天の宝

また同じく宗教改革者であるカルヴァンの流れをくむカルヴィニストと呼ばれる人たちは、「神の栄光のために」という旗を掲げ、ルターと同じように、世俗の中で神のみ旨を実現することを前面に押し出したわけです。そして更にそれを発展させたと言われています。

自ら神によって真に救われた者たち、神のご計画によって召された人、永遠の昔より選ばれた人たちは、世俗における職業を通しての隣人愛により、その救いを証明するべきであるということです。
カルヴァン派のプロテスタントは、ルターが教えた「職業」観念を積極的に実践することは、自分が救われたものであることを証しすることだと考えたわけです。カルヴィニストにとって「職業」はいわば神の栄光を現すためにサタンと戦う、戦いの最前線だというのです。
それが宗教改革以来、近代から現代に至るまで、特にプロテスタントの人たちの多い国々が発展をして、世界をリードするまでになったような、経済的な発展を遂げる一つの秘密だろうと言われているわけです。

日本はクリスチャンの国とは言えないのですが、天職という職業概念が存在します。内村鑑三が次のような詩を詠んでいます。桶職人の歌といわれるもので、寿司桶、たらい、洗面器などを制作する職人の心境を描いたものです。

「桶職(おけしょく)」
われはただ桶を作る事を知る、そのほかの事を知らない、
政治を知らない、宗教を知らない、ただ善き桶を作る事を知る。
われはわが桶を売らんとて外に行かない、
人はわが桶を買わんとて、わがもとに来る、
われは人の、われについて知らんことを求めない、
われはただ家にありて、強き善き桶を作る。
月は満ちて又欠ける、年は去りて又来たる、
世は変り行くもわれは変らない、われは家に在りて、善き桶を作る。
われは政治のゆえをもって人と争わない、われ宗教を人に強いんとしない、
われはただ善き桶を作りて、独り立ちて、はなはだ安らかである。

こういう詩を読んだそうです。ここで詠われている桶職人は、強くて良い桶を作る以外には何にも興味がないと自ら告白しています。そして他の人たちや社会に対して自己主張することをせず、たとえ自分の名前が人に知られなくても気にすることもなく、自分の年月がただ桶を作ることのみに費やされ、人々が自分の作った桶を愛用してくれることが、私にとっての満足であり、心安らかに生きることができるんだ。人知れず良い桶を作ることにすべてを注ぎ込んだ人の告白が、この詩の中で語られているわけです。自分が作ったもので人々が豊かになってくれることを願うという隣人愛、職業を通して人々を喜ばせる隣人愛というものを、ここで詠っていることを知ることができるわけです。

日本では「匠」と呼ばれる人がいます。物作りに対して人生をかけて真摯に打ち込んで、手間ひまを惜しまずに良いものを作ろう!人のためというよりも自分自身が目標とするところを目指してやっていたりしますけど、結果として多くの人が自分の作ったものを使っていただくことに彼らは生きがいを感じてやっているのだと思います。テレビやYouTubeでも匠の人がいろいろなものを作ったりする姿を紹介しているので、見たりするのは好きなのですが、見ていると、なんでこんなすごい技を持つことができるのか?と思わされます。そういう人々を見る時に、生きる上で大切な何かを見るような、そういう心持ちになるのです。「自分も頑張らなきゃいけないな!」と思わされます。これは国を越えて、人間として皆が持っている感情ではないかなと思うのです。

私たちはそれぞれに働きの場所こそ違うけれども、そこでなされている仕事、学びでもそうだと思うのですが、時間とか知力、体力、それを人々のため、会社のため、社会のために使うということ。これは単純にお金にまつわる、いわゆるビジネスというものにとどまるものではないのではないか。ルターが言ったように、カルヴァンが言ったように、それは天に宝を積むことだと思うのです。仕事の中にある神さまの深いみ心について、今、自分自身、体験的に教えられているところなのです。

実に神さまとの関係を持った者、私たちクリスチャンが、自分の使命とか仕事に対して誇りを持つ。愚直にこれに励んでいく。毎日これに勤しむ。そして仕事を通してお金を儲ける、その中にも天に宝が積まれる要素があるということを、今日皆で学んでいきたいと思うのです。

もちろん教会で奉仕をしたり、伝道や説教や祈り、奉仕、献金も、天に宝を積む要素であるわけですけど、どんな仕事であっても、仕事をすることに天に宝が積まれる要素があるということを覚えていただきたいと思うのです。

それはひいては、主によって作られた被造社会に対して有益な仕事をすることになるわけです。人々が喜ぶため、社会のため、もっと大きな「地球」という時間・空間に置かれているすべてのものを愛し敬って、労り、育むことがなされる時、その働きを通して天に宝が積まれるということなのです。

最後にエペソ人への手紙の二章二十節をお読みして、終わりにしたいと思います。

『実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。』【新改訳2017】

地球の管理人としての使命を持って、神さまによって創造された私たち一人ひとり、無駄な人など、誰もいないわけであります。皆、等しく、神さまに愛されて、そして良い行いをするために創造された作品だと、このように語られています。
神さまによって創造された。ここにいらっしゃる皆さんお一人お一人、あなたは素晴らしいのです。そして、神さまによって創造されたこの世界も素晴らしいのです。そこに神さまによって置かれて、私たち一人ひとりがその成せるわざを持って生きるということは、これは神さまを証しすることなんだというわけです。天に宝を積むことなんだということです。そのことを信じることができるでしょうか。皆さん信じますか?ぜひ信じていただきたいと思うのです。

そして私たち一人ひとりが、神さまのみ国のために、それぞれの場所で働く時に、神の国はあなたの中から始まって拡大していきます。そのことを求め、この地に置かれている使命を全うしてまいりたいと思います。これをもって私のメッセージと代えさせていただきます。最後に一言、お祈りをさせていただきます。

天のお父さま、今日私たちが天に宝を積む方法について、もう一度改めて教えられることができて感謝いたします。実にここにいらっしゃるお一人お一人が日々、その営みの中で、なされている働きが本当にいかに素晴らしいものであるか、尊いものであるかということについて、今日は特に学びました。どうかお一人お一人がそのことを実感することができますように。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。

ここで皆さんご一緒にお祈りをしたいと思うのですが、日本のために祈りたいと思うのです。日本は今いろいろな問題を抱えています。特別日本の人々、いや日本だけではないと思うのですが、この時代の中に潜んでいる闇の力が私たちに挑戦してきていることは何かというと、「無気力」があるのではないかと思うのです。今日は「無気力」に対して、今日学んだみことばを通して、立ち向かって祈る時を持ちたいと思うのです。
社会を見ていく時に、若い人たちの中に、若い人たちだけではないかもしれませんけど、若い人たちの中に将来へのビジョンが持てないとか、自分が何をすれば良いか見出すことができないとか、何のために勉強しているかわからないというような、そういう無気力に囚われてしまっている人が多くいらっしゃるのではないかと思うのです。どうしても勉強に打ち込んでいくことができない人もいると思います。神さまによって今日与えられた視点を通して、一人ひとりが力をいただくことができるように、そして将来に向けてはっきりとした自分がやるべきことを見出すことができるように、目標に向かって、前に進んでいくことができるように、日本に住む人々すべてが、生き生きとした目標を見出せるように、お祈りをしていきたいと思うのです。
一人ひとりがその存在を通して、神の栄光を現す者となっていくことができるように。それが結果として経済的な繁栄を日本にもたらすかもしれません。人口減少の歯止めをもたらすかもしれません。日本にある様々な問題を解く鍵がそこにあるのかもしれないと思うのです。どうか一人ひとりが神の国のために天に宝を積む、そのために仕事をする。そういった価値を持つことができるように皆さんでご一緒にお祈りをしていきたいと、そんなふうに思います。

愛する天のお父さま、今、お一人お一人がささげた祈りをあなたが受け止めてください。そしてどうか今日、主によって受け取ったそれぞれのその思いを胸に、今週も主の働きに励むことができるように、あなたのみ国のために働く者として、お一人お一人を用いてくださいますように心からお願いいたします。そして私たちの良いわざを通して、神のみ国の影響が拡大していくことができるように、どうぞ主よ、祝福しください。家庭の中に、仕事や学びの中に、そのすべての営みの中に、主がそれぞれに与えられたその役割を果たしていくことができますように心からお願いいたします。そしてこの日本が、世界が、神の国としてあなたを迎えるにふさわしい、整えられたものとなっていくことができるように、どうかあなたが導いてください。今日まで導いてくださった主に、心から感謝をいたします。尊いイエスさまのみ名によって、祈りをみ前におささげいたさいます。アーメン。ハレルヤ!