主の熱いまなざしを受けて

 

そしてこのマタイの福音書の十四章に、もう一度、話を戻しましょう。ある先生がこの箇所から一つのことを語っていました。この嵐の中を通って岸を弟子たちが渡っていくわけですが、その前後を見ると、前には二匹の魚と五つのパンで五千人の給食がなされる奇跡が行われています。そしてこの嵐の渡航の後、地域にイエスさまが来られたということが知らされて、多くの病の方々が連れて来られて、癒やしがその地域の中で行われていくのです。奇跡から嵐、そしてまた奇跡を見ることができる。この奇跡から奇跡の道のりの中に嵐という過程があるということを語っておられたのを聞いて、すごく励ましを受けました。

私たち一人ひとり、大嵐の中を通るような時があるかもしれません。しかし、それは奇跡から奇跡への通過点であるということを覚えていきたいと思います。

 

またそのような嵐の中で、恐れて、弱さを覚えて、弟子たちのように疲弊しきってしまう。また風を見て不信仰に陥ってしまう。そのような時というのは、本当に苦しいと思います。「そこから早く抜け出させてほしい。」と、願うのみでしょう。しかし、イエスさまのみ手はいつも私たちとともにあります。

弱さを感じる、恐れを抱く、そんな嵐の中を通り自分自身の弱さを覚える時というのは、陶器師である神さまご自身のみ手がさらに動いて、新しい作品として、さらなる新しい奇跡、神さまのみわざを受け取る作品として練り直されて、作り上げられる時でもある、奇跡から奇跡への道のりであるということを、私自身覚えさせられ神さまから励ましを受けましたので皆様と共に今日、覚えていきたいと思います。

嵐の中を通るような、お一人お一人がおられたら、それは神さまの奇跡から奇跡の過程であると受け取ってください。またその嵐のただ中にも神さまご自身の奇跡があり、み手があり、ともにおられるということを今日覚えていきたいと思います。

 

そして私たち弱さを担っておりますけども、イエスさまの十字架というのは私たちの弱さを担ってくださったものです。ヘブル人への手紙四章十五節、

 

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』

 

イエスさまは私たちの弱さを担うために、神として人となって、この地上に来られ、弱さの極みを経験してくださいました。そして自らの命さえも投げ打って、救いのみわざを私たち一人ひとりのために完成してくださったわけです。

 

そしてまたヘブル人への手紙の五章七節、

 

『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』

 

イエスさまのゲッセマネの園での祈り、血の汗を流すほどの祈りでした。しかしその中で、イエスさまは、主のみこころがなるようにと主に従っていきました。それほどまでのイエスさまの恵みと憐れみと愛を、私たちはこの十字架の恵みを通して受け取っています。イエスさまが主に従われたように、私たちも主に従っていきたいと思います。

そしてその十字架の贖いゆえに私たちは弱い者であっても強い者とされています。コリント人への手紙の第二 十二章九〜十節、

 

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』

 

イエスさまの十字架の贖いゆえに私たちは弱い者であっても、主の力強さが働かれる神の器、作品とされています。私たちが弱さを覚える時に、弱さを誇って、この逆風に立ち向かって、主の熱いまなざしから目を逸らすことなく、主に目を向け続けて、主に献げ続け、主に従い続けていく者でありたいと、そのように私自身、神さまから教えられ、また願わされています。

 

イエスさまはそのような私たちの弱さを担ってくださったということは、イエスさまは私たちに十字架の恵み、祝福、神さまの熱いまなざしから注がれる深い愛と恵みと憐れみ、それらを受け取るために、何か私たちにしなさいと求めているわけではないですね。イエスさまが自ら犠牲を払ってくださったわけです。私たちに何か能力を求めているわけでもありません。私たちの罪の性質も十分に理解し、弱さも十分にご存知であるわけです。

イエスさまがレビ=マタイやザアカイに対して熱いまなざしを送る中に、「わたしに付いて来てくれるか?」そんな思いを込められていたと感じます。

今朝、もう一度、神さまからの熱いまなざしを受けて、イエスさまからのみ声に耳を澄まして、「わたしに付いて来てくれるか?」その声に私たちは応答していく者となっていきたいと思います。嵐の中、弱さを覚えてしまうかもしれませんが、主に目を向けて、主についていきましょう。

最後に一つの話をお分かちして終わりにしたいと思います。今週、私の妻がすごく励ましを受けたみことばがあったということで分かち合ってくれました。そのみことばを皆様とともに分かち合っていきたいと思います。

この鳥、何かご存知ですか?鷲です。鷲というのは、人間の視力の四倍とも言われるほど目が良いということです。

また、暗い中でも物をよく見ることができ、暗視スコープの百倍ぐらいの性能があるそうです。また紫外線を見分けることもできるすごい目の持ち主だというのです。

そんな鷲は、嵐がやってくるのに対して、逃げたり隠れたりせずに動じないそうです。

むしろその良い視力を持って嵐が来るのを見定め、そして大きな翼を広げてその嵐によって引き起こされる激しい上昇気流を捉えて、空高く舞い上がっていくというのです。鷲は三千メートル以上の高さまで飛べるというのです。黒雲の嵐、激しい突風、それよりもさらに高い上空に駆け上がって、大空を優雅に舞うことができるのです。

嵐の上には太陽が照り輝いて、青い空が広がっています。そして鷲はその眼下に広がる激しい嵐の様子を見下ろしながら、大空を舞うことができるのです。みことばがありますね。イザヤ書四十章三十一節、

 

『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 

主を待ち望む者、「待ち望む」というこの言葉を調べていくと、「熱心に見る」という意味合いがあるそうです。私たちはこの迫りくる逆風、嵐、突風に対して、動じてしまう、恐れおののいて、逃げ隠れしてしまうような弱さを持つような者であります。

しかし主によって贖われて、神の子とされている今、神さまの強さがあらわされる神の作品とされている私たちは、その嵐に対して鷲のように立ち向かうことができます。また、嵐の中にも共におられる主を熱心に見つめて、主が用意された嵐の中にある上昇気流、大空へ舞い上がっていくための主の勝利の道、圧倒的な勝利の道、圧倒的な平安の道が用意されていることを見極めることができます。私たちはザアカイやマタイたちが大手を振ってイエスさまをお迎えしたように、何も疑うことなく、私たちはただただ翼を広げて、イエスさまの用意された上昇気流を受けて、大空高く舞い上がらせていただくことができるということを今日覚えていきたいと思います。

このように神さまから励ましを受けておりますので、このみことばを最後に分かち合わせていただきました。イエスさまから注がれ続ける熱いまなざし、私たちの視線を向け続けていきましょう。イエスさまからあふれる愛と恵み、憐れみを、何も疑うことなく受け取っていきたいと思います。

 

イエスさまの熱いまなざしを通して、私たちの弱さの中に、主の強さが働かれ始めるということを学んできました。そして弱さを覚えて恐れを抱き、時に痛みを覚えることがあるかもしれませんが、それは奇跡から奇跡への道のり、新しい神の作品として私たちが神さまのみ手によって守られて、また練り直される時、そして新しい器とされて信仰の道へと進み、更なる神さまご自身の新しい主のみわざ、主の奇跡、私たちが体験したことのない恵みを、さらに受け取っていく。そのような時であるということを今日神さまが語ってくださっていると思います。

ですから私たちは主からの熱いまなざしに対して、視線を決して外すことなく、時にペテロのように外してしまうこともあるかもしれませんが、マタイやザアカイたちから学んだように、律法という既定路線もはるかに超えて、大胆に、目一杯、私たちの持てるすべてを献げて主に従う者とさせていただいて、主を待ち望み続けていきたいと思います。

 

今年は既に八月に入り、八ヶ月経っています。二〇二三年は「希望の年」と、主が約束してくださっています。この年、私たちがどんな逆風、嵐の中を通っていたとしても、「これが希望の年か…。」なんて落胆することは決してありません。たとえ嵐の中を通っているような現状があったとしても、神さまご自身は強い上昇気流を私たちに用意されており、圧倒的な大勝利の道、黒雲を打ち破る上昇気流の勝利の道、希望の道を、私たちに用意されているということを覚えていきたいと思います。

 

そして私たちができること、それは疑うことなく神さまに献げて、目一杯翼を広げて、主が用意された上昇気流を受けて、圧倒的な勝利と平和の大空へと向かっていくのみです。もう既に私たちはそのような大空を舞っている領域もあります。心から主に期待して、希望の年を受け取り続けていきたいと思います。

最後にお祈りをしてメッセージを閉じさせていただきます。

 

ハレルヤ。父なる神さま、イエスさま、聖霊さま。今日こうしてみことばを通して様々なことを神さまが語ってくださり、私たち一人ひとりを励ましてくださっていることをありがとうございます。この時もあなたのみ手があり、私たちを新たなる神の作品として、みことばを通して練り上げてくださっていることをありがとうございます。今、大嵐の中を、逆風の中を、大波で揉まれて苦しんでいる方々が多くおられるかもしれません。疲弊しきって、弱さを覚えて、自暴自棄になったり、苦しいところを通っている方々がいるかもしれません。また私たちはそのような苦しみを通るような現実がありますけども、それは神さまの奇跡から奇跡、主の栄光から栄光への道であることを覚えて、ありがとうございます。そしてその嵐の中に、素晴らしい神さまご自身の勝利の道が、圧倒的な勝利の道が、上昇気流があることを覚えて感謝します。

今もう一度、あなたに私たち自身をささげる大胆さを、勇気を与えてください。マタイがすべてを投げ捨てて従ったように、ザアカイがすべてのリミッターを外して大胆にささげたように、私たちもさらにこの年、あなたに大胆にささげて、今日からささげて、更なる信仰の道へと歩ませていただけますように、聖霊さま、導いてください。

この地に植えられて七十年。この年、希望の年、主が約束しておられることをありがとうございます。もう既に私たちは黒雲の突き破った勝利の大空、あなたの義の太陽のもと、喜び、あなたのみもとで憩う、優雅に大空を飛び回る恵みと勝利の時が与えられていることを感謝します。その勝利者とされていることを心から感謝します。

この希望を奪おうとするすべての暗闇の策略を打ち破ってください。私たちを攻撃するサタン、悪霊の力を、主よ、あなたが断ち切り、逆風を打ち破ってください。主よ、私たちがあなたから目を逸らすことがないように助け導いてくださいますようにお願いします。

今日の恵みの時を心から感謝します。そしてこの残された二〇二三年の日々を、月日を、時を、あなたを待ち望んで、さらに主に期待して、あなたに従っていくことを宣言します。今日の時を心から感謝します。すべての栄光を主にお返しして、イエスさまのお名前によって、父なる神さまに祈りをおささげします。アーメン。