主の使命に生きる

2023年9月17日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

ヨハネの福音書 6章27節

『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」』

ハレルヤ!主のみ名を心から賛美します。二〇二三年、残すところ三ヶ月と少しになりました。この二〇二三年は皆さんにとってどのような年となったでしょうか。残りの期間も、私たちは主に信頼して、希望を持って進んでいきたいと思います。

今日引用させていただいている箇所は、私が二〇二三年に向けて示されたみことばです。昨年のカウントダウンワーシップで語らせていただきました。
もう一度、このみことばから学んでいきたいと思います。

“なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」”

ここに「食物」というキーワードがあります。どういった文脈でこの言葉が語られたのか、そこから見ていきます。直前の二十六節では、このようにあります。

“イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。”

ヨハネの福音書の六章のはじめには、いわゆる五千人の給食の記事が書かれています。五つのパンと二匹の魚がおびただしく増え、五千人を満腹にさせました。その翌日の出来事です。群衆がさらにイエスさまを求めて、イエスさまの前に来ました。その時にイエスさまが言われた言葉が、この二十六節、そして二十七節です。
二十六節のみことばに目を留めると、あなたがたが主を追い求めているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹しているからに過ぎないとあります。こんな言葉を投げかけられたら非常に悲しいと思います。

「しるし」というのは、ヨハネの福音書でよく使われるキーワードで、主が主である、それゆえのしるしとしてのわざです。しるしを認めるということは最低限、それを行われる方だという認識があるので、まだ良いかもしれません。しかし、この群衆に対してイエスさまはしるしを見たからですらなく、「ただパンを食べて満腹したからあなた方は私を求めて、今日も会いに来ているに過ぎない。」と、非常に悲しい指摘をしています。
以前扱ったヨハネの福音書の別の箇所でも「イエスさまの言葉を信じなさい。さもなければわざによって信じなさい」とありました。私たちはまず主の言葉を信じなければなりません。また、わざを見て信じるならまだしも、この群集はただ満腹したからでした。

ですから「食物」というキーワードが使われるわけです。

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。このメッセージの大枠は、他の聖書の箇所と合わせて考えるならば、この地上のことではなく、神の国の視点をもって神の国のために働きなさいと大きく受け取ることができると思います。私たち人間は、それができない、弱い、罪深い存在です。群衆の姿はそのまま私たちに当てはめることができます。
もう少しこの箇所を読み進めていきたいと思います。二十八節、二十九節。

“すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」”

イエスさまと群衆の問答が続きます。終始この問答はかみ合いません。なぜかと言えばイエスさまは、神の国の価値観でお話をしている。一方で群衆は、この地上の価値観でしか物事が考えられません。神の言葉、天の領域のことを理解することができないのでかみ合うはずがないのです。
また、ここで、一つ興味深いことがあります。「神のわざ」という同じ言葉が、群衆とイエスさまからそれぞれ出ているのですが、実は違いがあります。

群衆たちの「神のわざ」は、複数形で書かれ、イエスさまが語った「神のわざ」は、単数で書かれています。

日本語は名詞に対して、単数複数を区別しない言語です。これは聖書の他の箇所でもよく話題になることです。日本語だけでしかみことばにふれていないと理解が不十分となる箇所が存在します。ですから日本語だけでなく、原語をはじめその他の言語で聖書を読むことの重要性がここにあるわけです。

群衆側の神のわざが複数形であることは、まさに我々の信仰生活のあり方を表しているかもしれません。私たちは、自分たちが何かをしなければならないと考え、「あれはどうしたらいいか、これはどうしたらいいか、」「どのように祈ったらいいか」と祈りさえも方法論的に捉えてしまっていないでしょうか。また、すべてのことをマニュアル化して、答えが欲しいという、そのような考え方になっていないでしょうか。神のわざは、そういう類のものではありません。
私たちが追い求めるべきものは唯一なる神のわざです。神のことばを信じること。そして神ご自身を信じることです。父なる神が遣わしたかた、御子イエス・キリストを信じることです。そしてそれが私たちの祈りの本質であるわけです。
単数・複数という少しの取っ掛かりから多くの事を学ぶことができます。

続けて読んでいきます、六章三十~三十一節、

“そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」”

群衆は、人間的動機づけ、自分たちのためだけの質問を投げかけています。「私たちがあなたを信じるためにどうしてくれるんだ?何を見せてくれるんだ?」と。
私たちも気をつけなければなりません。私たちのためにしるしが行われるわけではありません。神の栄光があらわされるためです。
三十一節では、イスラエル民族であることを誇り、頼みとしています。
ここではモーセの存在を引き合いに出し、イエスさまと対比したい訳です。
モーセは確かに神に立てられた偉大なリーダーでしたけども、人に過ぎません。しかし、彼らは自分たちの地上の背景を誇りました。

“イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。”

ここではっきりとモーセの地上的な側面が強調されています。

“しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」”

ここはモーセの地上性と、イエスさまの神性。その違いがはっきりと語られています。

もう少しだけ続けて読み進めます。六章三十四節、

“そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」”

どこまでいってもトンチンカンです。彼らはイエスさまの天的なメッセージを受け取ることができません。とても滑稽に見えてしまうかもしれませんが、これが本来の私たちそのものだということを忘れてはいけません。

“イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。”

彼らがいくら自分たちの父祖、モーセを誇ったところで、マナを食べた人々もその時には命が支えられましたが、その後、死を迎えました。しかし、イエス・キリストが与えるいのちのパンを食べるものは決して死を見ることがありません。
私たちは神の国を理解することができない存在です。しかし神の霊である聖霊さまが私たちに働きかけてくださる時に、目が開かれて神の言葉を受け取ることができる存在に変えられます。

ヨハネの福音書を読み進めていくと、八章にはこのようなみことばがあります。四十四節~四十五節、

“あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。”

生まれながらの人間が真理を理解できない、という点において共通する内容です。そこに悪魔という、私たち人間を罪の性質に引きずり込んだ存在があります。そして今も私たちを神から離そうと常に働きかけています。私たちはこの存在に対して、絶えず戦って神の国のために自分のポジション、神の国に入れられたそのポジションを守り続けなければいけません。そしてこの地上にある悪のわざを打ち破っていくべき存在であります。

人間の罪、そして悪魔という存在を見てきました。そしてもう一つ、私たちが気にしなければならない、頭に入れておかなければならない側面が、「世」です。

ヨハネの福音書、十二章のこの記事から学んでいきます。十二章四十二~四十三節、

“しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。”

この世、社会です。私たちも現代社会を実際に生きております。私たちの神の民としての存在を守るため、私たちはこの世に対してもはっきりと戦うべきです。

指導者たちの中にもいくらか信じようとした者が出たようです。しかし、いろいろなものが邪魔をします。彼らにとって結局は会堂から追放されないことの方が重要でした。それは端的に言えば「神からの栄誉よりも人の栄誉を愛した」と書かれている通りです。
この「栄誉」という言葉を、他のキーワードに変えても同様かもしれません。「恐れ」とか、自分の生活を優先したとか、その他の理由付けが、私たちにもつきまとうものではないでしょうか。どのようなキーワードが当てはめられるでしょうか。自分自身が神からの栄誉よりも、何を優先しているか。絶えず戦っていきたいと思います。

また同じヨハネ文書の第一ヨハネにもこの様に書かれています。

“世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。”
ヨハネの手紙 第一 二章十五節

私たちは「この世」がどういう状況かわかっていなければ、何をどうするべきか、どう立つべきかということもわからないはずです。この世にあって信仰の戦いを進めていくためにもこの世について正しい理解を持つことが大事なことです。

少し聖書から離れて、今のこの世、特にこの国の状況を考えてみたいと思います。
特に二〇二〇年以降、世界の変化は大きかったと思います。三年、もう四年近くになろうとしております。それを経て、この二〇二三年の私たち、どのようにこの世に立ち向かっているでしょうか。神の民として立っているでしょうか。そのことを少し考えていきたいと思います。
本当にごく一つの側面ではあるのですが、今この国の状況をすごく簡単に表す状況が一つあります。

これを見ていただくと、いろいろな国の数字が書かれていて、日本六パーセント。他の国はどうでしょうか。中国千二百六十六パーセント。ロシア四百六十六パーセント、アメリカ百八パーセント。
これは何の数字でしょうか。これは二〇〇〇年から二〇二〇年の期間のGDPの成長率の数字です。GDPというのは国内総生産といって、簡単に言うとその国の経済の規模を表す指標の一つです。
日本には失われた三十年があるといわれます。二〇〇〇年から二〇二〇年でも、二十年経っているわけです。経済成長全くしていない国です。経済という視点だけでなく、あらゆるものがストップしているような、本当に時間を無駄に浪費しているような国ではないでしょうか。