永遠のための戦い

 

十六節には、『あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、』とあります。それができたからということです。そして十八節にも『あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。』と語られています。

私たちは主のことば、主の約束のことばを受け取っているわけですが、その事とその約束通り主が求めている行動を果たせているかは別です。私たちは主の約束のことば、それぞれに神さまが語られていることば、それに従うことができているでしょうか。

その結果如何で、この地上の実際の出来事や状況も変わってしまうこともあるかもしれません。何度も繰り返しますが、アブラハムは従うことができた故に、アブラハム契約と呼ばれる契約が、今私たちの上にも履行されているわけです。契約が双方に合意して結ばれて、この地上に今でも発効しています。

 

そして、十七節、実はこの試練の後にかけられた最後のことばにだけ、一つだけ加わっている契約の条項があるのです。他は以前と同様「あなたを通して地上のすべての人が祝福される。あなたの子孫が空の星、海の砂のように増える」など共通しています。しかし、十七節では、「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」という条項が加わっているのです。

野球やサッカーなどのプロスポーツでも、有能なプレイヤーほど有益な契約が結ばれます。比較してはいけないですが、アブラハムの試練の後の状況も、同様の部分があったかもしれません。「あなたはこんなにもわたしの言葉に従い、素晴らしいパフォーマンスをしたから、もう一個大きな条項を加えてあげましょう」ということであったかもしれません。

「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」と約束のことばが加えられました。

 

「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る」とはどういうことでしょうか。これは究極的には、イエス・キリストが十字架において死の力を打ち破る、悪魔に勝利するということを表していることは受け取れます。

さらに私たちクリスチャン一人ひとりに与えられている使命として「敵の門を勝ち取る」ということを考えてみます。このようないわば「戦用語」を理解しようとする時、実際の地上の歴史の中で起こった戦闘の様子を学ぶと、みことばの情景がしっかり受け取ることができると以前からお話しています。「鬨の声」や、エリコの戦い、ダビデとゴリアテの戦いなどを、そのような視点で学びました。

昔の街はこのように城壁で全体が囲まれていました。

城壁で囲まれていて、通常出入りの際は、門を通るしかありません。戦いとなれば門も堅く閉ざされ敵の侵入を防ぎます。攻める側の視点で考えます。それを攻め取ろうと思ったら、どうするでしょうか。一番の強行策としては、はしごなどをかけて城壁を登るしかありません。ちなみに、この城壁攻め、壁を登るという行為を省けたのが、あのエリコの戦いです。7日目に鬨の声をあげた時、神さまのわざによって城壁が崩されました。

そうでない場合、このように、壁にはしごをかけて登るわけです。

当然これは敵側の所に登っていくので、いくらでも敵が待ち構えています。上からですので、矢でもなんでも打てるので、登る側にはとんでもない多くの犠牲が出ます。それでも諦めずに、何とか押し切って敵の城内に侵入します。そしてどうするでしょうか。このはしごが侵入経路としての目的ではありません。いくらかの人数がはしごで城壁を越え侵入し、向かう先は門です。内側から敵が閉ざしている門を開けに行くのです。それが城壁攻めのセオリーです。

門が開かれるとどうなるでしょうか。はしごで小数ずつ登るしかなかった状況から、敵の門が開いて、外で待ち構えていた大軍が一気に敵の街になだれ込めるようになります。その後約束されているのは圧倒的な勝利です。

これが敵の門を勝ち取るという意味です。私たちは門が開いている以上、やることは一つなのです。敵に攻め入っていって勝利を得る。それをしないならば何のための犠牲であったかという話になってしまいます。

 

二〇二二年には、この教会にとって、私たちの家族にとって大きな悲しみがありました。それを経て二〇二三年、主の勝利の年だということで私たちは今も戦いの歩みを止めておりません。瀧川先生もよく最近、総力戦だということを話されています。本当に総力戦なのです。

また、順牧師が「地上の教会は戦いの教会」「天の教会は勝利の教会である」というふうにも語られています。今まさに、その通りだと思います。

仮に信仰によって私たちの特にこの三年ぐらいの大きな戦いの期間を、一つの城を攻め取るような戦いになぞらえるとした時、先に天に帰った兄弟姉妹たちを、城壁を越えるべく敵に立ち向かっていき、内側から門を開ける役目を担っている方々と受け取ることができるかもしれません。七十年のこの教会の歴史すべてを通して同様に、先に天に帰った方々の使命を、そのように考えるとき、大きな主のご計画について考えさせられます。私たちはこの地上ではそのすべてを理解することはできないですが、天の視点を持つときに、まさに地上の教会と天の教会が一つとなって展開されている戦いであることに気付かされます。

天の勝利のポジションで、内側から地上の私たちの戦いとリンクして、門を開けてくれている。

それならば、私たちがするべきことはただ一つ。全軍で目の前に開かれている敵の門に突入していく。全軍でこの主の勝利を勝ち取る。それがこの二〇二三年に、主がこの教会に与えている戦いの命令、指令だと、私はそのように強く促されております。

ぼけーっとしていないで、この地上の生活のことだけにかまけていないで、今主が私たちに何をせよと語られているか、そのことばを聞き漏らさないようにしていきたいです。

 

宣言の意味を込めて断言して言います、敵の門はすでに勝ち取られています。アーメンですか?

 

この新城教会に繋がるお一人おひとりが、もう一度何のための戦いであるかを受け取りましょう。永遠のための戦いであり、私たちは主の軍の一員であり、主のご計画を果たす兵士の一人だという熱い思いをもって進みましょう。誰かのためにやるのではないのです。誰かによく見せるためにやるわけではない。この地上での出来事がうまく進むためにやるわけではない。永遠のための戦いとして、この戦いを最後まで戦い抜いていきたいです。

 

そもそもクリスチャンは、イエスさまが既に敵の門を勝ち取ってくださった勝利の事実とともに、その勝ちのポジションに従うだけの存在です。残された「残党狩り」の戦いは世の終わりまで続きます。しかし、勝利が確定している戦いです。永遠の視点とともにあれば、実はこれほど楽な戦いはありません。

私たちは、この事実を聖書からしっかり惑わされずに受け取って、地上の戦いを戦い続けます。それがクリスチャンの本分です。その様な選択をお一人お一人がしていけたら、素晴らしい神の国の勝利が、私たちのこの地上の人生にも必ず大きく現されていくと信じます。

 

皆さんの人生の中においてそれぞれ大事な局面があり、今まさにとても苦しい局面を迎えている方がいらっしゃると思います。しかし主のことばを信じて、歩み続けていきたいと思います。永遠のために戦い続けましょう。私たちは主の計画に従うのみです。そしてそこに必ず主の祝福、勝利があります。

 

最後にもう一度だけ宣言して終わります。敵の門は勝ち取られています。

ハレルヤ!

 

一言お祈りします。

 

天の父なる神さま、万物の造り主、私たちのすべてを支配している父なる神さま、そして大勝利者イエスさま、そして私たちといつも共にいて支えてくださる、この地上の歩みを確かなものとしてくださる助け主聖霊さま、心から感謝します。

この困難な時代にあって、私たち一人ひとりがそれぞれ直面している状況に対して、この世の言葉、この世の知識、この世の諦めではなく、神のことばを握って、永遠のための戦いを勇敢に戦い続けることができるように、主よ私たちに力を注いでください。油を注いでください。敵の門を開いてくださったイエスさま、私たちはただただあなたに従い、この戦いの歩みを進めます。あなたがこれからも私たちを率いてくださいますように。この新城教会は全軍であなたの軍隊として、最後まであなたに従います。今日お一人お一人がそのような宣言を持って、今一度、主の前に献身の祈りをささげることができるように、その思いも与え、また何よりも力強い油注ぎを与えてください。

今日のみことばの時、あなたのみことばを心から感謝して、救い主イエス・キリストのみ名によって、父なる神さまに、この祈りをおささげいたします。アーメン。