主の使命に生きる

もう一点資料をお見せします。

大体同じような数字の話なのですが、こちらは二〇一七年までです。日本は世界ワースト4位です。「経済大国」の中でこんなにGDPの伸びが低い国は、他に類を見ません。日本と並んでいる国を見ると日本人の多くが「あぁいろいろな内戦があって問題があって大変な国だな」と他人事に考えているような国々です。少なくともこれらの指標においては、そのような国々の中に、自分たちの国が入っているのです。
本来なら暴動が起こっていておかしくないこの状況で、この国は一切暴動が起きません。仮にこの国の原理が、私たちの経済的な祝福・豊かさのために動き、いろいろな政治政策、また様々な学問の発達・科学技術の発展などがあるとしたら、こんなことは起こり得ません。他の国の数字と比較したら一目瞭然です。
「日本という国は、経済成長しないように、人々が貧しく虐げられていくようにそのような原理で動かされている国である。」というぐらいに認識を変えるべきかもしれません。
信仰の問題、霊的戦いを、血肉ではないからと言って、これらの類の話とまるっきり離れたものとして考える傾向がどこかにあるのではないでしょうか。しかし、今この国にある状況こそが今のこの世の支配の構図そのものなのです。私たちは今何で苦しめられているか。何で支配されているか。それすらも理解できていません。

このような状況を指摘する話というのはいくらも前からあるのです。しかし社会の本筋のところでは一切語られません。ある書籍にこのような指摘があります。
「世界で最も衆愚政策が成功した国、それが日本だということです。これほどひどい状況であるにもかかわらず主権を回復しようという気運が全く生じません。
結局のところ日本人特有の無思考な振る舞いは、外部から戦略的に移植されたものです。つまり公共教育、スポーツ、バラエティ、お笑い、ワイドショー、SNSなどの諸々の衆愚コンテンツが植民地主義の道具として用いられており、それにより民度が低く保たれ、国民は何も考えない無抵抗な群れとして飼育されているのです。このように相手国民を劣った者として扱う支配の方針を「差異主義」と言います。」

これが私たちの国の現実だと危惧を持って、祈り、立ち向かっている方がどれほどいるでしょうか。

今日聖書から人間はこの地上の側面でしか物事が捉えられないと学んできています。日本においては、それどころか大多数の人が、この地上の現実さえも見ようともしないし、その現実に対して戦えてもいない。見ても悟らない。悲しい状況ではないかなと思うのです。

それはなぜかと言ったら、そのように意図を持って動かされている国だからということです。日本という国は、他の国における「この世」というその水準ですらない、とてもひどい状況の国だという認識を持った方がいいと思います。

私たちはこの地上の生活がある程度安定して豊かであって、特に自分たちの身の回りに問題がなければ、それで満足してしまう生き物です。しかし今日見ているように、クリスチャンという存在は、そのようなもので満足するべきではありません。神の国の民として常に神の国のために、神の国の視点を持って生きなければならない存在です。
もし私たちクリスチャンもこの世の人や物、出来事、また人の働きを、この地上の価値観と同じものだけで判断しているとしたら、そんな悲しいことはないです。私たちが何を追い求めているか考えましょう。

ヨハネの手紙第一 二章十六~十七節には、このようなみことばがあります。

“すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。”

この世のもの、この世の状況に、ある程度祝福が与えられて満足している方、価値観がこのようにシフトしてしまっていないかということを点検する必要があると思います。また一方で、苦しみに支配され、いろいろなものを与えられず嘆き悲しんでいる人は、その地上のことから視点を変えない限り、その苦しみ悲しみは続きます。本当に追い求めるべきものを、見失ってはいけません。

先ほども「神のわざ」というキーワードで学びました。すべての問題、個別のケースに対して、一+一=二という答えが欲しい、弱い存在です。でも祈りや信仰の本質はそういうようなものではないと、学びました。私たちが追い求めるのはただ一つ。それぞれの場面でどうするかという話ではなく、生き方の問題です。どのように生きる前提で歩んでいるか。そこが間違っていなければ、個別のケースで大きく間違うということはありません。私たちが追い求めることは、そのような神さまとの一対一の正しい関係、ある意味でそこに尽きると思います。その後どう祈ったり、どう歩むかというのは、その関係が正しくある限り大きく外すことはありません。また一時的に、悲しみや苦しみを経験し、道を外す時があっても、必ず神のみ心のうちに、私たちの思いもよらない方法で、結果で、神が最善を成してくれる。これが私たちの持つべき祈りであり、信仰であると思います。

私たちはみことばを信じ生きます。その言葉を信じるということは、その言葉通り生きるということです。生き方を変えるということは、私たち弱い人間にとって一番難しい大変なことです。
でも、よく考えてみてください。私たちの身の回りでも、この人は何か違うと感じる人がいると思うのです。そういう人は間違いなく、今日学んでいるようなお話の中で、この地上的な側面から解放されて、神の国の価値観で生きている人だと思います。そしてそれは簡単なことではありません。絶えず格闘して、そのような生き方をし続けているはずです。誰も知らない血の滲むような努力を祈りとともにしていると思います。そのような人が周りに影響を与えるような人物として、神に用いられていきます。

時にクリスチャンは、クリスチャン用語、聖書用語を誤った使い方で使っているのではないかと思います。信仰ゆえの格闘や神の国の価値観にたって生きるための血の滲むような努力を経ての結果に対して、簡単に「賜物」という言葉で片付けがちではないでしょうか。「賜物」なんていう簡単な言葉で片付けてはいけないような、人の歩みというのがあると思います。そのような生き方に変えられなければなりません。

また「世と世の欲は滅び去ります」とありますが、私たちの命そのものも同様です。これを地上の価値観で、大事に思ったり、すがったりすること、それも誤りです。私たちの命も滅び去ります。
ではその限られた命を、どのように使いますか。主の使命のためにそれを使いましょう。それが今日学んでいること、また私たちがとうに受け取っている福音の中での答えです。そのような歩みを、私たちがもう一度心新たに受け取っていけるならば、この暗い世の中、この絶望にあふれたようなこの国の状況も必ず変わっていくと思います。

ヨハネの福音書十二章二十五節には、このようなことばがあります。

“自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。”

皆さん、この地上で長生きがしたいでしょうか。長生きするということは、相対的に人との別れが一番多くなります。自分が身の回りの人の中で一番長生きをすれば、自分はどんどん人と別れて送り出す側に回ります。
今日主題として学んでいるヨハネの福音書、そしてその他の「ヨハネ文書」、これを書いた人物は使徒ヨハネと言われます。
実はヨハネは、当時としたら非常に例外的な長生きで百歳近くまで生きたと言われます。それぞれの文書も八十年代とか九十年代に書かれたとされています。黙示録は、パトモスという流刑地で書かれました。
そのヨハネの生涯に少しだけ身を置いてみたいと思います。皆さんよくご存知の十二弟子の中でも筆頭のような存在でした。身近で主とともにこの地上を歩んだ弟子の一人です。主イエスの昇天後も仲間とともに宣教に励みました。しかし、ほとんどの仲間、同労者は、殉教して散っていったわけです。彼だけが最後まで言うなれば殉教すらできずに、生かされていた。地上的には誰よりも孤独だったはずです。
しかしヨハネは、与えられている命を主の使命のために最後まで使い続けました。そして今日私たちは「ヨハネの福音書」を読むことができています。主のことばを受け取ることができています。
ヨハネはそのように最後まで主の使命のために自分の命を使いました。そのための長生きだったら素晴らしいではないですか。

でもそうであったとしても、ヨハネの福音書十二章二十四節には、こんなみことばがあります。

“まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。”

イエスさまはご自身のことを指して、まもなく十字架上で死なれることを示してこのように語られました。自分が去ることは益であると。より豊かな実が結ばれるそのための出来事であると。
私たちもこの地上の別れというものを、このように捉えなければならないのではないでしょうか。私たちはこの地上から去っていきます。
また一人の人間がこの地上に与えられる影響というのは、神の国の大きな視点で言えば、ごくごくわずかです。ですから私たちは信仰の継承をしていかなければなりません。主のみ心を行う生き方を継承していかなければなりません。私たちも福音を受け取った者の一人に過ぎないわけです。私たちは何をするべきでしょうか。次に続く者が起こされるぐらい、私たちが生かされる限り、主の使命に忠実に生き続けることだと思います。

それぞれに与えられている使命を果たしていきましょう。もう一度、心新たに、自分にどのような使命が与えられているか。主ご自身に、一対一で聞いてください。それは、あなたと神さまとの関係で、誰にも教えてもらうことではないですし、誰にも聞いてもらうことでもないです。あなたご自身が、神と一対一の関係をより強固にして、自分に託されている使命を受け取ってください。そのように生きている方は、必ず周りにも良い影響を与えて、その姿を見た人たちが、その後に続きます。そのような歩みを私たちクリスチャンが一人残らずできたら、どんなにか素晴らしいではないでしょうか。

最後にひとつの証しをもって終わりにしたいと思います。

ご存知のように朏姉妹が先月召されました。彼女は私が救われた当時から教会にいた元気な明るい方でした。そして私たちの家族と同じ家庭集会に集い、近しい存在として交わりを持たせていただきました。
晩年には、ヘブンズアイスクリーム&コーヒーの方で、彼女と一緒に主の働きをさせていただきました。彼女の病気について、皆さんもあまり知らなかったかもしれないですが、結果的に言えば、むしろ主が、彼女の命を長らえてくださった結果でもありました。

彼女の最後の入院期間、かかなかお見舞いに行く機会が持てずにいました。彼女の病状を聞きながら、私たちヘブンズで働いているスタッフが、彼女との別れを逸するわけにはいかないと思っておりました。ある時私の心に、「今行きなさい!」と強く促されたので、ある土曜日にスタッフ全員で向かいました。夏場の土曜日ですので、大変多くのお客さんが来るわけですけど、それよりも大事なことを優先しようという思いで、土曜日の午前中お店を休みにして、スタッフ全員で会いに行くことに決めました。
病室に私たちが入って、私たちを認識したとたんに、彼女は笑顔で喜んでくれました。スタッフが揃って行ったということも、神のみ心だったと思います。
実は私個人としても厳しい現実に対してどのように向き合ったらいいかという思いもあったのですが、彼女の表情がすごく明るく晴れて、その彼女の反応にこちらが心和らぎました。
そして結果的には、それぞれこの地上での最後の良いお別れの時を持つことができました。他の方々の証しにもあるように、彼女は最後まで明るい方でした。自分の身を案じて当然の状況で、むしろ彼女は私たちひとりひとりに励ましを与えてくれました。
私の奥さんに対しては、出産に際しての事も案じて、「絶対大丈夫だから!」という言葉をかけてくれました。
その後、彼女が再三、私たちに言ったことは「今日何曜日?」「土曜日だよ。」と言うと、「早く帰って店やって!」でした。
実際、自分がどういう状況に置かれているかというのもすべてわかっていたと思いますし、私たちが行ったことも、心から喜んでくれた。でも彼女が再三、私たちに言ったことは、「早く帰って店を開けて」ということでした。彼女は病室にいてもヘブンズのスタッフとしての使命を果たし続けていました。
彼女は彼女なりの主との関係がしっかりした方でしたし、「食」を通しての主のための働きを、自分に与えられている使命を生涯かけて、最後の最後まで忠実に果たした方だと思います。