大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
東三河と聖霊の注ぎ

今日のタイトルは、「主よ。遅れないでください!」という大きなタイトルと共に、「東三河と聖霊の働き」です。
私たちの教会があるのは、愛知県、かつての三河の国の東、「東三河」です。神はこの地域に計画をお持ちです。その計画とは、天と地が一つにまとまる為の計画なのです。

私は高校を卒業して、豊橋の市役所に入所したのですが、土木課に配属されました。するとそこの職員たちが、「お前はクリスチャンか!お前が入ってくる前に、この課にもクリスチャンがいた。彼は市役所をやめて、牧師になったぞ!」と言いました。私と同じ職場に、牧師になった人物がいたのです。誰かなと思ったのですが、あまり気にしませんでした。
後に分かったことですが、その牧師はバプテスト連合という教団に入って、平岡先生と一緒に仕事をしていました。それが白井公郎先生でした(2013年に召天されました)。
彼のお母さんは、奥三河が古里で、名は「羊」だったそうです。奥三河には珍しい名前で、もしかしてクリスチャンネームかな?と思ったそうです。それでいろいろ、自分の家系について調べたそうです。
そうすると、驚くべきことが発見されたというのです。

日本にプロテスタント宣教が始まったのは、幕末から明治にかけての事でした。鎖国をしていた日本に、海外からプロテスタントの宣教師たちが入ってきたのが最初です。
日本には一六世紀、カトリックの神父たちが入ってきましたが、やがて禁教となり、三百年近く経っていました。しかし禁教令が解かれる以前の幕末に、宣教師たちは入ってきたのです。
 そんな中、日本の宣教史上、最も大きな影響を残した宣教師がジェームス・バラでした。なぜなら彼は、日本に最初の教会を建てたからです。バラは健脚で伝道者でした。
しかし教会を継続する為には器を育てないといけません。もう一人、ロバート・サミュエル・マクレイという宣教師がいました。彼はバラよりも後に日本に入ってきた宣教師です。鎖国していた日本に宣教の必要性を感じ、一八七三年、宣教師として入国したのです。彼は神学校を建てました。青山学院大学がありますが、創設したのはマクレイです。バラとマクレイ、お互い、賜物は違いますが、明治期に入って、日本に大きな影響を残した人物だと言われます。
 賜物の違いが一つとなって、二人は一致協力して、日本のために働いたのです。キリストのからだの美しさです。
この二人の宣教師が、大きな影響を与えたのが日本のどこかと言うと、白井先生が調べたところ、なんと、奥三河だったのです。
新城市内に「海老」という地域があります。ここから二十分ぐらい北に上った地域です。

実は明治時代、この海老には教会があったのです。ここでリバイバルが起きて教会が建てられて、記録によると教会員数四十名、求道者二十数名となっています。寂れた地域です。ここに四十名以上が集まる活発な教会があったとは、信じられないです。この近くには千枚田があります。

 海老に教会ができたのは、マクレイ宣教師が海老の人たちに洗礼を授けたからです。マクレイの影響でリバイバルが起こり、教会が建てられたのです。
海老と共に、さらに北の設楽町津具でもリバイバルが起きたのですが、それはジェームス・バラの働きでした。なんと、新城から設楽に延びる谷に、かつて、聖霊が注がれ、多くのクリスチャンがいたという歴史が残っているのです。
白井先生は、ご自分の研究論文の中で、次のように記しています。

“二千年前にエルサレムで起こされた出来事が、この日本の文化の中で事実となり、それが現代の教会の中に「もっと大規模に実現するのではないか」と、歴史的な事実にたって「リバイバル」を期待していた学者たちがいた。”

明治の出来事を分析して、「その出来事は、かつて二千年前にエルサレムで起こった出来事と同じ」だと、それも、日本人の研究者たちがすでにリバイバルを期待していたという事実を突き止めたのです。
日本の文化の中でそれが現実になって、次には現代の教会の中に、もっと大規模に実現するのではないか!と、歴史的な事実に立って期待していた学者たちを発見したのです。
比較文化の学者たちや、教会地方史を分析していた学者たちの中に、日本に起こった出来事は、聖書の現象と同じという理解があったのです。

“それらの人々は「日本の近代史」を再究して「日本の教会の夜明けに起こされた働きは、神が教会のなかに特別に起こされたリバイバルであった」と証言している。”

と記しています。白井先生の調査・研究としてではなく、それ以前に、日本の学者たちが、横浜と海老村、津具村に起こった出来事を、二千年前にエルサレムで起こされた出来事と同じであると評価しているのです。そしてそれは日本全国にもっと大規模に広がるはずだと期待していたのです。
“その原点として明治六年(一八七三)「横浜の初週祈祷会」のなかに起こされた「小さな、しかし力強い出来事」を「エルサレム」で起こされて、世界の歴史のなかで繰り返されてきた「リバイバル」と同じ原則と現象と認めている。”

というわけです。明治六年、一八七三年に、横浜でバラにより、初週祈祷会が開かれて、そこに小さいけども、しかし力強い出来事、聖霊が注がれて、その結果、顕著に火が広がったのが、私たちが住んでいる地域であったのです。
一九九二年、私たちの所にも主は来てくださいました。それは決して偶然に起こったことではなく、既に付けられていたリバイバルの種火が、もう一度再燃して、点火したことに他ならないのです。
それは天と地が一つになる日を目指しているのです。主は何度も何度も消えそうな火を燃え立たせておられます。

私が生まれたのも津具です。何度も語っておりますけれど、津具は、何もない所です。お店もほとんど潰れてしまって、どうやって生きているんだろうか?というような場所です。しかし、かつてはここに大きなリバイバルが起こったわけです。

 これは父が小学生ぐらいの時に通っていた学校の写真だそうです。ここにジェームス・バラがやってきて、この村の人たちが主を信じ、半数ぐらいがクリスチャンになったわけです。
日本のキリスト教界で世界的有名人って、ほとんどいないですが、強いて言えば、賀川豊彦です。

“日本の明治から昭和にかけ、国が欧米に追いつき追い越して行く時代の中、社会から取り残された貧困にあえぐ人たちに、常に手を差し伸べ心をかけ続けた人物、それが「賀川豊彦(一八八八〜一九六〇)」であった。”

彼は国内よりも海外で有名で、その業績は、海外で高く評価されて、「二十世紀の三大聖人(ガンジー、シュバイツァー)」の一人に加えられるほどで、平和賞・文学賞などに計五回候補となりました。
こんな人物が日本のキリスト教の歴史に存在するのです。しかし彼は晩年、ユニテリアン主義に傾倒し、道を外しているのですが、彼が若き日に、なぜ信仰の火を燃やすことができたのかと言うと、津具のリバイバルでした。バラの一番弟子であった村井與三吉牧師と出会って回復したのです。

 津具には村井先生の碑が建っているのですが、「村井與三吉先生の碑」という書を書いたのは、他でもなく、「賀川豊彦」でした。この碑を見るだけで、かつてこの地で起こったことが、ただ事ではないことがわかります。

 右側の石板は、石碑を立てるためにお金を出した村人のリストです。しかし金を出さなかった反対派の中から父は誕生し、リバイバルの働きを継続したのですから不思議です。

現代を生きる私たちも、責任感を持って、この火を燃やし続け、新しい世代に受け継ぐ必要があります。

日本はリバイバルの波を何度も体験しています。明治の初期、二十世紀の末、そして二十世紀の初頭から戦後にかけても聖霊が注がれ、新城教会の、若者たちが聖霊によって田舎に遣わされたと話しました。
そして近年においては、一九九二年二月一三日、県民の森において聖霊の波が押し寄せました。第一波、二波、三波、四波と、これでもか!と、聖霊がこの地域を覆っています。

父は最初の宣教地、津具で住む家を失い、1953年頃、知人の紹介で、しかたなく新城に移住して伝道を始めました。当時彼らが、どれだけの重荷を新城市に対して抱いていたのかは分かりません。父は生活の為に豊橋の麻工場で働いていました。その最中、神の声を聞いたと言うのです。それが「我、土方なれど」一九七ページに出ています。仕事中に、こんな声が聞こえたらどうしますか?

“それから数日後に麻工場の機械を手にしながら働いているとき、実に不思議なみ声を耳にした。確かに、私の耳元で、神の聖霊が語りかけられた。こんな経験は今までに一度もなかった。
「今日、あなたが家に帰ると、スウェーデン宣教師のところから、手伝いをしている三輪町子さんがあなたの家に来ます。そして宣教師はあなたに伝道に来てくれるように依頼するでしょう。そしてあなたは伝道に行くようになります。するとまた、他の宣教師もあなたを伝道に招くでしょう。そして、また他の宣教師もあなたを招き、ついには日本中を回って伝道するようになるでしょう。」

仕事中にこんな声を聞いたら、普通は心配になります。「俺、少し疲れてんじゃないか?精神がやばいかも?」と思うはずです。現代ならば心療内科かどこかに受診しようか?と考えると思います。
しかし家に帰ったら、なんと、この声が実現していたのです。
三輪町子さんという方が自宅に来て、「宣教師があなたを伝道集会の講師として招いています!」と言いました。豊川市で活動していたレナンデルという、スウェーデン宣教師が父を伝道会の講師として招いたのです。
この宣教師夫妻、中国の共産革命により、中国、モンゴルから追い出されて、一九五〇年ぐらいには、すでに豊川市で活動していたようです。

一九五〇年代の豊川市ってどんな様子だったのでしょうか。ご存知のように、豊川市は一九四五年八月七日、豊川海軍工廠が爆撃され、ガザどころではない大きな被害を受けました。約三十分ほどで三千人近くの若者たちが死亡し、一万人ぐらいがけがをしました。真夏に、一瞬にして多くの若者たちの命が奪われたのです。遺体はすぐに腐敗し始めたそうです。それで急遽、大きな穴を掘って、死体を全て埋めて処理したと言うのです。その後、発掘調査が始まったのは、一九五一年だったと言われます。掘り返して、白骨化した遺体を引き出し、死亡者を特定したのです。本当に悲惨なことが新城市の隣町で起こったのです。設楽が原では数時間で一万六千人が死亡し、後に、豊川市では三十分ぐらいの爆撃で二千数百人が亡くなりました。歴史上、この地域ほど血生臭い地域はあまりありません。

先日私は、海軍工廠があった場所に、とりなしの祈りに行ったのですが、もしもここで悲惨な事件が起きなかったら、多分レナンデル宣教師夫妻は豊川には来なかっただろうと思いました。彼らは豊川市の情報を先に得ていたと思われます。豊川市の人たちは、生き地獄を体験したのです。そんな人々に福音を伝えたい!という強い願いと使命感と共に、彼らは来たはずです。彼らは中国語は出来ても、日本語ができなかったのです。
どこかに日本語で伝道メッセージを語れる者はいないかと探していたら、隣町の新城市に滝元明がいることを聞いたのでしょう。それで父を引き出してくれたのです。

ということは、豊川市でこの悲惨な歴史がなければ、今の新城教会はないのです。父も新城市に長くとどまろうとは考えていませんでした。現に、岐阜県に開拓伝道に行くと言い出して、子どもたちの強い反対で中止になったこともありました。
しかし、それらも含め、すべて背後に神の大きな計画があったのです。聖霊の働きは、やがて実現しようとしている、天と地の合一を目指して進んでいます。

スウェーデンの宣教師たちの協力と父の宣教活動により、クリスチャンになった若者たちに、後に、聖霊が注がれ、彼らは都会に行く計画を中止して、聖霊によって田舎に遣わされたのです。田中政男先生は浦川で何度も何度も洪水に耐えながら伝道を続けました。新城教会と他の三教会とのミーティングに一番都合がいいのが、中間にある県民の森でした。彼らは時々、県民の森に集まって、地域のために、日本のリバイバルのために祈っていました。やがて日本リバイバルクルセードの聖会が県民の森で始まり、多くの牧師たちが県民の森に集まりました。
そんなただ中、一九九二年二月十三日、聖霊が注がれて、甲子園ミッションに繋がったのです。この経緯を知る時に、東三河は神にとって、重要な場所であることが確認できます。