わたしがあなたに伝える宣言をせよ

2024年3月10日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

ヨナ書 3章1節〜2節
再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日、皆さまと共に神さまによって備えられた日に礼拝をささげられる時が与えられていることを心から感謝します。礼拝をささげることができる恵みと特権が私たちに与えていること、何と素晴らしいことでしょうか。

三月十日の今日は、一八七二年三月十日、日本で最初のプロテスタント教会である横浜公会が、横浜において、ジェームス・バラを仮牧師としてたてられたということで、プロテスタント教会の大きな節目となる日です。今週は全日本の教会の祝福を覚えてお祈りしましょう。また、新城教会、お互いの祝福を祈っていく週としましょう。

また明日は三月十一日です。あの東日本大震災が起こってから、十三年目を迎えます。傷ついた東日本、東北の地を、主がいやしてくださるように、続けてお祈りしていましょう。

そして能登においても、この年、大地震が起こって、今、被災されている方々が多くおられ、困難な中にあります。三月二十日に、リバイバルミッション主催で、炊き出しの奉仕をしに行くということで、週報の中にも案内がありますけども、またご覧になっていただいて、能登の地の回復といやしのためにも祈り続けましょう。また、行くことができる方は現地に行っていただいて奉仕をしていただければ嬉しいです。

それでは早速ですが、みことばを皆さんともに受け取っていきたいと思います。今日は二〇二四年に対して、新城教会の預言的メッセージとして私が神さまからいただいているみことば、また神さまの思いを、皆様とともにお分かちしていく時としたいと思っております。それは先ほども読んでいただきましたが、ヨナ書から神さまのみことば、思いが備えられております。まず私が受け取っている神さまの思いをまとめさせていただいたものをご紹介したいと思います。

“二〇二四年、私たちの思いが及ばない、高く広く深い神さまの愛に満たされ、さらに主を愛し、隣人を愛し、一人ひとりに託された神のみことばに従い、福音宣教に出ていくように。そしてその時に主のみ力があらわされ、人々、また被造物までもの心が主に向けられ、街、国に神の国が現される、主の壮大な働きがなされていく。そのために神の国の到来という壮大な青写真から目を離すことのないように。”

このような思いを神さまからヨナ書全体のストーリーからいただいておりますので、今日はヨナ書全体から皆様と神さまのみことばと思いを受け取っていきたいと思います。
ヨナ書のストーリーは北イスラエル、時代は紀元前八世紀ぐらい、ヤロブアム二世が王様の頃に活躍していたとされる預言者ヨナに、当時イスラエルに敵国であったアッシリア帝国の首都ニネベに行って、神さまのことばを告げなさい!そんな言葉がかけられて、ヨナ書が始まっていきます。
ヨナ書 一章一節〜二節、

“アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」”

このような神さまからのことばを伝えるようにと、宣言するようにと、始まっていくのですが、ニネベはどんな場所にあるかというと、このような位置関係の中にあります。
 このニネベという名前の由来を見ていきたいと思いますが、ヘブル語名の由来で、「ニネベ」を見てみますと、「この街に祭られた女神イシュタルのシュメール語名「ニナ」の古バビロニヤ語訳「ニヌワ」に由来すると言われます。」ということです。
女神イシュタルということですが、「イシュタル」というのは、「星」という意味を表すそうです。「愛と美の女神。戦・豊穣・金星・王権など多くの神性を司る。」これは偶像ですので、神の性質ではなく、悪魔の性質であります。そういった偶像の名前の由来が「ニネベ」ということです。そのような名前が由来となる街ということですから、相当偶像礼拝が根深い地であるということが想像されます。
ヨナは本当の神さまを礼拝しない土地、また敵国へ、神さまのことばを伝えるようにと命じられたということです。

預言者ヨナは、どのような人物であったでしょうか。預言者でしたから、当然、神さまが哀れみ深く、怒るのに遅く、恵み深い、愛なる方であるということは知っていたわけです。ですから、もし敵地ニネベにヨナが行って、神さまのことばを伝え、ニネベの人たちが悔い改めるようなことがあったら、もしかしてニネベが神さまによって救われてしまうかもしれない。そうなれば祖国イスラエルは、アッシリアに滅ぼされてしまうかもしれない。そんなことをヨナは恐れたのです。神さまの愛によって、無償の愛によって、隣人を愛するというような人物とはとても言えないような、偏った愛国心、また神さまの愛によって愛を現せない、またイスラエル民族という選民意識を持った人物、神さまの思いを自分の思いとできない人物。そのような人物像がヨナであったということが、ヨナ書を読んでいくと見えてきます。
ではヨナはそのような人物でしたが、果たしてそのような人間は特別な存在だろうかと思うと、そうではないのではないでしょうか。人間というのは、いつも自分というレンズを通して物事を見て、理解して、判断している。この虫眼鏡を使って虫を観察するかのようです。
 私たちは自分というレンズを使って、物事を、対象を見ているということです。私たちの持っているレンズというものは、例えばこの国の文化や習慣であったり、また歴史観だったり、社会通念があると思います。
また、個人のそれぞれの家庭環境も違いますし、個人の過ごされる経験を通して、いろいろな世界観や価値観が培われ、個人によってレンズは様々です。それぞれによって違うものの見方、そして、判断・行動に繋がっていくというものが人間であると思うのです。
そしてまたそれは、自分自身のレンズを通して物事を見るということの方向に注目したいと思います。アリさんを見る矢印を記しましたが、自分から対象物に向かっていくという方向性がとても強いのが人間ではないかと思います。
自分が相手の立場に立って、その相手を理解して、自分の行動を判断して行動を決定していくということは、なかなか難しいのが人間ではないでしょうか。

車を運転される方も多くおられますが、車を私も運転していて、横から車が私の走っている道路、幹線道路に入りたい車がいたということで、私はそのような車がいると、どうぞどうぞと止まってあげて入れてあげるタイプなのですが、そんなことを以前もしていたのです。「どうぞ入ってください。」と入れさせてあげた後に、隣に座っていた友人が、「何をやっているんだ。お前が先にさっと通り越せば、後ろには車が一台もいないんだから、その車はもっと早く道路に入れるのに、それは親切の押し売りだ!」なんて言われたこともありました。そんなつもりはないのですが、私が周りの状況を把握して行動しておらず、私の行動が一方的な親切の押し売りに映るわけです。

また最近本を読んでいて、少し面白いストーリーがあったので、ご紹介したいと思います。大砲が付いたすごく巨大な戦艦が、霧の中で視界の悪い夕暮れの中で航海をしていたそうです。そうすると進路上に光が見えたということで、艦長は部下に命じて、「相手の船に対して信号を出せ!衝突の危険があるため、二十度、針路を変更せよ!」そのように命令をその相手に出すのです。すると相手から返信がありました。「そちらが二十度針路を変えてください。」そのような返信があり、艦長が再び命令するのです。「私は艦長だ。二十度針路を変えるように!」相手にまた返信するのです。そうしたら相手は何というか。「こちらは二等兵だ。」戦艦の艦長、とても偉い人。向こうは二等兵。艦長より位が低い人。「こちらは二等兵だ。そちらが二十度針路を変えるように命令する。」と言ってきたのです。
そんな言葉を聞いた艦長はどうでしょうか。皆さんが艦長だったらどうでしょうか。怒りましたね。艦長は怒り出して、「こちらは戦艦だ!二十度針路を変えろ!」と叫ぶのです。するとまた今度は点滅信号が返ってきて、なんという返事が返って来たかというと、「こちらは灯台である。」その後、艦長は自分の船の針路をどうしたと思いますか。変えますか?変えないですか?変えますね。艦長は、巨大な戦艦、自分は高い地位にあり、私は偉いんだ!そんな高ぶりもあったかもしれないですよね。そんなような思いの中で、相手の船に対して、船だと思っていたのですが、「針路を変えろ!」と、すごく一方方向な意見をぶつけるわけです。しかし相手が灯台だとわかった時、針路を変えるのは戦艦の方ですよね。
このように、私たちはどの立場に立って、どのようなポジションの中で、私たちは判断して行動していくかということをすごく考えさせられます。私たちは、神さまからの高く広く深い愛に満たされている神さまの子どもです。その神さまの愛に満たされて、神さまの思いで満たされて、主の愛を、実践していく。主の愛に根ざして判断して行動していく。そのようなものとなっていきたい。私たちは簡単にヨナのように自分の思いで行動してしまうこともできるような弱い人間であります。そのことをヨナ書から学んでいきたいと思います。

そして続けてヨナ書に戻っていきたいと思いますが、そのような偏った愛国心の持ち主であったヨナは、どのように判断して行動していくかということですが、ニネベが救われてイスラエルが滅びるくらいなら、自分が罰を受けても構わない。そのような覚悟で、なんと神さまの命令に反して、タルシシュという所に逃げていくのです。タルシシュというのは、ニネベと全く反対方向です。
 聖書の中では、「主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュに行こうとした。」とあります。この「御顔」というのは、「主の臨在」という意味があるそうです。ですから主の臨在、主ご自身から離れていく、身を避けていく、逃げていく、そんな強い意志があるわけです。
そんなヨナに対して、神さまはどうされていくかというと、嵐をもたらして、異教の神々を礼拝する人々に、ヨナを海に投げ込ませました。
そして神さまは、そんな愛の足りないような偏った愛国心を持ったヨナを見殺しにするかというと、そうではなくて、大きな魚を用意されて、ヨナを飲み込ませ、ヨナの命を助けるわけです。
そしてその後にもう一度、神さまはヨナにことばをかけました。それが最初に読んでいただいたみことばですが、

“再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」”

ともう一度、同じ宣教命令ですね。ニネベに神さまのことばを伝えよと、神さまのことばがかけられます。

ヨナは魚の中に何日間いたでしょうか?三日三晩です。それは何を表しているかというと、イエスさまの十字架であります。イエスさまもヨナのことに言及しています。マタイ十二章四十節、

“ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。”

とあります。ヨナは三日三晩、魚の中にいて救い出されますが、そのヨナという存在はどのような存在かというと、イエスさまの十字架の贖いを受けたような人物ということが言えるのではないでしょうか。
そして、イエスさまの十字架の贖いを受けている人たちというのは、今、誰かというと私たち一人ひとりであります。私たちクリスチャン一人ひとりが、ヨナと同じように、神さまのことばを伝えるように!と、福音宣教の戦いに出て行くようにと召された一人ひとりであるということを覚えていきたいと思います。私たちが宣言しなければならない神さまのことばが、一人ひとりに託されているよ!ということをこの年、神さまが強く、私自身にヨナ書を通して語ってくださっております。
大胆に私たちはこの年、神さまのことばを遣わされた地において宣言していきたいと思います。