主がお入用なのです

2023年1月14日(日)新城教会牧師 滝元開

ルカの福音書 19章34節
“弟子たちは、「主がお入用なのです」と言った。”

今日はこうして皆さんと共にたくさんの賛美を主におささげし、賛美礼拝をおささげできたことを心から感謝します。主の恵みの中で、今日もこうして健康が支えられて新しい年に、主が大きなご計画の中で私たちを導いてくださっていることを信じて感謝します。

昨日は東京でザワメキのワーシップシャウトがあったのですが、ここまで主が東京においての賛美も許してくださって、支えてくださったことを心から感謝します。天気予報で雪の予報だったのですが、小雨が降っている感じで、肌寒い感じでしたけど、帰りは何か大きな事故があったみたいで、随分渋滞したのですが、そんな中で新城からも行ってくださった皆さんも、勇ましくご参加くださり、無事帰ることができ、今日こうして主を讃え、賛美できるこの恵みを心から感謝します。

それでは早速、今日のみことばに入っていきたいと思います。今日は、最初にお読みいただいたのですが、「主がお入用なのです。」と、越年の時にも、私が語らせていただいたみことばですけども、神さまがこの二〇二四年、私たち一人ひとりを、「あなたをお入用だよ!あなたがいるんだよ!必要ですよ!」と、イエスさまがおっしゃってくださっていることを信じて、進んでいくことができればと思います。

私たち、様々な祈りの課題が日々あって、いろいろなことを祈らないといけないことが身の回りにたくさんあります。特にこの日本では能登の大きな地震のために、日々皆さんお祈りいただいているかと思いますけれども、ぜひお祈りいただき、あの地の教会一つ一つの守りのために、そしてそこに住んでおられる方々の守りのために、また今も寒さに震え凍えながら戦っておられる方々のためにお祈りしていきたいと思います。

また、日本のみならず、世界のためにも祈っていきたいと思います。世界の平和のためにお祈りしましょう。詩篇百二十二篇でしたでしょうか。「エルサレムの平和のために祈れ。」と、みことばが書かれていますけど、イスラエルとガザ地区での大きな戦いが世界に広がるという、そんな動きさえある中ですけども、主の守りがそこに置かれるように祈りましょう。「エルサレムの平和のために祈れ。」というのは、首都エルサレムのために祈ることは、イスラエル全体のために祈ることになり、またそれが世界の平和にも繋がることなので、今こそ世界のためにも、能登のためにもお祈りいただきたいですし、そしてエルサレムの平和のために、それは結局、結果イエスさまが帰られる道を備えるための祈りとなりますので、そのためにお祈りしていきたいと思います。

そんな中で日々、皆さんの歩みも守られているかと思いますけど、家庭集会が各地で行われていますけども、今、家庭集会ごとの賛美の時が与えられて、それぞれの地域で勇ましく戦っておられるという方々の賛美をお聞きできて、そしてその姿を見させていただいて、すごく感謝しています。
私たちの家庭集会も本当に主が祝福してくださって、守ってくださっていることを感謝します。様々な苦しみ、悲しみ、戦いがあり、家庭集会のメンバーだった朏美衣姉妹が天に帰られて、本当に大きな悲しみでした。その前は享子さんも寛太も天に帰って行って、大きな悲しみがありましたけど、そんな中で家庭集会に新しい命が与えられて本当に感謝でした。

これはこの間の家庭集会の時の二人の写真、ご両親に出していい?と聞いたら、いいですよと言ってくださったので、るのちゃんと、かんちゃんです。かわいい二人が、新しい命が与えられたというのも、本当にイエスさまの希望というのは変わらずに溢れ続けているなぁと思います。それぞれの家庭が七人目、五人目!と、さらに広げられたらどんなに素晴らしいことかと思いますけども、祈り続けて、主に期待していきたいと思います。

またそして年末年始も守られて、祝福されて、感謝でした。十二月も怒涛のような、毎年いろいろな伝道集会がありますので、教会の方もバタバタしてしまいますけど、そんな中で主が新しい魂をどの集会にも送ってくださって、「この方、どこから来てくださった方かな?」という方がたくさんおられて感謝しています。
つい先日も、突然お電話があって、「教会に行きたい。」という一人の青年から電話があって、「それじゃあ今日にでも!」というふうにおっしゃったので、「どれぐらいかかりますか?」と聞いたら、「三十分ぐらいの所です。」と言うので、それでお待ちしていたら二十分ぐらいで来たのです。その方、自転車をモリ漕ぎして、汗びっしょりできてくださいましたけど、特に「新城教会」という教会の存在を知っていたわけでもなく、「インターネットで調べたら出てきたので来ました。」と、何か神さまが一人ひとりの中に、友人・知人とか、新城教会のイベントを知っていたとか、そういったことを超えて働いておられる姿を見て、ぜひまたそうした新しい主ご自身の霊による働きが起こされていくように、皆さんの身近の中にも現されるようにお祈りいただければと思います。

そして、昨年の最後に、十二月三十一日には、洗礼を受けられてある意味新しい命とを神さまからもらったというバプテスマ、洗礼式があったことを心から感謝します。ご本人にも許可を得ましたので、その時の写真。渡邉さんです。

主がこうして、本当に素晴らしいバプテスマの時を与えてくださって、神さまが選んでくださって、神さまがこの時を与えてくださったことを心から感謝します。

この方の洗礼に至ったのは、石川さんが、コロナのちょうど始まったばっかりの頃でした。二〇二〇年七月十九日でしたので、その時に彼が、イエスさまを信じて、以前もここでお分かちさせていただきましたけど、私がお世話になっている美容院でチョキチョキ髪の毛を切ってくれている彼が、最初はチェーン店にいたのですが、彼がいなくなったなぁと思ったら、お手紙いただいて、「ここで始めました。」という、そこから始まって、そして十数年、お世話になっていますけど、今度は彼を通して、渡邉さんもバプテスマを受けるという、神さまの選びと神さまがそのことを成しておられるということを見させていただいいて、本当に感謝でした。神さまが一人ひとりを選んで、「あなたがお入用です!」と、イエスさまは一人ひとりに、さらに強く語っておられるのかなぁと、そんなふうに思います。

またザワメキのためにもお祈りいただきたいと思います。この二〇二四年は、ぜひザワメキのシリーズのCDが与えられるように祈っていますので、ぜひお祈りください。ザワメキ十四が、主のみ手の中で、ザワメキは天から降ってきたものを今までキャッチし続けてまいりましたけども、主が新たな視点の中で、新たなものを与えてくださっていますし、霊的戦いということと共に、いろいろな試練の中で、私たち今まで考えなかったような領域のところが開かれてきて、目から鱗が取れるかのような体験を日々させていただいているかと思うのですが、そんな中で、さらにその賛美の中にも新しい主のご計画があって、イエスさまの帰られる道が備えられる働きがなされていることを覚えて感謝します。ぜひザワメキ十四、本当に主によって与えられるように祈って支えていただければ感謝です。

そしてこの教会に、この二〇二四年に与えられた、順先生を通して与えられた大きなテーマが、「主よ。遅れないでください!」という、そのみことばが、詩篇四十篇から語られました。

“あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「主は大いなる方」といつも言いますように。私は苦しむ者貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け私を救い出す方。わが神よ遅れないでください。” (詩篇 四十篇十六~十七節)

主が本当にこの年に、遅れずに来てくださるようにと、祈り続けていきましょう。ハバクク書にはこんなみことばがあります。

“この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。” (ハバクク書 二章三節)

主の側では遅れることがないという、変わらない。私たちの思いがどんなに揺れても、周りがどんなに変化、移り変わろうとも、「わたしは、しようとしていることを必ずする!」という、その時が来ていますので、その時を遅れることないように、私たちが遅らせてしまうようなことがないように、『もしおそくなっても、それを待て。』そのように感じても、それを待ち続ける。『それは必ず来る。遅れることはない。』というのが主のみことばです。私たち、主の御心を求め続けていきたいと思います。

先ほども言いましたが、昨日ザワメキの東京大会がありましたけど、本当に祝福されて、大きな恵みだったのですが、そんな中で増山先生が、ルカの福音書の十八章からのみことばを語ってくださった中で、「ダビデの子イエスさま、私をあわれんでください!」という、あの所から語ってくださいました。
「この年、私たちに与えられているみことばが、これです。」ということで、十八章三十五節からずっと読んでくださいましたけど、少しお読みします。

“イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。” (ルカの福音書 十八章三十五~四十三節)

イエスさまがエリコに入られた時、「あわれんでください!」と叫んで、その主に叫び求めた時に、ある意味、「私の病を癒してください!遅れないでください!」という叫びをした時に、主が、「あなたの信仰があなたを直した。」という働きをされました。

これがルカの十八章なのですが、私自身、今年与えられたみことばの「主がお入用なのです!」というのは、続く十九章なのです。ルカ十九章三十四節、

“弟子たちは、「主がお入用なのです」と言った。”

私たち一人ひとりを主が選んでおられることを信じて心から感謝していきたいと思います。エリコの街から旅をして、そしてオリーブ山からイエスさまは、今度はエルサレムに入城して入って行かれたのです。そういった道筋をずっと通っていかれたのですが、その記事が、イエスさまがいよいよ入城される。そしてその先に、十字架が待っていたわけですけど、今はイエスさまが入城されて十字架が待っているのではなくて、王の王としてこの地に君臨するという、そこなのです。ですから私たちが主に向かって、「主よ。遅れないでください!来てください!」と叫ぶ時が来ているのではないかなと、そのようにすごく思います。

イエスさまが都に入城された記事は、四福音書すべてで書かれているのです。マタイの福音書二十一章七〜九節、

“そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」”

「ダビデの子にホサナ!」と言って、イエスさまをお迎えした記事がここに書かれています。その時に多くの人たち、群衆が木の枝を持って、「主よ、来てください!ダビデの子にホサナ!」と、日本語では「しゅろ」と書かれていますけど、「しゅろ」と言うと、「和ジロ」というのがカフェの前に立っていますけど、英語だと「palm tree」と書かれているので、いわゆる、やしの木。だからよく南国の良い所に行くと、「天国に近い場所だ。」と言われたりしますけど、やっぱり天国にも、しゅろがあるのです。これは黙示録にも書かれていますけど、この地でも「イエスさま来てください!」と叫んで、イエスさまをお迎えしたように、今度は天も地も一つになって、天国でも黙示録でシュロ、ヤシの葉を手に取って、主を賛美しておられる姿が書かれていますし、この地上でもよく最近、天と地が一つとなって主を賛美するように祈るように言っていますけど、天も地も一つになって、シュロの木を持って主を賛美する、そんな時が来ているのではないかなと思います。