〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
時を悟ろう。パート2 〜’92年7月9日(木)をふり返りつつ〜

2023年7月9日(日)新城教会主任牧師 滝元順

歴代誌 第一 12章32節〜33節

『イッサカル族からは、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っていた、かしら二百人。その同胞はみな彼らの命令に従った。ゼブルンからは、完全に武装して戦いの備えをして従軍していた者五万人。彼らは心を一つにして集まった。』

ハレルヤ!皆さんの祈りに支えられ、ここまで来ることができ、心から感謝します。今月は賛美月間ということで、多くの賛美がささげられています。今日は七月九日。新城教会は、記念の日です。
先週も語らせていただきましたが、一九九二年七月九日、早天祈祷会で祈っている時、「地域に出ていって暗闇の力に立ち向かって祈れ!」という、主からの強い促しがありました。
おりしも一九九三年十一月には「甲子園ミッション」を控えて、全国の教会が「日本のリバイバル」というテーマで真剣に祈っていたただ中でした。

私たちは長く、この地で宣教を展開してきました。今年は宣教七十周年です。日本のプロテスタント宣教は、横浜で一八七二(明治五)年、ジェームス・バラにより、「日本基督公会」が設立された事から始まります。ゆえに一五〇年以上の歴史があります。
しかしながら、宣教は遅々として進んでいません。教会に通っているクリスチャンの数は、人口の〇・二パーセントぐらいではないかと言われます。
新型コロナの影響で、八千あった教会が六千ぐらいにまで減少したのではとも言われます。二千も減ったとは、信じがたいです。しかしお隣の韓国では、一万の教会が消えたと言われます。
今や世界において、キリスト教よりもイスラムが伸びています。今まで世界で最も多くの人たちが信じていたのはキリスト教でした。しかしまもなくイスラムに追い越されるというのです。どうしてそんなことがあるのか・・。
日本の教会は、熱心に福音を伝えています。しかし、なかなかうまくいかないのです。その原因は何だろう・・ということです。その根本原因について、コリント人への手紙 第二 四章一〜四節、

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。』

日本の教会は困難の中、真剣に福音を伝え続けています。まさしく、『神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。』とある通りです。
社会におけるクリスチャンに対するイメージは、良いものです。クリスチャンと言ったら、真面目で善良な人たちと思われています。これは今までのクリスチャンたちが、良い印象を社会に与えた結果です。もしも牧師が何かモラルに反するような事件を起こしたら、昼のワイドショーに出てしまいます。しかし他宗教で何かあっても、あまり興味を示さない感じです。やはり、クリスチャンは道徳的な生活をしているという、社会に一般理解があるからです。まさに、日本のクリスチャンたちは、みことばを実践しているのです。
・・『神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。』
日々の生活の中で、会社において、家庭において、自分がクリスチャンであることを公にする場合、やはり生活態度も含んでの推薦です。

それでもなお、「福音に覆いがかかっている」としたら、どこに原因があるのか・・。それは『この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。』と、教えています。
この世の神とは何か。それは悪魔・悪霊どものことです。悪魔・悪霊どもが福音の光に覆いをかけているというわけです。先週もお話ししましたように、大きな毛布を持ってきて、覆いをかけてしまえば光は届きません。街全体に覆いがかかっていれば、私の白内障みたいなものです。今回、私はそれを体験しました。
長いこと私は、「我が家のテレビって色が悪いなぁ、古いからかな・・」と思っていました。買い替えなければいけないと考えて、家族に「このテレビって、ちょっと色悪くない?」と聞いたら、「そうかな?」と言うわけです。
でも今回、目の手術をしたら、テレビは結構いい色をしているではないですか。悪いのは、テレビではなく、私の目だったわけです。
一生懸命、伝道しても、なかなか人々がクリスチャンにならないのは、教会が悪い、クリスチャンが悪いのではなく、福音に覆いがかけられているからです。まず最初に、街の覆いを取り外さないといけないのです。

一九九二年六月にハートフルサパーという集会が開かれました。その時に、「街の覆いを取り去るために祈りなさい」と祈祷会の中で、主がある人に語りました。その時に与えられたみことばの一つがこれです。
イザヤ書二十五章七〜九節、

『この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」』

このみことばは、究極的には、イエスさまが再び帰られるときに、覆いが取りのけられる事を意味しています。
しかし、「山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除く祈りをしなさい。」と主は言われました。

ハートフルサパーは、一週間前、三百名ぐらいの動員でした。しかし青年たちは、千名を目標にして準備していました。私は長い経験から、「三百人ぐらい集まりゃ成功だ」と思っていたのですが、青年たちは息巻いてバーベキューの肉を用意していました。私は、大量に余るぞ!と思っていました。
しかし、その前週の祈祷会で、「山の上から街を見下ろし、覆いを取りさる祈りをしなさい」と告げられたのです。あまり意味はわからなかったけれど、何しろ、山に登って「覆いを取ります!」と祈りました。
 すると不思議なことが起きました。ハートフルサパーには、千二百人くらいの人々が集まったのです。これは預言的な写真だと私は大切にしています。
新城教会の模型がステージ上に作られて、川の側でこんなにも大勢の人たちがバーベキューをして喜んでいる姿は、さながら、イエスさまがお帰りになった時、いのちの川のほとりの宴会を表しているかのようです。それが九二年に起こったのです。これを一時のことだと思わないで下さい。これから主が、この街になそうとしておられる影であると私は信じています。

日本で福音が伝わらない一番の原因は、「この世の神の覆い」です。
私はこの視点を日本中の教会が理解して、街にかかっている覆いに対して、取り去る祈りを始めたら、いつか必ず、覆いが取れて、主の栄光が現されると、私は堅く信じています。

では歴史的に、いつ日本に覆いがかかったのでしょうか。その事に関して、先週、少しお話ししました。
この国に、福音に対して覆いがかかったのは、歴史的に言えば確実に「江戸時代」です。徳川家康が、キリスト教を禁教にして、二百数十年間、強烈な迫害を展開した事が原因となっています。五人組を作り、キリシタンを発見したら公開処刑にして、全国で大迫害を繰り広げました。
その結果として、日本人に、「キリスト教だけはやめておこう・・」という情報が、DNAの中に書き込まれたのだと思います。
皆さんも、教会に来られる前、キリスト教に対して、そのような印象を持っていた事でしょう。「他宗教はいいけれど、教会だけはな…。」なぜか分からなくても、別に高札も迫害もないけれど、遠ざけられることこそ、覆いなのです。

それがいつから始まったのかと言えば、「江戸時代」です。江戸時代の創始者は徳川家康ですが、その天下分け目のきっかけとなる戦いが、一五七五年七月九日、設楽が原で起こったのです。
ここにタイムマシーンがあって、一五七五年の今日に戻る事が出来たら、大変です。この近所、血の海のはずです。数時間の戦闘で、戦死者一万六千人と言われます。
教会の所在地は「新城市富沢字市神」という地番が付いています。地番の中に古いものが残ると言われますが、「市神」とは、ここにかつて市場があった名残です。当時の街の中心が、このあたりにあったのです。
しかし、この付近は長いこと放置され、使われていませんでした。父がこの土地を買おうとして、「坪いくらですか?」と尋ねたら、「一坪五百円」でした。当時にしても、坪五百円はあまりにも安すぎでした。父はよく話していましたが、「坪千円で買ってやったんだ。」と。五百円で倍の面積を買って欲しかったですね。
こんな血生臭い土地をほしいという人はいなかったからです。父はよそ者で、知らずに買ったのです。この近所は戦場で、世界で初の大量殺人兵器が使われ、多くの人が死んだのです。その戦いが「設楽原の戦い」でした。

前回お話ししましたが、なぜ、新城教会で霊的戦いが始まったのか。それは、この図を見ればよくわかるのではないでしょうか。

長篠城とは、徳川家康と武田勝頼との覇権争いの最前線だったわけです。当時、長篠城は家康のものでした。そこを勝頼が取り囲んだ事から大規模な戦いに発展したのです。もしも武田が設楽が原で勝利していたら、日本の歴史は完全に変わったはずです。この戦で、家康は最前線に出て戦っていました。東郷中学校の裏山を拠点に、武田勝頼と激しく戦ったわけです。あの時、家康が弾に当たって死んでいれば、日本の歴史は完全に変わったのです。キリスト教迫害もなかったかもしれません。皆さんも私も、生まれていたかどうかわかりません。
歴史の転換点は関ヶ原ではなく、設楽が原です。やがて徳川時代になって、キリシタンが迫害されて、国全体に覆いがかけられたわけです。それは福音から遠ざける、この世の神の覆いでした。それは歴史の背後に、悪霊どもが介入した事を意味します。
これをただの歴史的視点で捉えるのではなく、霊的視点で理解する必要があります。悪魔は日本の将来を見据えて、真剣に覆いをかけ、今もなお、かけ続けているのです。

新城教会が一生懸命に祈ったから、霊的戦いが始まったという問題ではないのです。主は歴史を取り戻すために、この地から戦いを始める必要があったのです。主がこの地に教会を建てられ、救われた人々を、主の勇士とされたのです。リバイバルのための祈りのただ中で、主はこの地から、霊的戦いを始められたのです。

今日読んでいただいた聖書箇所は、サウル王の古い体制からダビデの体制に変えて、今まで放っておかれた神の臨在を回復する為に、神の時が訪れたことを記録しています。十二部族全体が、神の時を悟ったのです。そんな中、イッサカル族とゼブルン族からは、

『時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っていた、かしら二百人。その同胞はみな彼らの命令に従った。ゼブルンからは、完全に武装して戦いの備えをして従軍していた者五万人。彼らは心を一つにして集まった。』(歴代誌 第一 十二章三十二〜三十三節)

時を悟った勇士たちが、ダビデのもとに自主的にやってきた事により、国の支配は変わったのです。
まさに一九九二年と三年は日本にとって、大きな霊的変革のチャンスでした。主は、歴史の変換点である設楽原にある教会を使って霊的戦いの火ぶたを切られたのです。それは、国を主の元に取り戻すための戦いでした。
しかし悪魔もその働きを止めようとしました。
そんな中で、最も反応した点がどこかというと、「悪霊どもが地域を支配している」という点に関してでした。「そんなこと、絶対にありえない!」と言うのです。悪霊は人にはちょっかいを出しても、地域全体に覆いをかけるなんてあり得ない!と多くの牧師たちが反応し、霊的戦い反対本まで出版されました。