永遠のための戦い

地上的なことだけに囚われ、永遠という視点を見失ってしまうと、この地上の生活をうまくこなすこと、そつなくこなすことだけが人生の目的になっていってしまいます。そうではなく、クリスチャンは「この世」と聖め分かたれていなければなりません。

先ほども言ったように、私たちは現代社会の日本という国に生かされておりますから、行わなければならない生活というのがあります。年度制一つ取っても、自分が欧米と同じように九月スタートがいいと言ったって、日本ではそれはまかり通らないわけです。そのように私たちは社会の中で生きていかなければなりません。しかし同時に、今私たちの生かされている世はまだ悪の支配にあるということを、絶対に忘れてはいけません。

 

箴言の同じく十六章に、この様な鋭いことばがあります。

 

『人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。』

 

これはある意味で、社会そのものを表しているのではないかと思います。私たちはこの世の流れに沿って、この世のことだけ一生懸命やっているのが、一番楽な生き方なのですが、しかしそれは終わりが死となる道であります。

この世の生き方、この世の価値観だけで生きる、その生き方の行き着く先は死です。滅びです。私たちはそこから解放された者、それを超越しているべき存在だと、その様に生きていくべきです。また逆に、多くの滅びに至る人たちがいる、だから私たちはみことばを伝えていかなければなりません。

 

昨年の十二月に、ヨハネの福音書の十四章からみことばを語らせていただきました。十四章には「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」という有名なみことばがありますけども、その前後を深く学びました。

弟子のピリポが、「私たちに父なる神を見させてください。」とイエスさまに要求しました。「そうすれば私は満足します。」と言いました。それに対してイエスさまは、少し悲しんだ様子を見せて、「こんなに長くわたしと共にいるのに、わたしのことを分からないのか。わたしが父とともにある存在であるということが、あなたにはわからないのか。」と投げかけました。

私たちもこの地上の価値観だけに囚われていると、イエスさまからそのような言葉をかけられてしまうかもしれません。そしてイエスさまは、こうも言われました。「わたしが父とともにある。」ということを、「わたしが言う言葉で、わたしがそういうのを信じなさい。」さもなければ、それでできないのだったら、「わざによって信じなさい。」

私たちの信仰もピリポと同様であると思います。何か特別なこと、いわゆる祝福を受けると、「神さま素晴らしい!ありがとうございます!」という思いが心に与えられるのですが、ただ言葉の約束だけであると信じ続ける、信じ抜くことができない、そのような弱い存在です。

 

ここまで学んでいる通り、私たちの信仰の父祖といわれるアブラハムは、神の約束そのことばを信じました。ことばを信じるということがいかに難しく、いかに重要であるかということが分かります。

現代社会は情報があまりにも溢れています。もともと人間は、情報を取る時、視覚、目に見えるものにとても依存しています。

先ほどのピリポも「見せてください。」と言いました。さらに現代は、視覚といえば画面、スクリーンにかなり依存しています。紙なんか読まない。紙っぺらで表示しても読まなくなっています。今日も皆さん、私よりも投影されている画面をよく見てらっしゃるわけです。画面があれば他の情報を差し置いて、画面を見るように習慣付いてしまいました。それもインターネットやスマートフォンなど、一見すると便利と思われる道具によるこの世の変化です。それらを無批判に受け入れていてはいけません。神の国のために用いながらも、世の支配の一部だという認識も忘れてはいけません。

そのような中で少し面白い画像を皆さんに見ていただきたいと思います。何も考えずにまず見てください。

すごく興味深いです。私自身初めてこの画像を見た時、まさに画像の通りでした。私たちの脳みそというのは、この程度のものなのです。いかに自分が賢くいろいろな情報を得ているというような自覚があったとしても、視覚依存の我々の脳の構造というのは、この程度のことでものすごく左右されている。面白いですね。

まず一番大きな「あなたはまずこれを読む」という部分を、おそらくほとんどの方が読みます。

その少し下に小さめですけど、すぐ下なので、「そして次にこの行を読む」に目が行きます。

その下に小さく文字が連なっていますけど、これはまず読みません。次に目立つ右下の青字、「そしておそらく左の文章を前にこの文章を読む」とそのとおりになります。そして最後に「この辺りに文章を書いて、細く説明をつけたとしても…」という細かい説明文の様な部分は、少し時間があり気が向いた時にだけ読みます。

そしてよく見ると右上に「最後にここを読む」と、ヘッダーのような形でこれが付いている。「あぁ、付いているなぁ」と気づく。

 

私たちは思い上がってはいけません。何か知っていると思ってはいけないし、調べて分かった気になってはいけません。更に言うと、情報の取り方だけでなく、情報の質、内容そのものについても気をつけなければなりません。私たちはこの世の情報と神の国の情報をしっかりと分けて受け取るべきです。

このような話をすると、「じゃあ勉強なんて無駄か。」とか、「社会の中で努力することなんか無駄で信仰だけ持っていればいいか。」という誤った極端に向かう人も多いです。そういうことを言いたいのではありません。むしろ私も勉学というものも一生懸命やりましたし、今でも学ぶことも続けていく、努めてやり続けていることはたくさんあります。それをせずにこのような話をしても何の説得力もないですし、また社会にあっても何か発言を聞いてくれる立場にもならないわけです。

しかしこの世の知識や情報は、神の国の前にひとたび照らし出された時に、何一つ価値のない、取るに足らないものだというぐらいの価値観を持っていないと、クリスチャン、特にこの現代のクリスチャンというのは務まらないのではないかと思います。

 

例えば子どもが、宿題に一個も手をつけないのに、「朝起きたらこの宿題のページが埋まっていますように」「勉強ができるようになりますように」と祈っていたとしたら、どう思うでしょうか?そんな祈り、許されるわけないというか、「祈りはそんなものじゃない」と、教えるはずです。

あるいは自転車に乗ること、皆さんできますか?実は私は小学校四年生ぐらいまで自転車に乗れませんでした。なぜかと言うと、練習しなかったからです。転んで痛い思いをするのが嫌だったからです。一キロくらい離れた友達の家なども、いつも歩いて行っていました。

通常自転車は、初めての挑戦でいきなり乗りこなせる人はいません。転んで痛い思いをして、それでも諦めずに練習すれば乗れるようになります。

子どもが練習をしてもいないのに、「自転車に乗れるようになりますように」と祈っていたらどうでしょう。神さまはなんでもできるから正しい祈りか?全然違うわけです。

子どもの時は知らず知らず、このような努力をして生きています。しかし、むしろ大人になると、この様な努力をどんどんしなくなるのが現実ではないかと思います。

私たちは地上のことも精一杯、むしろ一般よりも努力してやるべきだと個人的には思います。その上でそれらを神の国の領域と衝突がある時、ちりあくたのように簡単に放り投げられるかどうか。これが信仰で試されている領域、信仰の本質の領域ではないかと思います。アブラハムも与えられたイサクを、「守ろう、守ろう」と、握ることをしませんでした。神さまの前に明け渡す、放棄することができました。信仰の深いところ、本質というのはその様な違いにあるのではないかと思います。

先ほど見た箴言のみことばからも学んだように、私たち人間のこの地上の愚かな浅はかな算段は、主のことばの前には息一つで吹き飛ぶわけです。私たちは命が主の手の中にあるということを、昨年二〇二二年の悲しい出来事を通しても深く学んでいます。

 

仮に学問における一般論が、すべて私たちの地上の生活を満足させる。それだけですべてうまくいくと言うのだったら、最初から信仰が必要ないのです。一般論だけ語って、一般論だけ守っていれば、その原則だけ守っていれば、病気にもならないし、長生きできて、また社会でも成功できて、というのだったら、初めからそこに信仰というものが入る余地がありません。

私たちの信じている神さまは、究極的には、むしろそのような社会の状況さえも設定された方、例えば物理法則なども設定された方です。設定された側の方が発せられることばなので、それらはその方の前では消し飛ぶような存在です。聖書で多くの証がされているように、主のことばが発せられる時に、物理法則さえも簡単に消し飛びます。私たちの命を支配しているのは、そのようなお方です。その事を私たちは常に生活の中で認めて、見失わずに生きていかなければなりません。

 

私は「情報」というテーマでもいつもお話しさせていただいています。私たちを常に不安にして、あれはどうなるだろうか、将来どうなってしまうのだろうかというような思いにさせる、社会の学問でも知識でも、簡単に言い換えるならば、この世の言葉は、初めから私たちを不安にさせるための敵の側の兵器だと、それぐらいのつもりで受け取ることが必要かもしれません。私たちの心に不安だけを与える言葉は、敵側の兵器であると。

一方で私たちがはるかに重要に心に留めておかなければならないのは、聖書の神のことばです。天地が滅びても滅びることのない神のことばです。クリスチャンはそのことばを信じている存在です。この世の言葉と、神のことば、どちらに目を留めて生きたいですか。生きるべきですか。そのようなことが今のこの時代、私たちに問われていると強く感じます。

先週もメッセージ中で触れられましたが、老後二千万円問題ということが少し前に報道されました。そんなことを社会が一斉に言い始めれば、みんな不安になるわけです。みんな将来の不安を抱くわけです。しかし、私たちはそのような言葉に縛られ支配されて生きるような者ではありません。

もう一度言いますが、この世の言葉と神のことば、どちらに目を留めて生きるのでしょうか。そのように聖書が私たちに問いかけていると思います。

 

 

アブラハムの話に戻ります。創世記十五章五節から六節には、

 

『そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。』

とあります。

 

アブラハムには、この約束によって実際にイサクが与えられましたが、この時点ではまだ子どもがいないのです。これはイサクが与えられる前のことばです。ただの約束、ことばです。百歳・九十歳の夫婦に子どもが与えられたというわざが起こってから素晴らしいと言って信じたのではありません。

 

六節、

 

『アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。』

 

と書いてあります。ヨハネの福音書からも語らせていただいたものと共通している聖書の教え、聖書のみことばの学びだと思います。私たちはわざを信じるのではありません。神さまのことば、神さまご自身、人格そのものを信じるということです。

繰り返しになりますが、アブラハムはこの世の思い、この世の言葉ではなくて、主のことばを信じ従ったということです。

 

その結果として、今日主題にしている二十二章十七節が、語られています。もう一度、十六節から十八節を見ていきたいと思うのですが、実はこれはアブラハムに最後に語られている主のことばになります。これ以降、主は直接アブラハムと対話されないのです。その必要がなかったのでしょう。アブラハムとの関係は、もう直接言葉を交わす必要もないぐらいしっかりしたものとなったと受け取れます。