わたしがあなたに伝える宣言をせよ

そしてまたヨナ書に戻っていきたいと思いますが、ヨナは神さまの思いを自分の思いとすることができなかった。自分の思いを優先して神さまから逃げていきましたが、そのようなヨナはどのように神さまの思いと同じ思いを持っていったかということを見ていきたいと思います。ヨナ書二章において、海の中に投げ込まれたヨナは神さまに祈りをささげていくわけですけども、海の底、死の縁から祈りをささげて、その祈りを聞いてくださった、助けてくださった神さまに、最後は感謝の祈りをささげ、そして、また「生贄をささげます」と語っています。ヨナ書二章九〜十節、

“しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを献げ、私の誓いを果たします。救いは主のものです。」主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。”

と、ヨナは魚の中で悔い改めて、感謝の声を上げて、いけにえをささげたのです。魚の中でささげるいけにえとは何をささげたのでしょうか?それはヨナ自身ですよね。「救いは主のものです!神さまのなされることに従っていきます!」と、自分自身を主にささげた、ある意味、再献身をしたのです。
私たちの宣教の働きは、ヨナのように、悔い改めと献身の決意から始まっていくということを教えられます。ヨナは偏った愛国心、イスラエル民族の選民意識を持った人物でありました。神さまの愛を持って隣人を愛せない、敵を愛せないような人物でありました。
しかしそのような人物に私たちも同じようになってしまうことがあるということを、レンズという視点で見てきましたけが、私たちの思いや願い、神さまが導いておられるところが違うと、やはり葛藤を覚えるわけです。ヨナも葛藤を覚えたのと同じように葛藤を覚えます。しかしそれをどのように神さまの思いと私たちの思いをすり合わせていくか、自分のレンズを取り除いていくかというと、この魚の中で、ヨナが三日三晩の中で悔い改めて感謝の祈りをささげて、そして献身の祈りをささげたことに鍵があります。この十字架を表す魚の中、それは十字架の恵み、十字架の愛に、もう一度私たちが根ざすことによって、私たちの思いと神さまの思いが一つになって、擦り合わされて、そしてヨナのように、悔い改めに導かれ、献身し、神さまのみことばに従って進んでいくことができる、みことばを宣言をしていくことができるようになると、ヨナ書二章から教えられています。

自分の力ではなく、イエスさまの十字架に私たちはもう一度、この年、身を寄せて、私たちが悔い改めるべきことは悔い改めて、私たちの思いの中で、神さまの思いでない思いは取り除いていただき、神さまの思いをいただいて、再献身をしていく!このことが私たちに任された宣教の宣言の始まりであり、とても大切なことであるということを教えられていますので、共に学んでいきたいと思います。

そして、神さまのことばを再び託されたヨナはどのような行動をするか、ヨナ書三章三〜四節、

“ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」”

神さまの言葉通りにヨナは従いました。ニネベにどのようなことが起こったでしょうか。なんと、身分の高い者から低い者まで、そして家畜までもが、荒布をまとって悔い改めました。そして断食をして、ひたすら神さまに願うようにと、命令が王から出されるのです。
そして、悪から立ち返ろうとしたニネベの街を神さまはご覧になって、ニネベに下そうとしていた災いを思い直されて、なんとニネベは主の災いから救われることになるのです。神さまの偉大なみわざが、ヨナが神さまから託されたことばを宣言することによってなさました。

それも行き巡るのに三日かかるほどの大きな都だったということですが、ヨナはその都に入って「まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。」とあり、その後、高官たちが悔い改めに導かれるという聖書の部分に入っていきます。そして、ヨナの宣言したことばは、「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」こんな言葉だったのです。神さまのことを何か語っているではないですし、何か言葉足らずの言葉のように感じます。そして、三日かかるうちの一日分しか歩いていない十分でないような行為。そのような小さな行為、わずかな働きを通して、神さまの偉大なみわざが現されたのを見ることができます。
私たちも日々、神さまのみ心だと信じて歩んでいると思いますが、時に私たちがしていることに対して、何か言葉が足りない、小さいことだ、見栄えも良くない、十分ではない、また時に自分自身がとても自己中心、愛も足りない、小さい者の小さな働きのように感じるような時があるかもしれません。しかしこのヨナ書から、主のみ声に聞いて、神さまのことばを宣言していくならば、私たちのこの福音宣教の宣言、戦いは、決して虚しいもので終わることがないということを覚えさせられます。

そして私たちが主に委ねられたことばを宣言していくならば、ヨナが主のことばを宣言し、王や高官、家畜、被造物までも悔い改めて、ニネベの街が救われたように、私たちの宣言を通して、私たちの身の回りのあらゆる身分の方々、また被造物までも悔い改めに導かれて、主に心が向けられて、救われていく、そのようなみわざがこの年現されていくということを強く覚えさせられています。
このような人の力ではできない、主の偉大なみわざが表されていくという励ましを神さまから受けています。
一人ひとりに、神さまのことばが委ねられ、その宣教地もそれぞれオリジナルです。学生の方は学校だったり、また働いている方々は職場かもしれません。また家庭や、それぞれの地域であるかもしれません。また時には海外へ行くということも導かれるかもしれません。また被造社会の中、山々の中に入っていって、被造物に命じることもあるかもしれません。海の中かもしれません。また奥まった誰も気がつかないような自分の部屋の一角での神さまのことばの宣言かもしれません。それぞれに託されている宣教地における宣言を通して、神さまがこの年、素晴らしいことをしてくださると信じていきたいと思います。そのような思いをいただく中にあって、神さまからすごく期待感をいただいてますが、反面、その神さまのことばに応えていけるかどうかな?と、すごくチャレンジな思いを受けています。

少し話は変わりますが、私には子どもが三人与えられています。その中で長男が先週、小学校を卒業しました。皆様のお祈りと、愛と、支えによって、彼が成長してきました。感謝致します。
来年からは中学生になります。
二〇二一年の話になります。今三月ですが、二月には節分行事ありました。巷では豆まきがあったり、恵方巻を食べたりする偶像礼拝がなされましたが、そのようなことがこの国の文化や習慣として、こども園や学校の節分行事として行うわけです。
そして、私の息子の学校でも、もれなく節分行事というものを行うということでした。我が家では先生、学校に、「私たちはクリスチャンで、私たちの信じている本当の神さまでないものに関わるような祭り事だとか偶像礼拝に関わるようなことはなるべく避けたい。」と、「そのような時は、私たちに一報入れてほしい。」ということでお願いしてありましたので、学校の先生が声をかけてくださいました。
その節分行事は、鬼の的を作って、それに的当てをするという、そんな行事であったのですが、先生が気を遣ってくださって、息子の的だけ、違う的にしましょうか?と提案してくださったのです。そんなことを聞いた私の妻は「息子だけ変えているのも少し違和感もあるので学校を休んでもいいですよ。」と答えたそうです。「でも本人にどうするか聞いてみてください。」と先生に伝えたのです。親の信仰ではなく、彼の信仰で、これから成長していったら歩んでいかなければいけないので、そのように彼に託したのです。
それで先生が息子に聞いたそうです。「鬼の的当てをやるけどやりますか?」と。そうしたら息子は何と言ったかというと、「鬼は偶像だからやりません!」と、はっきり答えたのです。そんなことを先生は聞いたものですから、学年で話し合いを持つことになったそうです。そしてなんと学年全体で鬼の的当てはやらなくなったのです。すごいですね。そして何を代わりにやるようになったかというと、ウイルスバスターと名付けて、ウイルスの的を作って、ウイルスに的を当てる行事になったそうです。私の息子の小さな信仰告白、「鬼は偶像だからやりません!」という小さな宣言により、先生たちを動かして、学年全体を動かして、偶像礼拝に関わる節分行事から皆が守られたということは、まさにヨナが神さまから伝えることを宣言せよ!と言われて宣言した時に、人々が、被造物が、街が救われていくということに重なるのではないかと思います。
主が必ず皆さんの宣言を通して、素晴らしいことをなしてくださいます。私たちに委ねられたことばを信じて宣言していきましょう。

そしてヨナ書に戻っていきたいと思いますが、四章、最後の章ですが、偏った愛国心を持っていたヨナは敵であるニネベが救われるという、自分が最も恐れていたことが起こってしまい、ヨナは神さまに対して不機嫌になっていました。そんなヨナに対して神さまがことばをかけられて、ヨナ書が締めくくられます。ヨナ書十四章十一節、

“ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」”

と語られました。神さまは、ユダヤ人以外の異邦人の人々も含めた人々、また家畜である被造物を救われました。街そのものを救われたわけです。被造物も含めた街そのものが救われるというのは、神の国が到来すること表していると覚えさせられました。ヨナ自身は、全被造物への福音という全幅の福音、神の国がこの地に到来するという壮大な主のご計画、新約聖書の時代に生かされている私たちと同じようには理解できていなかったのではないかと思います。それゆえにヨナは偏った愛国心、選民意識を持ってしまったのではないかと思われます。では私たちはどうだろうか?私自身どうだろうか?ということを自問自答させられました。壮大な神の国の到来という青写真を常に見つめながら、任された福音宣教の戦いに出て行く歩みが出来ているだろうか。そんなことをヨナ書を通して、神さまから問われた気がします。そして、神の国の到来という青写真を見つめるということの大切さを覚えさせられています。

最後に「ヨナ」ということばの意味を見ていきたいと思います。この「ヨナ」というのは、語源をたどると「鳩」という意味があるそうです。鳩は聖書の中において多く見られる鳥であります。預言者ヨナの鳩としての役割は何であったのかな?ということを考えさせられます。
そして聖書の中で鳩で思い浮かんだのは、ノアの方舟で大洪水の後のことでした。ノアの時代、地上に悪が増大して、皆の心がいつも悪に傾くのを神さまが見て、神さまがノアに方舟を作らせ、そしてすべての悪を洪水によって消し去ってしまったということがありました。
そして大洪水の中、水が引いたかどうかを確かめるために、ノアが放った鳥の一つが鳩でした。最初にカラスを放ちましたが、その後に放ったのが鳩です。その鳩がオリーブの若葉を加えて戻ってきて、その地から水が引いたのを知ることになるわけですが、大洪水が起こった後、すべての悪が消された世界が広がっていました。どのような光景だったでしょうか?それは悪のない神のみ国そのものと同じ光景が広がっていたのではないでしょうか。放たれた鳩は、大空を飛び回りながら、悪のない、また、そこには新しい命が芽生え始めた素晴らしい世界を見ていたと思います。鳩はやがて現される神のみ国そのものと同じ光景を最初に見ることができた生き物、鳥ではなかったでしょうか。そしてまたオリーブの若葉を加えた鳩の姿というものは、神のみ国の前味を最初に味わうことができる姿のように見えます。