天の宝

2023年8月13日(日)新城教会牧師 四元雅也

ルカの福音書12章33節

『自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。』

ハレルヤ!主のみ名をほめたたえます。今日こうして皆さんと共に神さまを待ち望んで礼拝をささげることができることを心から感謝したいと思います。
十一日くらいから夏休みにこの地域でも入っているのではないかと思いますけども、皆さんいかがお過ごしでしょうか?
私も夏休みというわけではないのですが、昨日は少し望さんの家に集まってバーベキューをして交わりの時を持たせていただきました。
兄姉と一緒に楽しい時間を過ごすことができて心から感謝しています。
この時期、ご自分の故郷・家族のもとに帰省をされている方たちもいらっしゃるのではないかなと思います。逆にいつもは来られていないような方が集っているかもしれません。どうかこの礼拝が終わった後、お互いに挨拶をしながら、また交わりの時を持っていただきたいと思います。
この夏休み、今週も続いていきます。先ほども祈りの中でも触れられていましたけども、偶像礼拝の行事もこの時期盛んに行われるような時期でもありますので、祈りと共に過ごしていけたらと、そんなふうに思います。
また、台風が日本に近づいておりますので、台風も主を賛美して、そして日本に大きな災害がもたらされることがないようにお祈りをしていきたいと思っております。

さて今日はお読みいただいたみことばの中からお話をさせていただくわけですが、メッセージタイトルであげさせていただいている「天の宝」について、今日は考えていきたいと思います。
皆さんご一緒に言ってみましょう。「天に宝を積みましょう。」『天に宝を積みましょう。』はい、ありがとうございます。この言葉は、よくメッセージなどでお勧めされる言葉ではないかなと思うのですが、よくあるのは、献金について語られる時とか、あるいは教会の中で奉仕をささげるなど、どちらかというと神さまの前に直接的な何かをすることについて励みましょう!と、そういうふうに語られる、そういうフレーズではないかなと思います。
「天の宝」というタイトルを聞いて、皆さんの中では「またあの話か。」と、私がお話しする前に内容まで読んでしまうような方もいらっしゃるかもしれませんが、「天に宝を積みましょう」というのは、聖書のみことばによって命令されている、イエスさまご自身によって語られた、私たちクリスチャンにとってモットーのようなフレーズです。

でも今日は少し違った意味合いで、天の宝を積むことが、イエスさまご自身によって語られているわけです。
先ほどお読みいただいたみことばを、もう一度注意深く読んでみたいと思います。皆さんでご一緒に読んでみましょう。ルカによる福音書十二章三十三節、

『自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。』

ここでは、一見教会とは関係のないようなこと、「施しをする。」そういう行いと天に宝を積むことが関連付けて書かれているわけであります。
もう一つ別のみことばを読んでみたいと思います。ルカの福音書十八章二十二節、

『イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」』

ここでも、あなたの持ち物を神さまのためにとか、教会のためにとかいうわけではなくて、「貧しい人に分け与えなさい。そうすると天に宝が積まれます。」というふうに書かれているわけです。
これと同様なみことばは、実はマタイとかマルコにも書かれています。今回このみことばを改めてよく読んで、そしてその意味を考えた時に、私自身がここ何年かにわたって教えられて、この場所やセミナーの場所などで皆さんと分かち合ってきたこととも結びついて、それで私自身とても励まされたのです。
今日は、これはイエスさまご自身が語られたみことばでありますが、このみことばのエピソード、このみことばが書かれた状況、そしてまたその前後の文脈というものを考えて、それを中心にメッセージをさせていただきたいと思っております。

このことばが語られた場所、これはルカの福音書十八章十八節から書かれている一つのエピソードですが、どんなエピソードか、少しかいつまんでお話をさせていただくと、イエスさまの所にある日、ある指導者が訪ねてきました。「ある指導者が」と書いてあります。
そしてイエスさまのもとに訪れて質問をするわけです。「私は何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができますか?」という内容の質問でした。イエスさまはこのように答えられます。十八章二十節に書いてあります、「戒めあなたもよく知っているはず。姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。」こうイエスさまが答えられたわけです。その人は言い返します。「そんなことは私が小さい時からすべて守ってきました!」と。
イエスさまは彼の言葉を聞いて、さらにお話しされたのが、先ほど読んだ二十二節の言葉です。

『「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」』

このようにイエスさまが語られると、質問をしに来た人は、非常に悲しんだ、なぜならその人は大変な金持ちだったから、と書いてあります。彼は、ルカの福音書には書いてないのですが、「悲しみの中、去って行った。」とあります。
そこでイエスさまは、「富を持つ者が神の国に入るのはなんと難しいことか。それは人には不可能だ、しかし、神にとっては不可能ではない。神にとっては何でもできます。」と語られて締めくくられているわけであります。

このエピソードは、マタイにもマルコにも同じような内容が書かれているのですが、ルカという人は、前後の文脈をしっかりと繋げて、私たちがより深く理解できるように考慮して、この福音書を書いているのです。だからルカの福音書を、前後の文脈を加味して理解していく時、このエピソードの意味が見えてくるのです。

ルカはイエスさまのもとに訪ねて来た人を、「ある指導者」と紹介しています。
実は、この人はおそらくパリサイ人、新改訳2017版だと「ファリサイ人」となっていますが、ファリサイ人ではないかと思われるのです。同じルカの福音書十四章一節を見ると、「ファリサイ派のある指導者」と書かれています。この章では「ある指導者」とだけ書かれていますが、実はルカの福音書を読んでいくと、全体としてルカの福音書のある設定として位置づけられていることに気付かされるのですが、それは、イエスさまとファリサイ人との対決の構図です。同時にもう一つ、取税人が神の救いを受けるという描写が、ルカの福音書の中にはいくつか登場してきます。ここに、世の中では義人として敬われて、そして実は神に敵対して救いから漏れてしまうファリサイ人と、一方で世の中では蔑まれて、ある意味で人々の中から省けにされるような人でありますけど、しかし、神の救いを受け取ることができる取税人という対比が、ルカの福音書では何度か描かれていて、そしてルカの福音書全体的に、そういう文脈というのを見ることができるのです。

そういう、ルカが書簡の中に描いている対比、ファリサイ派と取税人の対比という視点で、このエピソードを解釈してみると、十八章十八節からイエスさまの前に質問しに来た指導者はファリサイ人であって、そして同じく、このエピソードの前、ルカの福音書の十八章九節〜十四節に、イエスさまが一つの例え話をされているのですが、その例え話しに登場してきているファリサイ人、この十八章九節〜十四節は神殿に祈りに来たファリサイ人と取税人という二人の人が出てくるのです。その九節からの例え話の中で登場してくるファリサイ人と、十八節からのみことばで登場してくるある指導者、ファリサイ人としましょう。その人との間に一つ共通するものを見ることができるのです。

 皆さんよくご存知のエピソードだと思うのですが、十八章九節からイエス様が離されたたとえ話です。二人が祈るために神殿を訪れた。一人はファリサイ人で、一人は取税人だった。そして神殿の中に入った時にファリサイ人は神の前に出て、堂々と心の中でこんな祈りをした。「私は他の人とは違い、奪い取る者、不正な者、姦淫を侵す者ではないこと。ことに、後ろに立っている取税人のようではないことを神に感謝します。」と、こういうふうに言いました。「私は週に二度断食をして、その与えられたものの十分の一を神さまの前にちゃんとささげています。」と。ここでファリサイ人の祈りの言葉は、他の人と違って奪い取るものや、不正なものや姦淫を犯すような者ではないこと、これは、十八節からのエピソードで、イエスさまの元に来たファリサイ人に対して、イエスさまが「姦淫するな。殺すな。偽りを言うな。そして父と母を敬え。」と言われた、これはモーセの律法の戒めでありますが、イエスさまがファリサイ派の人に言った戒めと、ファリサイ派の人が自分で祈って、「私は奪いとる者や、殺す者や、不正を行う者、姦淫する者ではない。」と言った言葉、この二つが、同じように重なって語られているということを感じることができるわけです。
このファリサイ人は「自分が義人である」というふうに思っていて、そしてそれはルカの福音書を見ていくと、彼の霊的な傲慢であったということを私たちは見て取ることができるわけですけど、それを彼は全然自覚することなく、自分は正しいというふうに思っていたわけです。
これはファリサイ派の霊的傲慢というものを、この十八章の中で、ルカは二回にわたって、別の話から私たちに論じていることなのです。

この戒めは、ファリサイ人であるならば十分理解をしているはずの、モーセの十戒に関する教えで、彼らにとってはイエスさまから語られても、別段驚くことではく、小さい時から叩き込まれて十分に実践していることなんだ、という認識ですよね。だからこそ彼は、「そんなことはちっちゃい時から守っているんですよ」と、イエスさまに言い返したわけです。
イエスさまは、「あなたには欠けているところがあります。持ち物をすべて売り払い、貧しい人に分けてやりなさい。それが天に宝を積むことになります!」と、こういうふうに言ったわけです。彼はその言葉に従うことができずに去っていったわけです。

一方、イエスさまが発せられたこの命令、「貧しい人たちに分けてやりなさい。」というこの命令は、このエピソードに続く、十九章一節からのみことばに繋がっていくのです。そこには何が書かれているかというと、ザアカイの物語が書かれているのです。
イエスさまのもとに質問に来た指導者のエピソードのすぐ後の分脈に、ザアカイの物語が書かれているわけです。
取税人ザアカイに、「今からおまえの家に泊めてもらうんだ。」と声をかけられて、彼の家に入られたイエスさま。このイエスさまに対して、人々は「あのイエスはなんだ。罪人の所に行って客となった。」と文句を言ったと書かれています。
そして先に私が申し上げた十八章の九節からの、二人で神殿に上って行った、もう一方の取税人ですね。この取税人のエピソードがザアカイの回心と繋がって描かれているのではないかと思うのです。
罪人である取税人の頭と人々に思われていたザアカイ、一方では、「自分は罪人だ」と認めて、目を天に向けようともせずに、胸を打ち叩いて、「こんな罪人の私をあわれんでください!」と言った取税人。この二人の人物を重なって見ることができるのです。
彼は胸を打ちながら、神さまに対して、「こんな罪人の私を哀れんでください!」と嘆き、彼が義と認められて帰っていったと書かれていますけど、彼がささげた祈りは、十九章に来て、イエスさまがザアカイの家に赴かれたことによって彼の祈りは成就したわけです。
イエスさまは罪人の所に行って食事をし、ザアカイに対して何と言ったかというと、「今日救いがこの家に訪れました。この人もアブラハムの子孫なのだから。」と仰いました。このイエスさまの救いの宣言は、ザアカイが、イエスさまをお招きした時に、あまりにも嬉しくて、「主よ!私の財産の半分を貧しい人に施します!」と宣言し、その時にイエスさまが「この家に救いが訪れました。」というふうに言ったわけです。