださるので、私たちは恐れることなく、大胆に主に信頼するということを選んでいきたいと思います。

そしてさらに「信頼する」ということから進んでいきたいと思います。この海が分かれる奇跡を受け取る、もう一つの鍵となることを見ていきましょう。十四章十五節・十六節、

『主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。』

モーセが神さまのみ声を聞いて、何の意味があるだろうかと思ったところもあるかもしれませんが、言われたままに杖を海に向かって上げ、手を上げたわけです。ここにもう一つの鍵があると教えられます。
まず今まで見てきましたけども、「①黙る:主への信頼/神さまのみ声に聞く」ということです。神さまは私たち一人ひとりに語ってくださいます。神さまの声を聞いていても、私たちがキャッチできなくても、神さま常に語ってくださっております。
ちょっと話はそれますけども、先日、私の息子は、バプテスマを受けることができました。本当に主の導きでした。洗礼を受ける三週間ぐらい前でしょうか。彼がお風呂に入っていました。潜って、ぶくぶく遊んでいるなぁと思ったのです。そうしたら、「俺はいつ洗礼受けれるんだ?」と言い始めたのです。洗礼の話は、何ヶ月か前にしていたのですが、なかなかタイミングもなく、先延ばしになっていたところもあったのですが、彼から洗礼のことを話し始めたのです。
なんでかなぁと不思議に思ったのですが、なんと彼が、神さまの声を聞いたみたいです。「洗礼を受けると、いいことがあるよ。」そんなふうに語ってくれたと言うのです。そんなことを聞いて、神さまが導いておられるということで、先延ばしにしていたことを悔い改めて、洗礼の準備を始めました。そして、図らずもペンテコステの日、聖霊さまが注がれた記念の日に洗礼を受けることができるように導かれました。本当に神さまは誰にでも語ってくださる方ですから、主のみ声を聞く者となっていきたいと思います。

そしてまた聖書に戻りたいと思います。次は「②手を上げる」という行為です。この手を上げるという行為は、まずは神さまに降参、全き献身という意味があると思います。そして祈り、賛美です。この詩篇百四十一篇の二節の中では、『私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。』と、手を上げるということが祈りを示すというようなみことばもあります。
また詩篇百三十四篇一節でも、『聖所に向かってあなたがたの手を上げ主をほめたたえよ。』と、手を上げて私たちも主をほめたたえますけど、そのようなことをモーセが杖を上げて、手を上げた中に、全き献身と、また祈りと、賛美。私たちが普段行っている、礼拝で行い、また日常生活で行っていること、そこには大きな神さまご自身の奇跡を受け取る鍵があるということを教えられます。

そしてもう一つは、「③聖霊さまの訪れ」を教えられます。この海が分かれる時に、一晩中強い東風が吹いてきました。出エジプト記十四章二十一〜二十二節にあります。一晩中、絶えざる強い風、これは聖霊さまの風だということを私自身覚えさせられました。ただの風ではなくて、聖霊さまの風ですね。今は教会の時代、聖霊さまの時代です。今この時に私たちが求めるものは、聖霊さまの絶えざる訪れだと思うのです。一九九二年に新城教会に激しく聖霊さまが訪れてくださり、またその前からも聖霊さまはともにおられましたけども、激しく激しく、さらに聖霊さまが絶えず絶えず、私たちのただ中に、私たちの職場や、学校や、家庭や、遣わされている所、聖霊の宮とされた私たちのただ中に聖霊さまを一晩中、絶えずお迎えしていくということが神さまの素晴らしい奇跡の道を歩む鍵だということを、私自身教えられております。

この「①主への信頼」、「②手を上げる:献身/祈り/賛美」、「③聖霊さまの訪れ」、神さまは難しいことを私たちに求めてはおられないですよね。しかし、やはり問題に直面したり、私自身、恐れおののいたりするとき、この事は難しいわけですけども、今日、ともにおられる主がおられて、「わたしがあなたのために戦う」と、語ってくださっておりますので、その励ましを私たちは受け取って、この主への全き献身、祈り、賛美、聖霊さまを求める、主に寄り頼むことを選んでいきたいと思います。

そしてついに紅海が分かれて、乾いた地をイスラエルの民は渡り切って、そしてエジプト軍から救われるわけです。そのときは、どうなったかというと、十四章二十二節、

『そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。』

海が壁になったのです。不思議ですよね。どんな光景かなと思うのですが、ちょっとインターネットで調べて、このような画像がありました。

今まで道を閉ざしていた海が、今度は右と左に分かれて、乾いた地を引き出し、安全な逃れの道を、またその先には約束の地への道を用意するために用いられたということです。イスラエルの民にとって、逃れの道をおおっていた海ですよ。恐れの原因、苦しみの原因、そのようなものが、イスラエルの民を安全に約束の地へと、逃れの道へと導くための壁になったわけです。
今、私たちが直面している恐れを抱かせるような、心揺さぶられるような不安や心配にさせられるような事柄、将来と希望を覆ってしまっているような、道を閉ざしているようなものが、主のみ手の中で、それが用いられて、壁となって、さらに神さまご自身の安全な道を引き出すために用いられる、そんなイメージを今回、この出エジプト記を通して神さまに目を向ける時に、神さまからこのような思いをいただきました。決して私たちが直面しているものは、道をただ塞いでいるだけでなくて、すべてを相働かせて益としてくださる神さまが、必ずそのことを通しても、それを用いて道を作ってくださる、そんなことを教えられました。