主の熱いまなざしを受けて

そして、私たちを悔い改めに導くということですが、その後イエスさまは私たちにどうして欲しいのでしょうか。自分の罪に気づかせて、また罪を犯してしまうような弱さに気づかせて、悔い改め、その後に行動を変えてほしいのです。熱心に行動を変えるように見つめるイエスさまのまなざしがあります。

 

そんなまなざしを受け取ったレビ=マタイはどうしたか。私たちがすべきことでもあると思います。ルカの福音書五章二十八節

 

『するとレビは、何もかも捨て、立ち上がって、イエスに従った。』

 

レビ=マタイは何もかも捨ててイエスさまに従っていったのです。このレビ=マタイは取税人でした。人々から税金を取り立てて、余分にも取り立てていてお金持ちであったわけです。ですから何もかも捨てるということは、その裕福な立場も捨てる。持てるものも全てを捨てるというわけですよね。

またこの取税人という立場は、人々からある意味で白い目で見られ、罪人呼ばわりされ、社会の隅に追いやられるようなそんな存在であったわけです。その取税人が仕事を辞め、もし次に再就職しようと思ったらどうでしょうか。皆さんの中で、そういった嫌われ者の人、また世の中から罪を犯しているような「悪い人」というレッテルを貼られた人を雇用したいでしょうか。なかなか雇用するという態度を取ることは難しいのではないかと思います。しかし、レビ=マタイはそのリスクも負って、すべてを何もかも捨ててイエスさまに従った。その従順ですよね。どれほどの大きなものかと思います。

 

またザアカイはどのようにしたかというと、ルカの福音書十九勝八節、

 

『主よ。ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかからだまし取った物があれば四倍にして返します。』

 

とあります。四倍です。財産の半分を施して、だまし取った物は四倍にして返すと言うのです。そこまでの彼の罪の悔い改め、またイエスさまに対する従っていこうとする態度、どれほどであるかなと思います。

 

律法の中で、民数記五章七節では、このようにあります。

 

『自分の犯した罪を告白しなければならない。その者は罪過のために総額を弁償する。また、それにその五分の一を加えて、当の被害者に支払わなければならない。』

 

ということで、全額と五分の一、一・二倍くらいが罪に対する妥当な賠償ということですね。

また出エジプト記二十二章一節から、

 

『牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。』

 

強盗の罪は、四〜五倍ということです。ザアカイはこの強盗の罪には値しない罪であったと思いますが、それに匹敵するほどの罪の深い悔い改めと、深い信仰に進む行動を、ザアカイは取ったということですね。どれほどのイエスさまに対する深い献身を彼らがしたのでしょうか。

そしてまた同時に、私自身がどれほど深く自分自身の罪に気づき、また自分の弱さを認識し、悔い改め、行動を変えられていることができているだろうか。イエスさまが用意された信仰の道に歩めているだろうかということをすごく自問自答させられるみことばの学びの時でもありました。

またイエスさまに対して、神さまに対して、私たちの人生をどこまでささげ切れているだろうか。持てるものをささげ切れているだろうか、従っているだろうかということを考えさせられました。なかなか難しいことですが、神さまに、主に期待して、私自身を、持てるものをささげ切って、主に仕えていきたいと、信仰の道を歩んでいきたいと願わされました。

律法の枠も超えてザアカイも献げました。私たちも今日その枠組みを、その境界を超えて、大胆にイエスさまに献げる者となっていきましょう。

 

そんな罪の悔い改めというところから、すごくいろいろなことを教えられました。この自分自身の罪に気づかされる時、自分の足りなさに気づき、自分の弱さを覚えると思うのです。

私自身、常に弱さを覚えさせられるような者であります。私たちは、時に目の前のいろんな事柄に対して弱さを覚えるわけでありますが、その時に弱さと共に同時存在するもう一つの存在があることを覚えます。それは恐れだと思うのです。いろいろな問題、自分自身のこと、いろいろな弱さを感じる時に、やはり恐れが同時に存在していると思うのです。何か思いがけないことが起こってきた時に、自分の力ではどうすることができないような事に出くわした時に、私たちは弱さを覚えますし、そして同時にその事柄に対して恐れを抱きます。弱さと恐れは、共存すると思うのです。

そんな弱さや恐れを抱くような日々を過ごす中で、さらに信仰の道を進むための鍵となるみことばを皆様とともに受け取っていきたいと思います。マタイの福音書十四章二十三〜三十二節から皆様と共に学んでいきたいと思います。

 

『群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。』

 

ここから「弱さ」「恐れ」というテーマを中心にみことばを見ていきたいと思います。イスラエルのヘルモン山、この高い山から冷たい風がガリラヤ湖に吹き下ろし、低地の暖かい空気と冷たい風がぶつかって、大嵐、突風が、あのガリラヤ湖には吹くということが言われています。そのガリラヤ湖を弟子たちが向こう岸へ渡る場面であります。弟子たちは、激しい嵐、逆風によって、漕ぎあぐね、疲弊しきっていました。人間の力ではどうすることもできませんでした。その状況でイエスさまが水の上を歩いて来られたわけです。弟子たちはイエスさまに対して、「幽霊だ!」と見間違ってしまうほど、身も心も力尽きていた、弱っていた状況でした。

私たちの日々の生活においても、いろいろな逆風、嵐が吹き付ける時、荒波の中でもまれ翻弄される時があると思います。皆様の遣わされている職場や、地域や学校において、自分の力ではどうすることもできない嵐のような状況を通り、自分の弱さを感じ、その迫りくる嵐に対して恐れを抱くようなことを誰しもが経験すると思います。そのような中でイエスさまが私たちに何と言われるかというと、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださるのです。

この「わたしだ。」という言葉は出エジプト記の三章十四節、神さまが燃える芝を通してモーセに現れ、エジプトから民を救い出すように語り、そのように言われる方の名前を聞かれた時に何と答えたらよいか?とモーセが聞いた時に、「『わたしはある』という名だ。」と言われた。その言葉と同じ「わたし」という言葉がここで使われていると言われます。あの出エジプトにおいて、イスラエルの民をすごい奇跡により、モーセをリーダーにして救い出したあの偉大な主が「わたしだ。」と、弟子たちに語っているわけです。

私たちは、いろいろな逆風を感じるような日々であったとしても、イエスさまは「しっかりしなさい。わたしだ。」と語ってくださっているということを覚えていきたいと思います。

そのわたしとは、出エジプトをしてくださったような偉大な主ですね。全能の主です。天地万物を造られた主です。奇跡を行う主が、私たちともにおられるのです。そしてその主が、舟の中に乗った時に風は止みました。波も凪になりました。今日、そのような偉大な主が私たちとともにおられるということを、皆さんとともにもう一度覚えていきたいと思います。

 

そしてまたこの中で、イエスさまが湖を歩いて来られたので、「もしあなたでしたら、こちらに来なさいと言ってください。」と言って、ペテロは湖を歩き始めます。しかしそのペテロはどうなるかというと、歩き始めたのですが、風を見て怖くなって、沈みかけました。そして「主よ、助けてください!」と叫ぶわけです。ペテロは、風、現実の嵐の風を見てしまったのです。湖の上に立っておられるイエスさまに目を留めて進み始めた。しかし、現実という風に目を、視線を逸らしてしまったのです。

レビ=マタイ、ザアカイたちは、イエスさまから熱いまなざしを受けて、そのまなざしから目を逸らさずに、イエスさまからの思いを受け取ったわけです。しかし、ペテロはその現実の風に視線を少し逸らしてしまったのかもしれません。それゆえに自分自身がどのような方に従っているか、どのような方の権威の中にあるかということを忘れて、自分の立ち位置が分からなくなり沈みかけてしまったのではないかと思わされます。

ですから私たちは神さまからの熱いまなざしから、決して私たちの視線を逸らすことがないようにしたいと思います。

しかし、日々の生活の中で、イエスさまだけに視線を合わせられているかというと、そうではないですね。迫り来る現実、逆風に目を留めて、やはり私自身も恐れてしまいます。沈みかけるというか、私自身は沈みきってしまい、「苦しい〜」と、もがいているそんな状況を通ってしまうような弱さを持っています。

皆さんの中でも、そのような弱さを感じる時があるかと思います。その時、イエスさまはどうされるでしょうか?現実の風を見て沈みかけたペテロに「信仰の薄い人だな。もうしばらく沈んでいなさい。何秒潜れるか数えてあげましょう。」と言われたでしょうか?そのようにイエスさま言われませんでしたね。ルカの福音書五章三十一節、

 

『イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』

 

ここの『イエスはすぐに手を伸ばして、』というところが、すごく心に留まりました。

イエスさまのみ手が、いつも私たちとともにあるということを今日覚えていきたいと思います。どのような嵐の時も、逆風が吹いてきて、荒波にもまれるような状況を皆様が通られる時があったとしても、神さまのみ手はある。すぐにある。遅れることはない。イエスさまの恵みと憐れみは変わらずにあり尽きません。そのことを覚えていきたいと思います。

 

そして、このイエスさまのみ手があるという中で、思い起こさせられることがありました。エレミヤ書十八章四節〜六節

 

『陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。‐‐主の御告げ‐‐見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。』

 

陶器師は器を作る時に粘土を練って、ろくろを回して器を作っていくわけですけども、私たちは神の作品ですね。神さまによって造られ、また今も練られて造りあげられ続けている存在であります。神さまのみ手は、このようにいつも、私たちとともにあるわけです。そして助けてくださいます。そして私たちを神の作品として美しく造り上げてくださる。その過程を私たちが通っているということを覚えさせられます。

いろいろな器がありますけども、一人ひとり違いますね。神さまから造られた作品。神さまの素晴らしい計画が私たち一人ひとりに込められていて、その作者の思いが込められています。また造る時は、神さまの熱いまなざしを受けながら造られているわけです。そのような神さまの器、作品、それが私たち一人ひとりであります。