天の宝

ザアカイは、イエスさまに従うことができなかったファリサイ人とは違い、イエスさまの命令に応えました。ファリサイ人と取税人の頭ザアカイ。この二人は同じように金持ちだったと書かれております。一方は施すことができずに、もう一方は施すことができた、この違いはどこにあったのかというと、これはやはり心の中に高ぶり・おごりを持っている人間だったか、それとも、自分が罪人として、神の前に身を低くして悔い改めようとした、その違いであったと思うのです。
一方はファリサイ派の議員であって、みんなから敬われて、義人だと認められる。一方はみんなからは蔑まれてはいたけども、自分の罪を認めて、そして自分を低いところから見た。そういう人であるわけです。

神殿の祈りの例え話の結論として、十八章十四節に書かれているみことばは、

『誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。』

と、イエスさまによって語られているのです。イエスさまは、ファリサイ人ではなくて、取税人に、「今日救いがこの家に来た。」と言われたのです。

私たちクリスチャンとして、やはり気をつけなければいけないのは、へりくだって自分を見直すことができているかどうかということです。悔い改める人は高められる。神に愛されていることを実感することができる。神さまによって愛されることを実感できる人とは、やっぱりへりくだった人だと思うのです。お互いにへりくだって、神さまの前に歩んでいきたいと、そんなふうに思います。 隣の方に「お互いにへりくだりましょう!」と言ってご挨拶をしてください。どうぞ。

五月二十一日に、順先生が礼拝でメッセージをされた時、一つの童話のお話をされました。トルストイが書いた「愛のあるところに神あり」という物語を元にした「靴屋のマルチン」という童話についてお話をされました。
ここで開かれた聖書のみことば、これも同様のテーマが語られているのではないかなと思います。マタイの福音書の二十五章四十節、

『すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』』

王が最後に、羊飼いが羊を右、山羊を左により分けるように、人々をより分けて、右の人に対して「あなたは祝福された者だ!」と宣言して、「あなたは私が様々な苦しみにあっている時に助けてくれましたね。」という。そうすると、この右にいる人たちは、「いつ私たちがあなたが苦しんでおられるのを見て助けましたか?」と、不思議に思って王に質問をするわけですけど、王様は、『最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』そして、左の人たちには、「あなたたちはそのようにしなかった。」と、刑罰の宣言をされるわけです。

ここで、話は変わりますが、私自身に最近起きた変化と、その中で教えられたことについてお話しさせていただこうかなと思います。
先日、リバイバル感謝報告会の中でも少し触れられておりましたが、私は六月一日から株式会社プレイズの社員として、ウィークデーには働かせていただくようになりました。今回その経緯については時間の都合もあって端折らせていただくのですが、神さまが許されたら別の機会にお話ししようかと思います。とにかく私は五十五歳にして、新入社員となってプレイズに入り、二ヶ月ほど仕事をさせていただいているわけです。
プレイズに入る前、どうするかという時期、私の中ではいくつか葛藤がありました。それまで私は、三十年以上に渡ってフルタイムス教会スタッフとして、また牧師として奉仕をさせていただいてきたわけですが、仕事の特性上、教会の働きというのは比較的金銭的な損得というものについて重要視しないというか、むしろ時間とか労力について犠牲になることを惜しまずに、人と関わり、無駄と思われる中にも、神さまが備えられていることがあるという考え方で働いてきました。特に魂に対するケアとか救いのために益になることについては、牧師として犠牲を払うことは当然のことで「水の上にパンを投げると、ずっと後の日にそれを見出すだろう」というみことばもあるように、短期間では実を見ることができないような働きも、教会として重要な働きとしてさせていただいたりするわけです。
そんな私が、ビジネスマンとなって仕事をするのは大変なのではないかなと思いました。誰であっても新しい所で働くのは、慣れるまでそういういろいろな葛藤が伴うだろうと思うのですが、そういう部分で、自分の中で三十年間培ったものを新しい環境にシフトすることができるかどうか、一抹の不安があったわけなのです。
タイムカードで労働時間を管理されて、どれぐらい会社に貢献し、対価としてのサラリーに受けるにふさわしい働きができるのか。お金で働きの真価を図るというようなところがあるわけですよね。一般の企業というのは。そういう所に、私みたいないい加減な人間が適応できるのか、そういう思いを持ったのです。牧師としての立場もありますし、両立は可能なのかとか。そもそも私は岡本牧師のように器用でもないし、かいがいしくもないし、ビジネスを何十年も続けておられるそういう器ではない。自分にはそういうことは無理なのではないか、というふうに思ったのです。
しかし自分でも祈りながら、また祈られながら、そういう不安を主に委ねて、新しい場所に飛び込むことを、自分なりに決めたわけです。それで働くようになったわけなのですが、入ってみて感じたことがいくつかあったのです。
まず思った通り、忙しくなりました。プレイズの毎日はやっぱり想像していたように時間的な密度が濃くて、毎日が慌ただしい。教会の働きの中でも、もちろん教会の仕事として忙しく時間を費やしているわけなのですが、でもある意味個人操業的なところがあるのです。例えば祈りの時間だったり、メッセージやセミナーを作っている時間、人と話をする時間とか、自分の仕事の割り振りを自分で管理して、「この時間はこのために使いましょう。これはこうしましょう。」と、そうやって自分で時間を思うように使うことがある程度可能でありました。それが、ほぼ会社の一部として業務をこなす中では、自分の時間をその中で持つということは、まずできなくなりました。そういう意味で、会社による拘束時間が増えて、かつ忙しくなったという感覚があります。
これがプレイズの本社です。
 その一階部分にある、「就労継続支援B型事業所シャローム」という場所で私は働かせていただいています。具体的な内容については、今日はあまり詳しくはお話しないのですが、福祉的な事業として、毎日数名の職員仲間と一緒に、利用者さんが二十名ぐらい来られて軽作業をされます。
これは中山さんがやってらっしゃる農園で取れたハーブをパックする仕事、他にもプラスチックの部品を作ったりとか、賞状を入れる丸い筒を作ったりとか、それ以外にもいくつかあるのですが、こういう軽作業を、二十名くらいの利用者さんがしてくださる、そういう内職のような作業を、彼らがしっかり仕事できるようにサポートをする。仕事の段取りをしたり、していただいた仕事の内容をチェックしたり、彼らの必要に応じて動くというのが、私の仕事なのです。他の仲間も同じような仕事をしています。
そういう仕事の中で、利用者の皆さんとの関係を持っていくわけなのですが、そこでも学ばされることがとても多いことを覚えさせられています。シャロームという場所が、利用される人々にとってオアシスのような存在となることができるように、精神的にも落ち着くことができる、そこで一日楽しく過ごすことができるためにサポートすることが大切なことだなと思わされています。そういう点では、牧師として働いてきていることと少し通じる、スキルを生かせるようなところもあったりするわけです。
シャロームを通して利用者が社会との接点を持つことができ、自分がする仕事を通してどこかで喜んでくれる人がいる、世の中での自分の役割というものをそこで果たすことができる、そういうことを自覚していただくことを目指してそのための仲立ちをする場所だということを、入って仕事をして感じたのです。利用者の人たちにとってはそういった点でメリットになり、同時に事業所の立場としては、彼らが来て利用していただくことで経営が成り立っていくという立場がある。双方がウィンウィンという関係性が、就労支援B型事業所シャロームの使命なのかなと、自分自身、この二ヶ月で実感しました。

それらを考えながら、毎日のプレイズでの仕事の中で、私自身思わされていることなのですが、この働きはビジネスであると同時に、奉仕であるということを感じさせられているのです。
プレイズでの仕事は、会社が儲け、自分が生活のための糧を得るための仕事である、これは間違いないのですが、同時に自分にとってはこれが奉仕であると感じています。
岡本信弘牧師はよく「ビジネスが自分に与えられた賜物だ」とおっしゃっています。使命感を持って社長業というのをやっておられるのです。
客観的に見て、業種を問わず、世の中にある企業のうちプレイズ社員の給料は、正直言ってあまり高いものではない。むしろ平均よりも低いかもしれない。まあ調べているわけでありませんので何とも言えませんが、そうではないかなというふうに思います。その会社の代表である岡本社長。あえてここでは「社長」というふうに呼ばせていただきますけど、岡本社長のサラリーも、一般的な社員五十名程度の株式会社社長の報酬としてはかなり低いのではないかなと思うのです。
しかし、社長から以前聞いた話なのですが、彼はそのような仕事をしていく中で喜びを感じるとおっしゃっています。自分が受け取ることができるであろう正当な報酬にこだわるということをあえてしない。そういう中でより多くの仕事をして、会社全体の利益となることを求める。そういうところに喜びを感じるんだ、ということを聞いたことがあります。そういうところに、ある意味で教会で奉仕をしていること似た感覚を私自身感じているのでは、という気持ちがするのです。

そして、私がこの二ヶ月で感じさせていただいたことは、プレイズという事業体にのみ適用される感覚ではないんだろうということも感じているのです。

昨日ですが、夜、ワカモノ・ワーシップ・ウェーブという集会がありました。
浜松の笠井教会で行われたのですが、本当に素晴らしい集会でした。若者たちが主の前で集まって、素晴らしい奉仕を喜んでしておられました。
その集会の中で、田中進先生がメッセージをされていましたが、語られていたテーマが、「神さまの召し」というテーマでした。皆さんご存知の通り、ご飯の「飯」ではなくて、神さまによって任命される、英語では「call」と呼ばれたりしますけど、そういう意味の「召し」です。
この「召し」という言葉、進先生がおっしゃっていたことですけど、ラテン語系の言葉では、「職業」という意味もあるそうなのです。「神の召し」と「職業」というのが同じ言葉で表現されるということです。
そして進先生がメッセージの中で、「皆さんがしているすべての職業は主による使命であることを自覚してください。」と語っておられたわけです。
今日私が語ろうと思っていたそのテーマと重なっていたので、少し驚いて、また感謝しました。

宗教改革者のマルチン・ルターという人は、カトリックの中で当時信じられていた一つの価値観に対して痛烈に批判をしたのです。それは何かというと、『カトリックの修道士と、彼らの修道生活は、そうではない、いわゆる平信徒の生活よりも、崇高であって、かつ正しい』という価値観でした。これは当時の社会に置かれていた常識だったわけです。
彼はこれに対して猛烈に反対したと言われています。それどころか、ルターはこんなことも言っているのです。「カトリック僧侶たちの修道生活には、救われるために何の効果をもたらすものはない。むしろ世俗にある職業労働こそ、神に喜ばれる、神に尊ばれる隣人愛の現れである。」というふうに言ったのです。
すなわち、神に喜ばれる道は世間を離れ修道院にこもって修行する、もっぱらみことばと祈りに専念する自給自足生活ということではなくて、職業を忠実に遂行して、社会のために貢献することにある。それがクリスチャンの隣人愛であり、それを実践することが救いの道であると、それまでの宗教的な価値観からの大転換を彼はその宗教改革の中で行ったのです。
このように、ルターの宗教改革を通じて、近代的な職業に関する観念が生まれたと言われているのです。