永遠のための戦い

2023年3月5日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

 

創世記22章17節

『確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。』

ハレルヤ!おはようございます。二〇二三年に入りまして、早いもので三月下旬となります。日本は、年度制で動いていますので、この時期は環境が変わる方も多いと思います。特に若い世代にとって大きなことですので、新しい領域に向けての祈りが必要ではないかと思います。この地上、この国の支配ではなくて、神の国の支配で新しい領域に入っていけるように皆さんで祈っていきたいと思います。

 

さて二〇二三年、皆さんにとってどのような年になっているでしょうか。今日は創世記二十二章十七節のみことばから、「永遠のための戦い」という題でお話をさせていただきたいと思います。

もう一度二十二章十七節をお読みします。

 

『確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。』

 

旧約聖書でアブラハムという人物に神さまご自身が語られたことばの一つです。今日はこのことばから、またこれまで私が語らせてきていただいている内容とあわせて、私たちクリスチャンがみことばによってどの様に歩むのかということを学んでいきたいと思います。

私たちの信仰はどこにあるのか、どこを起点としているのか、あるいは何を基準にしているのか。そしてどこを終着点として向かっているのか。そのことを私たちは常に確認しながら、この地上の生活を生きていかなければなりません。そしていつもその基準は聖書、みことばです。ですから今日もみことばに向き合っていきたいと思います。

 

この二十二章十七節を見るだけでも、いろいろなことが分かってきます。『あなたを大いに祝福する。』それは誰が?『わたしは、』と書いてあります。「わたし」というのは神さまです。まず、クリスチャンの信仰の根底には「わたし」という存在がいるということです。天地万物を創造した唯一真の父なる神がおられるという厳然たる事実、それが私たちの信仰の根底になければなりません。次に「あなた」というのはここでは直接的にはアブラハムのことです。アブラハムを祝福し、さらにそこから生まれ出る子孫、あなたの子孫を同じように祝福する。これには現代のクリスチャンである私たちも含みます。

さらにアブラハムではなく、アブラハムの子孫に対して、「敵の門を勝ち取る」という宣言がなされています。この短いみことばからでも、このように多くの神さまの素晴らしい計画を受け取ることができます。さらにこの二十二章十七節を読み解くために、みことばを学んでいきたいと思います。

 

その前に、私は二〇二二年のカウントダウン礼拝の時に、ヨハネの福音書六章二十七節から、みことばを取り次がせていただきました。そちらを振り返りたいと思います。

 

『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。』

 

前半部分、私たちの生活に響く言葉ではないかと思います。私たちはこの地上の生活をしていく上で、やはり生活の糧を得ないといけない、精一杯生活していかなければならない。苦労が絶えない状況であります。

しかしクリスチャンはその精一杯の生活の中でいかにして生きるのか。なくなる糧のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさいと、主が私たち一人ひとりに語っています。

言い換えるならば、「地上の価値観ではなく、神の国の価値観で永遠のために働きなさい。」そのように受け取れるのではないでしょうか。

私たちはこの三年間余り、いろいろな状況にさらされました。世界の変化や私たちの身の回りの悲しい出来事、また今に至るまでの経済的な困難、様々な問題が私たちの生活を取り巻いていて、その中で私たちは生きていかなければなりません。

しかしクリスチャンはそのような中にあっても、しっかりとみことばに立って生きていかなければなりません。

 

さて今日語らせていただく創世記二十二章十七節、このことばがアブラハムに語られる前に、どのような出来事があったか、そこから見ていきたいと思います。二十二章二節をお読みします。

 

『神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 

よくご存知のストーリーかと思います。そしてこの後の一部始終もよくご存知かと思います。アブラハムはこのように神さまから言葉を受け、どのような行動をとったでしょうか。彼はこの言葉に従って、自分の愛する子イサクを献げようと出かけて行きました。そして今まさにイサクに手をかけようとするところまで行動に移しました。主に従いました。しかし、そこで主が直接介入されてストップをかけました。創世記には、

 

『今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』と、神さまがアブラハムの信仰を称えているような言葉がかけられます。ここに至るまで、アブラハムには多くの葛藤や疑問が数知れずあったと思います。

私たちもこの地上において、私たちの思いを外れたところにある悲しい出来事が起こるとき、「なんでこんなことが起こるんだろう?神さま信じてクリスチャンになって、これだけ神さまに仕えてきたのにどうしてこのような苦しい思いを私たちはするのだろう?」と思います。アブラハムも私たちと同様に、そのような思いだったと思います。

ましてやイサクは、神さまから与えていただいた約束の子でした。与えておいて、今度は献げろ。神さま何がしたいんだろう?人間ならばそう思います。

 

ところで、当時アブラハムが住んでいた周辺地域では、異教の神々が礼拝されていました。そのような異教の習慣で子どもを献げるという行為が日常的に行われていたのです。モレクという異教の神です。ですからアブラハムも「結局私の信じる神さまも、そういうような類の神さまと同じか」と、そんな悲しい気持ちももしかしたらあったかもしれません。

いずれにしても、アブラハムは人間的にはできない決断を神さまにあってすることができました。地上的、人間的な価値観・判断を捨てて、あくまでも自分が信じる神さまのことばに従った。そのような視点で考えるならば、私たちクリスチャンが困難に遭う時に、どのような態度をとることができるでしょうか。このみことばから学ぶことは非常に多いです。

 

アブラハムはこの試練にパスしました。その結果として神さまから投げかけられていることばが、今日お読みしている二十二章十七節のことばです。もう一度、前後の二節も加えてお読みしたいと思います。

 

『こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」』

 

まず注目したいのは十六節に、『あなたがこれを行い、』とあります。神さまからの命令を守ったということです。次に『自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、』とあります。惜しまなかったから「合格」だということなのです。一連のストーリーを知っていると、なんのひっかかりもなく読んでしまうかもしれない箇所ですが、少し考えてみると不思議です。神さまから与えられたひとり子、約束の子は、普通は大事に愛し育てるはずです。神さまから与えられたものなので、大事に大事に守ることの方が、本来は褒められそうです。

しかし、神さまの視点というのは、私たち人間の視点とはいつも全く違っています、超越しています。与えられた祝福さえも「与えられたのだからもう自分のもの」、と守るというのではなく、それさえも惜しまず、さらに神さまに返すことができるかどうか。これが私たちの信仰の態度において、実はいつも試されていることではないかと思います。

 

二週前に瀧川先生が、弟子たちがはじめにイエスさまから召命を受ける時にも同様の場面があったとお話をしていました。彼らは自分たちが漁師として使っている、今後稼いでいくための道具、それさえも投げ打ってイエスさまに従って行った。そしてさらに言うと、その時与えられたおびただしい量の魚、奇跡を通して与えられた祝福さえもその場において、イエス様ご自身に従って行きました。

また先週は、順牧師により経済的な領域に対するこの世の戦い、そして天における献金の意味合いについて語られました。

献金も含めて、惜しみなく神さまに献げることができるか否か。これが私たちの信仰の態度で問われるポイントであります。いつもこの地上の視点と神の国の視点は違っています。神の国の視点に立って喜んで主に従うか否かが大事なのです。そのような点をアブラハムはパスしたと言えるのではないでしょうか。

 

旧約聖書において、アブラハムに神さまが語られている約束のことばを「アブラハム契約」といいます。アブラハムは、特別に選ばれた人です。創世記十二章で神さまが彼に語りかけ、十五章でももう一度語りかけます。十二章では、『あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』と語られ、アブラハムは従いました。そうすれば『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』と、神さまは約束をしました。

そして十五章では、未だ子がないアブラハムに対して、「外に出て空の星を数えてみよ」と、「それを数えることができるか。あなたの子孫はそのようになる。」と約束を語られました。

そして皆さんもよくご存知のように、アブラハム百歳、妻サラが九十歳の時に、約束のひとり子イサクが与えられました。

普通であればそんなに素晴らしい奇跡を起こしてくださったのに、なぜそのひとり子をいまさら献げよと言うのか。祝福してくださるはずではなかったのか?と考えるのが、我々人間の常です。

しかしクリスチャンとして神の国の視点に立って信仰を保とうと思えば、ときにこの地上の人間的な「普通」というものを、放棄しなければならないわけです。

 

現代社会に生きるわたしたちも、いつも念頭になければならないのは、私たちの人生の主役は私たちではない。私たちの人生の主役は主なる神であると言うことです。

この「主」というのは「主人」という意味です。私たちのあるじという意味です。私たちはいつも、主に従って歩む人生を永遠の視点を持って心がけていかなければなりません。

 

一方で、そうは言っても生活があります。現代社会であれば子どもから学校に通って、ある程度の就学期間を経て、職について、労働して賃金を得て、生活をしていかなければなりません。そしてそれぞれの人生の局面でいろいろな困難があって、いろいろなことに苦心します。家庭を持ち、子どもが与えられればそれらはさらに大きくなります。

しかしそのような中にあってクリスチャンは神の国の視点で永遠をゴールにして生きるべきです。箴言十六章九節にこんなみことばがあります。

 

『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。』

 

今言ったように、私たちには生活があります。まずはそれをどうにかしなければ、生きていくこともできない。いろいろな人生設計や計画を持って子どもがこれぐらいの歳になったらこうで…というのが、あるわけです。そのように自分の道を思いめぐらす、しかしそれを確かにするのは主です。

私たちには主の約束、主の祝福のことばがあるのだから、主に従い主に委ねるのです。そのような視点に立つことができるのがクリスチャンです。