主の熱いまなざしを受けて

2023年8月20日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

ルカの福音書5章27節〜28節

『その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。』

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。夏の疲れが出るような時期かと思います。お互いに健康が守られるように覚えて祈り合っていきたいと思います。

 

先日は台風がこの日本列島を襲って、六号・七号と台風がやってきて、大きな被害が出ております。台風の被害に遭った被災地のためにも覚えてお祈りしていきたいと思います。

 

早速ですが、皆様とみことばを共に学んでいきたいと思います。今朝は、ルカの福音書の五章とルカの福音書十九章から、取税人ということをテーマに、皆様とともにみことばを主から受け取っていくように導かれています。主に期待していきましょう。

 

ではルカの福音書の五章二十七節から三十二節まで読ませていただきます。

 

『その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

 

そして続けてルカの福音書十九章五〜八節のザアカイの箇所も読ませていただきます。

『イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」』

 

今朝はこの二人のレビ=マタイ、そしてザアカイ、この二人の取税人に焦点を当てて、みことばを受け取っていきたいと思います。

 

この「取税人」とはどのような立場であったかというと、当時イスラエルは強大なローマ帝国の属国でありました。そのローマ帝国の命令によって、取税人たちは税金を人々から取り立ているという役割を与えられていたわけです。

しかしその取税人たち、ローマ帝国の強大な力を悪用して、余分に税金を取り立てるような悪い取税人たちもいたわけです。ですから当時のユダヤの社会では、取税人という立場はとても軽蔑された職業の一つでもありました。人々から少し白い目で見られるような、嫌がられるような存在であったわけです。

それ故、福音書では、取税人が罪人と同じランクに置かれて書かれてあるということです。パリサイ人たちが「なぜイエスさまは取税人たち、罪人と一緒に食事をするのか?」そんなふうに小言を言ったということです。そのような立場が取税人であります。血も涙もないような存在として、厳しい目を人々は取税人に対して持っていたわけです。

特にルカの五章三十節で

 

『なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。』

 

と文句を言ったのはパリサイ派の人々でした。このパリサイ派の人たちはどのような存在であったかというと、「パリサイ派」という言葉自体は、ヘブル語の「パールーシュ」「分離された」という言葉に由来するそうです。そして「汚れているものすべてから自らを分け隔てる」という、そんな意味合いがあります。あらゆる汚れたものから自分自身を聖く保とうと、隔てようとする。そんな人たちがパリサイ派だったということです。道徳的にも宗教的にも、純粋さを追求する人々でありました。

ですから彼らはこのモーセの律法以外に、特に紀元前二世紀から五世紀に編纂された、ユダヤ教のラヴィたちが特に中心となって口によって伝えられた、口伝律法、タルムードというものを持っていました。ですから律法以上により厳しく、自分たちを聖く保とうと、汚れたものからは輪をかけて自分たちを隔てようと努めたわけです。

そんな中で彼らは取税人たちに対しても、「罪人」呼ばわりしたわけです。そのような厳しいグループでありました。

 

そのタルムードの中では、こんな言葉もあります。

 

“賢者たちは言った。汚れた人と交際してはならない。たとい汚れた人を律法に近づける目的のためであっても”

 

なんかひどいですよね。私たち罪人ですよね。罪のない者は一人もいないですね。そんな汚れた存在が律法に近づく目的ならいいですよね。神さまに立ち返っていく。それが目的であったとしても、汚れた人たちと私たちは交際しない。ひどいですよね。本当に冷たい、血も涙もないなぁと思わされます。しかしその反面、この箇所では、イエスさまはそんな収税所に座っているレビという取税人に目を留めて近づいてきて、「わたしについてきなさい」と語られたわけです。そして家に入って食事までされるほどに親しくされました。

またザアカイに対しても、「わたしはあなたの家に泊まる」と言ってくださるのです。本当にイエスさまが私たちに注がれている愛と恵みと憐れみ、それがどれほどのものであるか計り知れないことを覚えます。このパリサイ派の人たちの態度とは対照的にイエスさまの深い深い恵みと愛を感じずにはいられません。

 

そんなイエスさまがレビに近づいてくる時に、「目を留められた」という言葉があります。そしてザアカイに対しては、ザアカイは小さかったのでしょうか。いちじくの木の上に上って、イエスさまを見ようとしたのです。

そんなザアカイに対して、イエスさまは上を見上げられて、ザアカイのほうに視線を送られたということです。今から、少しこの「目を留める」というところを学んでいきたいと思います。

このルカの福音書の五章の「目を留める」という言葉は、「theaomai」というギリシャ語が使われており、「正しく観客として見つめる」とか、「熟考する」、そんな意味合いがあります。

また、その対象物の重要性を把握するために熱心に観察するとか、それがどのような存在かということを解釈しようと熱心に見つめる・観察する、そんな意味合いがあります。またその見られている視聴者い大きな影響を与えるように見る、集中して見る。そんな意味合いがあると言うのです。

 

またザアカイの見上げるという言葉は、「blepo」というギリシャ語が使われており、「適切に見るために」とか「観察する・用心深く見る」とか、人が必要な行動を取るように対応、用心、警戒するように、行動をとっていくことができるように、視線を送るという、そんな強い意味合いの込められたイエスさまの視線、まなざしなのです。

「観客として見る」ということですが、皆さんいろいろなスポーツ観戦をしますね。そして応援しますよね。熱心に試合の動向を見つめながら、選手が頑張れるように応援するわけです。

そしてマラソン選手なんかは、沿道からくる声援によって力づけられるということをよく聞いたことがあります。人々の熱い視線とその声援が、選手たちを力づける、ある行動を促していくという、そんな力がこの人の視線、まなざしにはあるということも言えるかもしれません。

 

少し話は変わりますが、今、子どもたちは夏休みですね。子どもたちは家で過ごし、子育て真っ最中のお母様方は大変ではないかなと思います。私の妻も三人の小学生を必死に面倒を見ております。頭が下がるばかりであります。本当に子どもたち、元気ですよね。そして両親の言うことをなかなか聞いてくれないことが多々ありますよね。

そんな時、少し大声を出して叱れない時なんかは、私は一生懸命、目で訴えようとします。目で行動を促すように努めようと、目をギラギラさせて見ます。しかし言う事を聞いてくれない。そんなことがよくあります。では、イエスさまのこの視線、まなざしはどれほどまでに強かったかなぁと思うのです。この福音書中で、レビ=マタイ、ザアカイたちは、そのイエスさまからの熱いまなざしを受けて行動が変わっていくわけです。

この後、また詳しく見ていきたいと思いますが、そのまなざしの中にある神さまの溢れる愛と恵み、どれほどであったかなぁということを覚えさせられます。

 

さて、私たちは情報を五感により脳に伝えています。目で見る、耳で聞く、臭いを嗅ぐ、触る、味わう、そんな五感、視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚というものがあります。では、この中で情報を一番たくさん収集できるものというのは何でしょうか?あるインターネットのサイトで調べた一般的に言われることですが、それは視覚だということです。

視覚は八十三パーセントの割合で、情報を取り入れているということです。見るということは本当に多くの情報を受け取ることができるものなのです。イエスさまのまなざしから受ける神さまが与えてくださる情報、どれほどの愛と恵みをレビ=マタイ、ザアカイたちは受け取っていたのでしょう。きっと多くの愛と恵み、憐れみを受け取ったのではないかなということを覚えさせられます。

 

その神さまからの熱いまなざしの中にある愛と恵み、憐れみを受け取るためには、私たちはどのようにしたら良いかということですが、何も難しいことはありません。ルカの福音書五章二十九節、

 

『それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。』

 

そしてルカの福音書十九章六節、

 

『ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。』

 

ただイエスさまをお迎えするのみです。イエスさま、神さまが、私なんかにこんなすごい計画を立てているなんて信じられない。これほどまでの愛を注いでいるなんて信じられない。そのように疑う必要はないわけです。イエスさまはあなたの家に行くよ!と語っておられます。ただただ私たちは何も疑わずにイエスさまをお迎えするのみです。大手を振ってイエスさまをお迎えすれば良いのです。私たちの仕事は疑うことではないですね。覚えていきましょう。

 

そしてイエスさまがこの地上に来られた理由を、はっきりとここで述べておられます。ルカの福音書五章三十一〜三十二節、

 

『そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。』

 

とあります。私たちは日々、罪を犯してしまうような弱い存在であります。私自身も日々、罪を犯してしまうような者であります。そんな者であったとしても、正しい人を招くために来たのではなくて、罪人を招いて悔い改めさせるため、イエスさまに立ち返らせるためにイエスさまは来てくださって、一方的な熱いまなざしを注ぎ、憐れみと恵みを注いでおられます。私たちは大胆に、イエスさまお迎えするのみです。

何か私たちの側で境界線を引いて、「イエスさまの恵みはここまでかな」とか、「ここまでは神さまは祝福してくれたけど、これ以上はないだろうな」と、時に思ってしまう時がないでしょうか。私自身そのような弱い者なので、イエスさまに対して信仰が足りない者なのですが、今日はそのリミッターを外して、イエスさまをお迎えしていきたいと思います。私たちの所に神さまは来てくださると言われておりますから、主をお迎えしていきましょう。