大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
東三河と聖霊の注ぎ

2024年2月4日(日)新城教会主任牧師 滝元順

列王記 第二 4章4〜7節
“家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」”

使徒の働き 2章1〜2節
“五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。”

ハレルヤ!素晴らしい賛美の中、皆さんと共に過ごすことが出来て、心から感謝します。
早いもので二月になってしまいました。二月という月は、一年の中でも特殊な月です。現代は太陽暦が一般的です。それは地球が太陽の周りを一周するのを一年としています。しかし二月だけは、太陽暦ではなくて、太陰暦、二十八日です。月が地球の周りを一周する周期で一ヶ月が定められています。今年は閏年で、太陽暦のぶれを直すための一日がつけ加えられています。
聖書の暦は太陰暦です。ですから、神のスケジュールは、太陽暦ではなく、太陰暦にあります。いつも語っているのですが、たかが暦、されど暦で、ヘブル民族をエジプトから脱出させるために多大な努力をされた神は、最初に、イスラエルが慣れ親しんだ、エジプトの太陽暦を廃止し、神の暦、太陰暦に変更されました。
そのような意味で二月は、今日においても神の月と言えるのかも知れません。そして二月は、新城教会にとっても記念の月です。

 一九九二年二月十三日の深夜十一時頃、愛知県民の森において聖霊が注がれて、新しい扉が開かれました。それは他でもなく二月でした。毎年私は、二月にはそのことを記念し、メッセージを語ることにしています。それも、毎回、第二列王記四章一〜七節から語っています。油注ぎ保つ為に「後ろの扉を閉めろ」と教えてくださったからです。
油注ぎを維持するために、後ろの扉を閉めなさい!と主が語ってくださり、以後、霊的戦いが始まったことを毎年、語らせていただいております。

「聖霊の注ぎ」は、聖書の中では首尾一貫した大きなテーマです。使徒の働き二章一〜二節を見ると、弟子たちに聖霊が注がれてから、新しい扉が開かれて、世界宣教へと導かれました。
聖霊を体験する事はたいへん重要です。イエスさまを信じた時、聖霊さまは私たちの所に来てくださいます。しかし、聖霊の炎が燃え立つ為には、聖霊を体験する必要があります。
ガス湯沸かし器がありますが、湯が沸く必要最低条件は、「種火が点いている」ことです。種火がなかったら、いくらガスが来ていても火は点きません。同様に種火だけでも、湯は沸かないのです。
イエスさまを信じる時、心に聖霊の種火が点くのですが、さらにコックをひねっていただいて、大きく燃やしていただかないと周囲を変化させる事は出来ません。

本をよく読まれますか。私は目が悪くなって、あまり読むのが好きではなくなってしまいました。最近は、少し目が良くなったので読めるようにはなりました。ぶ厚い本でも、読むコツがあります。それは最初に、前書きを読んで、次に、あとがきを読む事です。そうすると全体が把握できて、途中でつまずいても、読みやすいです。作者が言わんとしているところは、前書きの中に大体書かれています。また、後書きには、結論が要約されていますから、そこを押さえておけば全て読まなくても、大体理解できるからです。
聖書も同じです。最近、聖書の読み方が変わってきました。昔はランダムに六十六巻を読んでいましたが、聖書は「神が書かれた物語」という視点で読まれるようになりました。はじめに神は天地を創造されたわけですが、最終的に何をなされたいのかという事です。
神が成し遂げたい結論が、エペソ人への手紙一章九〜十節に要約されています。ここに「みこころの奥義」という言葉が使われています。これはある意味、結論です。
さて神のみこころの奥義とは何でしょう?

“みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。”

聖書の結論、神のみこころの奥義とは、「一切のものがキリストにあって一つに集められること」だと言うのです。
先日紹介した岩波訳聖書では、

“その気に召すところに従って、私たちに御心の奥義を知らしめたが、(神は)これを(実現すべき計画として)キリストにおいて前もって定めておき、時の充満(の実現)を取り計らうこととした。(その奥義とは)万物をキリストにおいて、天上のものも地上のものもキリストにおいて一つにまとめる、というものである。”

と訳されています。この訳、なかなか心に響きます。天上のものも地上のものも「キリストにおいて一つにまとめる」ことが神が最も実現したい世界なのです。
今はその日に向かう*過渡期(*古いものから新しいものへと移り変わる中間の時期。または、物事が確立されず、動揺している時期。)であるわけです。やがて、地上の被造物と天上の被造物、そして神の世界をも含めて、一つとなるのです。それが新しい天地の完成の日です。そこに向かって、私たちは主と共に進んでいます。

そして「聖霊の注ぎ」とは、まさしく天のものと地が一つになるテーマそのものです。
一九九二年二月十三日、私たちのところに力強く聖霊が訪れて下さいました。それは、やがて天と地が一つにまとめられるという、象徴でもあり、励ましでもありました。

第二列王記四章に、「油」が出てきます。ここで出てくる「油」は、エリシャによってもたらされた実際的な油です。しかし油は、「聖霊」をも意味します。第二列王記四章の油が増えた奇跡は、聖霊に満たされる秘訣として解釈しています。今日お一人一人が、聖霊の油注ぎを受けるならば、天と地が一つになるという、神のみこころの奥義の実現となるわけです。

 世界は、日々、混乱しています。能登半島においては、大地震が起こり、一瞬にして消えてしまった集落もありました。先週、政府が発表したところによると、「日本列島において安全な場所はどこにもない。」と言うことです。明日は我が身か、いや、今日は我が身かもしれない危機的状況下に私たちはあります。

また一方では戦火も拡大しています。
 ガザでの戦いは、昨年十月七日から始まり、四ヶ月ぐらいが経過しています。そして今や、この戦いが世界に拡大する様相です。
先週、アメリカ軍は、シリアとイラクに爆撃を加えました。背後にイランが関わっているということで、イスラエル対イランの戦いに発展しそうです。
あっという間に戦火は広がります。日本人は対岸の火事みたいに考えていますけれど、日本の隣国はロシアです。ロシアはウクライナで戦争をしています。今や世界中に広がる前夜のようです。
ガザにおいては、二万五千人ぐらいの人たちが死亡したと言われます。その根拠として、ガザの保健当局発表のデータが使われていますが、あれはハマス側の発表です。彼らの発表を真に受けることはできないはずです。本来の死亡者は、そんなに多くはないのかもしれません。しかしこれはわかりません。彼らの発表によれば、二万五千人ぐらいが四ヶ月間で亡くなったというのです。近代戦って怖いです。

 昨日、少年たちと、設楽が原の戦いのとりなしに行きました。一五七五年七月九日、そこでは数時間の戦闘で、一万六千人が死んでいるのです。これって、信じられない数字です。ガザでは四ヶ月間、爆弾を毎日のように落とし続け、近代兵器を駆使しても、二万五千人ぐらいですが、一六世紀の設楽が原では、「たった一日で一万六千人」が死亡したからです。新城市で起こった戦争が、どれほど悲惨だったのかと言うことです。

毎週、土曜日に少年たちが私の家にやってくるという話、毎回で、私にはその位しか話題がないので申し訳ないのですが、彼らは風邪を引いていて、なかなか来れなかったのですが、昨日は人数を増やしてやってきました。それで、ガザより悲惨な馬防柵で、戦争が拡大しないように!と祈りました。またその近くに、「首洗い池」という池があります。武田方の武将たちの首の血を洗い落とした場所です。私が幼い頃、その池は赤かったです。というのは本当かどうかわかりませんが、昨日は彼らにその話をしたら、「赤くないじゃないか!」と言っておりました。池にはたくさんの鯉が泳いでおり「この池の鯉はかわいそうだ!」と話していました。
昨日は二人ではなくて四人我が家に泊まりました。夕食にはま寿司に行ったのですが、私は四皿ぐらいしか食べませんでしたが、彼ら、見てください。「じぃじを困らせてやる!」とばかりに、皿を積み上げ一万円も食べました。
「お前たちが良く祈らないと、将来、戦争に巻き込まれるぞ!」と話したら、彼らは真剣に祈っていました。今こそ祈りが必要な時代ではないかと思うのです。
ということは、逆を言えば、神の計画は、最終章を迎えているということではないでしょうか。
最終章、それは天に造られた被造物と、地に造られた被造物を合体させて、新しい天と新しい地の完成です。
その象徴として、聖霊が注がれるのです。

「油注ぎ」という言葉をよく使います。「油注ぎ」とは、どういう意味かに関して、「バイブル・プロジェクト」が、うまく説明しておりました。
ヤコブが荒野で夢を見ました。この場所はやがてベテルという名称になったのですが、夢を見たのです。
その夢は、ヤコブの枕元から天に至る階段があって、新改訳では「はしご」と訳されていますが、階段とも訳すことができます。この階段を天使たちが、上り下りしていたのです。新共同訳では「主が傍らに立っておられた。」となっています。
夢から覚めた後、ヤコブが何をしたのかと言ったら、そこにあった石を立てて「油を注いだ」と記されています。そしてルズという地名を、「ベテル」=「神の家」と変更したのです。

油注ぎとは何か、それは、普段「天と地」は別れているけれど、油注ぎとは天と地が接することだと言うのです。
かつてイスラエルで王が任命される時、預言者は王となる人物に油を注ぎました。これはどういう意味かと言ったら、普通、一般人に天と地は接していません。地上の価値観だけで生きています。しかし人に天が接するならば、彼は神の知恵で生きることができます。王には天が接していて神の知恵で民を導くのです。ゆえに預言者は、王となる人物に油を注いで、天と地が合体する事を宣言したわけです。

また「油注がれる」とは、ただ単に人だけでなく、場所にも関わります。なぜならヤコブは、ベテルを天と地が結ばれた場所として油を注いだからです。地名も「神の家」へと変えられました。
人だけでなく、場所にも天が降りてくるのです。これは重要な理解です。なぜならやがて、すべての場所に天が接して神の国は実現するからです。

一九九二年の二月十三日、愛知県民の森で祈っている最中に、激しく聖霊が注がれた場面を「主が立ち上げられた日」という本に書きました。それを読んでいただければわかると思います。今でも県民の森の祈祷会、毎週、月曜日に行ってます。この場所に主が降りてきて、天と地が接する場所となっています。
また、あなたに天が降りて来た体験があるとしたら、あなたは神の国の実現の場所なのです。

神は、すべての天とすべての地をまとめたいと願っておられます。
今日は聖餐式礼拝ですが、聖餐式は天が地に接する油注ぎの瞬間です。聖餐式によって、静かに、しかも力強く天が地に接するのです。今日の聖餐式に期待していただきたいと思います。