〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
時を取り戻せ!

2023年11月19日(日)新城教会主任牧師 滝元順

エペソ人への手紙5章16節〜18節

“機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。”

ハレルヤ!素晴らしい賛美と共に、主を礼拝できますことを心から感謝します。実は、来週、大変素晴らしいメッセンジャーをお迎えしています。それは有賀喜一先生です。なんと、御年九十歳!
九十歳で、ここまでメッセージできる方はいないです。私、本当に尊敬します。有賀先生から語られる新城教会へのメッセージ、ぜひ、期待して下さい。

ザワメキ・ハワイツアーも無事に帰ってこられて感謝です。呆然と海を眺める少年の写真が一枚送られてきました。
 海は広いな、世界は広いなという感じでしょうか。山の中から海外に出て行きますと視野が広がります。これから子どもたちも世界宣教に行けたらいいと思います。三年以上に渡って、神の時が奪われてしまった面もあるからです。

今日ご一緒に学びたいみことばは、

“機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。”

今の時代こそ、聖霊に満たされて進む必要があります。なぜなら、「悪い時代だから」です。誰でも今が悪い時代だと分かるはずです。日々、茶の間に配信されるのは、ガザからの悲惨な映像です。戦争はガザにとっても、イスラエルにとっても悲惨です。メディアは結構操作されていますから、目の前の情報だけでは判断できないですが、全体的に言えるのは、悪い時代であることは間違いありません。今は終わりの時代であり、イエスさまがお帰りになる日が近いのです。

『機会を十分に生かしなさい。』の「機会」という言葉が、エペソ人への手紙にもう一箇所出てきます。それは、四章二十六〜二十七節、

“怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。”

時々、心穏やかではなく、怒ってしまうことがあるのですが、それは機会を悪魔に渡す危険性があると警告しています。

実は『機会を十分に生かしなさい。』は、英語とギリシャ語で見ると、日本語の訳とはだいぶ違います。『機会を十分に生かしなさい。』が、「Redeeming the time.」となっています。「Redeem」とは「買い戻す」という意味があります。
そしてギリシャ語での「機会」は、「カイロス」という言葉が使われています。ということは、「時を取り戻せ・買い戻せ」という意味になるわけです。

人生を振り返るならば、「あの時に失敗してしまった・・取り戻すことができたら、どんなに幸いであろうか・・。」と思うことがよくあります。「プロポーズ、あの日に戻って断りたい。」という川柳がありますが、あの日、一つの決断をしたゆえに、人生は悲惨になった、ということもあるわけです。

ギリシャ語には、時の概念が二つあります。それは「カイロス」と「クロノス」です。「カイロス」とは、「特定の時」を表し、「クロノス」は時の流れを意味します。ギリシャ語は、ギリシャ神話の影響を多分に受けています。
しかし「カイロス」とは、「カイロス神」という、特定の時を支配するギリシャ神話の神を意味します。そして「クロノス」とは、時の流れを支配する神名です。聖書は、そのような異教の神々を題材にして、真理を語っています。刻々と刻まれる時の流れには「クロノス」という悪霊が関わっています。
人は特定の時に関しては思い出として残ります。「学校に入学した日」とか「就職した日」とか、「結婚が決まった日」とか、また「愛する人と別れた日」とか、やはり特定の時が、思い出として強く印象に残ります。
ギリシャ人たちは、そこにギリシャ神話の「カイロス神」が関与していると考えていました。聖書はその概念を踏襲しながら、「時」について語っているのです。
ということは、刻々と流れる時の流れの中に、クロノス、カイロスと呼ばれる悪霊の力が関わっていると言えます。

ですから、奪われた時を悪魔の手から奪い返せ!買い戻せ!と命じているのです。

最近の私のメッセージは、歴史を振りかえるような、昔話しが多いですが、新約聖書も歴史から始まります。マタイは歴史的に繋がる人々を紹介することにより、神の摂理的な計画によって、「神は歴史を通して働かれる」という、「歴史の重要性」について語っていると言われます。

今年、主から私に示されたというか、教えられたことは、「希望の年になる」ということでした。
どうでしょうか。まもなく今年も終わります。昨年の十二月十八日、家内が天に帰りました。それから約一年が経過しようとしています。早いなぁと思います。昨日も孫の一人が、「ばぁばが天国に行って、あと一ヶ月で一年だね・・。」と言いました。ハッとしたのですが、彼は、「あの時はよく泣いた・・。コップ一杯ぐらいは涙が出た。」と話していました。思い返して目頭が熱くなりました。去年から今年にかけて、希望の年どころか、絶望の年だったと感じる人もいるかもしれません。

聖書が語る「希望の定義」とは何でしょうか。案外「希望」とは、「良いことが起きる!」という期待感を「希望」と定義することが多いです。しかし聖書は何と告げているのかというと、コリント人への手紙第二 一章九〜十節、

“ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。”

パウロにとっての「希望の定義」は、過去を振り返ると、死を覚悟させられるような試練が多くあった、しかしながら、そんな危険からも神は助けてくださった。過去に助けてくださったのなら、未来も助けてくださるはずだ。必ず助けてくださる!という信仰を「希望」と定義したのです。
私もこの一年、二年を振り返れば、絶望的な事が多かったです。「どうなるか・・・」みたいな、「人生もこれで終わりかな・・」みたいな事が、何度もありました。教会においても、ふり返れば悲しいことや苦しいことが、数多くありました。
しかし、そんな中でも今日があるのは、今まで主は、私たちを助けてくださった。なおも救い出してくださるに違いないという信仰が「希望」となるのです。
「今年は希望の年」とは何か。七十年を振り返る時、神は様々な恵みを与え、助けてくださった事が分かります。様々な試練からも救い出してくださいました。ならば、将来もきっと救い出してくださるはずです!その信仰が、すなわち、「希望」なのです。過去を振り返ることは、重要な作業です。なぜならそれが、希望へと繋がるからです。

“また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。”

そして、聖霊に満たされることが、時を勝ち取り、将来への希望をつなぐ、重要な条件なのです。新城教会の過去を見る時、様々な局面において、聖霊さまが来てくださいました。それにより希望の扉が開かれたのです。

一九五〇年代に父が伝道者として引き出されたことから、やがて甲子園ミッションまで繋がりました。そして甲子園ミッションの準備期間中に、激しく聖霊が臨まれたのです。それから三十年以上経つのですが、新城教会の過去を見ると、要所要所で、聖霊さまが訪れてくださり、励まして下さった事を確認できます。これこそ、私たちにとっての大きな希望です。主は、決して私たちを見捨てることなく、今後も導いてくださるという希望です。

先週もお話ししましたけれど、近代史において、聖霊が激しく注がれた原点は、二十世紀の初頭のアズサ・スリート・リバイバルにあると話しました。ロサンゼルスに行きますと、アズサ・ストリートが今でも保存されています。一九〇六年から九年にかけて、この場所で起きた聖霊の働きです。周辺の景色は大きく変わっているのですが、リバイバルが起きたことを記念する看板が立てられています。私は何度もここを訪れて、「日本にもリバイバルを!」と祈りました。

この場所に注がれた激しい聖霊の火が、その後、どのように展開したのかについても、先週、お話しさせていただきました。
アズサからノルウェーやスウェーデンにまで展開し、続いて中国やモンゴルに移り、その後、日本に来たのです。リバイバルの火を持ち運んだスウェーデン宣教師たちは、中国の共産革命により国外に追放され「日本に来た」とお話ししました。

聖霊の注ぎは神のわざです。使徒たちの時代もそうであったように、「これは何事だ!」と、受け入れがたい現象が伴う事が多いのです。
アズサ・ストリートに聖霊が注がれた時、一般の新聞社が取材に来たそうです。その様子を見て、どのような記事を書いたのかというと、次のようにレポートしました。

「彼らは昼も夜も泣き叫び遠吠えをする。彼らは走ったりジャンプしたり、全身を震わせたり、声を張り上げて叫んだりぐるぐる回ったり、床に転がり落ちたり、ガクガクと蹴ったり、床の上を転がったりする。中には気を失い、死んだかのように何時間も動かない人もいる。これらの人々は気が狂っているか、精神が錯乱しているか、魔法にかかっているかのように見える。」

そして、「出席者はしばしばホーリーローラー、ホーリージャンパー、もつれた舌、ホーリーゴースト」と形容されたというのです。ロサンゼルスで起きた奇妙な出来事についての報告は、全米、および世界中に拡散されたというのです。

こんなことが起きたらどうですか?みんな狂っている!と思うのではないでしょうか。しかし、このような混乱にも見える中に、主の働きがあったのは驚きです。今や、ここから始まった聖霊派と呼ばれる人たちは、世界中に約六億人いると言われます。すごいことではないですか。
新城教会でも三十一年前、激しく聖霊が注がれて、まさに同じような現象が起こりました。もしも新聞社が取材に来たら、同じようなレポートをしたかもしれません。
あの時、私たちは何事が起こったのかわかりませんでした。しかし、その中に主がおられたのです。多くの人は、受け入れることはできませんでした。それでも受け入れることができたのは、本当に感謝なことです。

以前にもこの動画をお見せしたのですが、今回、専門課程で紹介する為に再度見て、結構恵まれました。アズサ・ストリートでは貧しい黒人の方々の上に、聖霊が臨まれたわけです。当時、黒人たちは差別されていました。しかし彼らに聖霊が注がれて、今や、世界中に広がったのです。
アズサリバイバルは、ウィリアム・シーモアという一人の黒人から始まりました。その事についての動画です。

<動画>

ここで起こったことが、新城にまで流れて来たのです。神の偉大なみわざは、過去を振り返る時に気づかされます。
私がこの動画で感動したのは、賛美している時、自然と手が上がったという事です。それも、子どもたちが手を挙げて賛美していたというのです。見たら、生まれたばかりの乳飲み子さえも手を挙げていたというのです。私の孫の歓ちゃんみたいな乳飲み子さえ、手を挙げて賛美し始めたらすごいです。そんなことがこの教会に起きるように、聖霊の火を燃え立たせていただきたいです。時を取り戻したいと!と願いました。
そのために必要なのは祈りと聖め、飢え乾きと強烈な求め、みことばに伴うしるしと不思議です。

アズサ・ストリートでは、信じられない奇跡がレポートされています。一人の男性は右手がなかったのです。しかしシーモアが神から示されて、その人を前に呼んで、右手のために祈った瞬間、なくなっていた右手が生えたと言うのです。
ある人は耳がなくて、鼓膜もなかったのが、耳ができて鼓膜ができて、聞こえるようになったというのです。そのような奇跡は、創造主なる神しかできません。聖書の中にレポートされている、創造的な不思議としるしが、もう一度取り戻されるよう、諦めない信仰が必要です。そしてリバイバルの波に乗り続けることが必要です。
また、常に霊的戦いの備えをすることが大事だ!であり、チームワークと超教派的な協力、そしてへりくだりが、リバイバルのための条件です。アズサのリバイバルを研究する時、そのような条件を見いだすことが出来ます。