〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
時を悟ろう。パート2 〜’92年7月9日(木)をふり返りつつ〜

でも聖書を見たらどうでしょう。マルコの福音書五章九〜十節、

『イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。』

とあります。イエスさまはゲラサ地方に行かれた時、墓場に住んでいる悪霊に憑かれた男たちと出会ったのです。イエスさまは彼らから悪霊を追い出したのですが、悪霊どもは「私から悪霊を追い出さないでください。」とは言わなかったのです。「この地方、すなわちゲラサとデカポリスの町々から追い出さないでください」と懇願したのです。懇願とは、願いを聞いてもらうように、必死になって頼む様です。
悪霊は個人では無く、地域全体、町全体に覆いをかけて福音から人々を遠ざけているのです。

”イエスのゲラサでの働きは、地域を束縛している悪霊との直接対決であった。単純にマルコ五章十節を読むなら、悪霊どもが「この地方から追い出さないでください。」と懇願しているからである。”

単純に聖書を読んだら、悪霊どもが、この地方から追い出さないでくださいと懇願しているではないか!と言うことです。子どもでも分かる記述です。単純に読めよという感じです。
聖書注解書を見ても、

“「この地方から追い出さないでください」とは、当時一般に、ある悪霊はその地方だけに居住しており、他の地域には他の悪霊がいると考えられていたからである。”
当時の一般的理解に併せて、聖書の記述の中にも地域に対する言及があるわけで、悪霊は何らかの地域性を持っていると理解して良いはずです。
悪魔・悪霊どもは、個人というよりも共同体を掴んでいるのです。日本はまさにその通りです。

以前、少しお話ししたのですが、地域や街が生み出される要素です。
その一つに、「ある空間に対して言葉が語られ、名称を付けることによって街ができる」と言われます。新城も、誰かが「ここは新城!」と名付けたから、新城市という街ができたわけです。
そしてもう一つ「ある地表面を舞台に、人々が共通の体験をする場合」です。
現在の新城市は、「旧新城市」と「作手村」そして、「鳳来町」が合併して「新城市」になっています。なぜかと言ったら、市のマークを見ればわかります。この三つの町には歴史的な共通体験があるからです。設楽原の戦いという、共通体験によって、現在の新城市が生まれたわけです。

日本の歴史は四世紀ぐらいに大きく変化したのですが、六世紀頃、この地域は「穂の国」と呼ばれていました。「穂の国」という言葉、今でもよく聞きますよね。
 穂の国って、結構広い範囲を指していました。渥美半島の先端から、豊根村までが「穂の国」であったそうです。豊根村から教会に来られている方もおられます。穂の国の真ん中が現在の新城市でした。
穂の国は、どうしてできたのか、ご存じですか?新城市の西に本宮山という高い山があります。標高は七百数十メートルあります。

そこ行きますと、山頂に「国見岩」という岩があり、説明の札が立っています。
そこに何と書いてあるかと言うと、「昔、大己貴命(おおなむちのみこと)がこの岩山に神霊を留め、この岩上から国見をして、“穂の国”を造ったと言われる。」とあります。

穂の国は誰が造ったのか。創造主が造ったのではなく、「おおなむち」という神話の神が、岩上に降りてきて、眼下を見下ろして、「ここは穂の国じゃ。土台は俺様だ!」と六世紀頃、宣言しているのです。
ということは、新城市を含む、かつての穂の国の土台は、日本神話の神々、すなわち、悪魔・悪霊どもだということになります。誰かがその宣言を取り消さない限り、この世の神が土台となり続けます。これが福音に対する覆いになっていると言えます。他にも、歴史を見れば、日本には幾重にも覆いがあります。覆いがある以上、宣教が前進しないのは当然です。

冬になれば、電気カーペットを使います。韓国では、オンドルというものがあって、床が温かいわけです。そのスイッチが夏まで入っていたらどうなりますか。それに気づかなかったら、「おかしいな、暑いなぁ・・」と、汗をダラダラ流しながら、生活しなければならないのです。
以前にも話したことがありますけれど、二〇〇七年にハワイでリバイバルミッションを行った時、一台の車を貸していただきました。岡本泉ちゃん(当時は)が、私を空港まで迎えに来てくれました。そしてこう言うのです。「順先生、この車、助手席、結構暑いから気をつけてね。シートが熱いから。」と言うのです。「エンジンが悪いのかなぁ・・。」とか言っていました。私がよく見たら、シートヒーターのスイッチが入っていました。そんなものハワイに必要ないのに、ボルボというスウェーデン製の車で、シートヒーターがついていたわけです。それを見つけたのでオフにしました。そうしたら、車が爽やかになりました。

同じです。街々に霊的シートヒーターが点灯しています。この地域は、土台に日本神話の悪霊どもが噛んでいて、その上に、一五七五年、死の霊が入って来たのです。その結果、日本にキリシタン大迫害が繰り広げられて、福音宣教は現代においても遅々として進みません。この理由を知らずして、教会がいくら頑張っても、良い結果が出るわけがないのです。

しかし、主が一九九二年七月九日、設楽原の戦いの日時に合わせて、午前六時、霊的戦いを始めて下さったのです。時間まで合わせて、「犯人はこいつだ!」と、私たちに強く印象付けてくださったわけです。
今日がその記念の日です。滝元順が、また新城教会の一部の人たちが特殊なことを始めたのではありません。これは、主が始められた戦いです。そして、この戦いは未来に関わる戦いです。そのために、一人ひとりは召されていることを知らなくてはいけないのです。
悪魔・悪霊どもは神ではなく、被造物です。人を束縛するには、偽りの策略が要るのです。神さまには策略は要りません。どこにでも、同時存在できるからです。悪魔・悪霊どもは、ここにいたら、向こうには同時にいられません。ゆえに、何らかの騙しの策略がいるわけです。その策略が何かと言ったら、基本的には「偶像礼拝」です。

ゲラサも地域全体で「豊穣神デメテル」という女神を拝んでいました。同時に人々は、祖先崇拝に明け暮れていました。このことは以前にもお話ししました。
その結果、悪霊どもは、地域を牛耳ることが出来たのです。イエスさまは、レギオン、すなわち、地域を支配する暗闇を打ち破られたのです。
「新城」はどこにあるのか、新城人の心の中にあります。同様に、レギオンに支配されていた男を解放する事で、ゲラサ全体を解放することができたのです。その男は、ゲラサを代表する人物だったのです。
教会にゲラサの男、女が来ないと、リバイバルは起きないと思うのです。悪魔に捕まえられて大変な人たちが教会に来て、解放を受けることは、街全体の解放です。イエスさまはそれを実践されたのです。ある意味、私たちもゲラサの男、女であるがゆえに、教会に導かれたのではないでしょうか。人の見方と神の見方は全く逆です。悪魔に捕らえられて苦しんでいる人たちを、イエスさまは何とか解放したいと願っておられます。なぜならば、その人が、街の代表者であるからです。

今年は宣教七十周年という記念の年です。主は何らかの、新たなることを成し遂げたいと願っておられるのではないかと思うのです。
以前にもお話ししましたけれど、聖書から見れば、「七十」とは、バビロンから解放されたのも、捕囚後七十年でした。一般にも七十年は、プラチナ・ジュビリーと呼ばれて、王が即位して七十年経つと特別な祝いの年です。エリザベス女王はプラチナ・ジュビリーのお祝いを済ませて、その後、亡くなりました。教会が七十年間存続したのは、神の目からはプラチナ・ジュビリーではないでしょうか。主が喜んでおられると思います。さらに、今年はもしかしたら、ユダヤ暦五七八四年ということになると、ヨベルの年の可能性があるそうです。ジュビリー、ヨベルの年・解放の年です。今年の七月九日は、今までにない神の目的と祝福があると信じます。

今日は午後から山の上に登って、穂の国という土台を消し去り、「この街の土台はイエスさまだ!」と宣言したいと思います。
お一人一人、いろいろな街に住んでおられると思いますが、歴史を調べれば、必ず、怪しい土台が据えられています。ご自分の住んでいる街の土台を、勝ち取る宣言は大変重要だと思います。ぜひ街の、村の、そして、地域の土台がイエス・キリストだ!と宣言して、土台を勝ち取ろうではありませんか。

その為には時を悟り、時を知る必要があるわけです。神の時に気づかないといけないのです。先週もお話ししましたけれど、七月九日は、一五七五年から何百回も繰り返されていました。しかしその日が霊的にどんな日かを理解する人はいなかったのです。新城教会も、その時点では、四十年ぐらい経っていましたから、四十回ぐらい繰り返されていました。その日がどのぐらい霊的にやばい日であったかを気づいていなかったのです。
しかし九二年の七月九日、聖霊さまが教えて下さいました。それで、皆、立ち上がったのです。
あれから三十年。今日は三十一年目に入りますが、新たな神の時に気づかせていただきたいと思います。イッサカル族の二百人の一人になろうではありませんか。またゼブルン族の完全武装をして、戦いに出て行った一人になろうではありませんか。心を一つにして、敵の手からこの街を、国を、取り戻す者になりたいです。

そのために必要な祈りは、数多くあると思われますが、その時、主から教えられた祈りをまとめてみました。
まずは「聖霊さまを歓迎する祈り」が必要です。私たちはイエスさまの名により、父なる神に祈るのですが、助け主は聖霊さまです。聖霊さまは、歓迎する時に来てくださいます。聖霊は常に働いておられますが、意識して「聖霊さま、来てください!」と祈ってみてください。お招きするのです。九二年、皆で、聖霊さまを歓迎する祈りをしました。それまでも聖霊さまは来られていましたが、意識して「聖霊さま来てください」と祈るようになった時、二月十三日に来て下さり、聖霊の賜物が開花しました。その結果、今までにないことが起こったのです。

同時に、聖霊とは「聖い霊」ですから、罪の悔い改めが必要です。当時、誰が言うわけでもなく、指摘するわけでもなく、「過去にこんな罪を犯しました。一人では負いきれないので祈ってください。」と、悔い改めの運動が起きました。

霊的戦いには、十字架の血潮の守りが必要です。黙示録十二章十一節、

『兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。』

霊的戦いに勝利するためには、子羊の血と、自分たちの証しのことば、すなわち、宣言が必要です。十字架の血潮の守りをいただく必要があります。
二番目と三番目を包括するのが聖さん式です。聖さん式は、罪の悔い改めと、十字架の血潮の宣言に他なりません。
私は家内が亡くなってから、朝起きたら必ず、最初に聖さん式を行うことにしています。聖さん式から一日を始めることにしています。聖さん式の中に、悔い改めと、十字架の血潮の守りが与えられます。
悔い改めても、「赦されたのかなぁ・・・?また悪いことしちゃったよ!赦されていないのかなぁ・・?」と心配になります。しかし聖さん式は、イエスさまの十字架の血潮の宣言ですから、朝、何かする前に、聖さん式を行ってみてください。

霊的戦いが始まった日、天の軍勢が一緒であることが分かりました。み使いたちが、我々と一緒にいることは、聖書に書いてあっても、気づいていなかったのです。私はみ使いとか、天使は、弱い存在のように思っていました。森永キャラメルのキャラクターみたいで、クリスマスの時だけ出てきて、ちっちっちと鳴いて裸でウロウロしている存在みたいに感じて、良いイメージを持っていませんでした。
しかしそれは大きな間違いであることが分かりました。七月九日、天の軍勢は、我々をサポートする強力な軍団だ!と分かったのです。
詩篇三十五篇五節、六節、