主がお入用なのです

マルコの福音書十一章三節、

“もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」”

七、九〜十節、

“そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。”
“そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」”

と書かれています。そしてヨハネの福音書十二章十三〜十五節、

“しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」”

主が入って来られる時に、「主がお入用なのです。」と選んだのは、ろばの子でした。私たちも本当に、ろばの子のように、主を乗せて、この地に来ていただくために、「主よ。来てください!遅れないでください!」そして主をあがめたたえ賛美していくという中に、主のわざがなされていくと信じています。
天も地も一つになってろば役を買って出るというか、そしてその中にまた、「ろばの子」と書いてあるのです。年老いたろばで、頑丈なろばではなく、子ろばをあえてイエスさまは使われたというのは、子どもたちを特に主は選んでおられるのかなと、この中でもすごく見ることができます。

先日ミュージックスクールでも、最近子どもたちが沢山参加してくれ、一生懸命演奏し、すごく嬉しそうなのです。本当に見ていて微笑ましいというか、ちびっ子たちがギターを抱えていて一生懸命やっていたり、またこの間のパーカッション、子どもたち本当に嬉しそうにしている姿を見て、あの姿を見てイエスさまが喜ばれないはずないな!とすごく思いましたけども、イエスさまが帰られる道を追い求めていきたいと思います。イエスさまの帰れるその日を待ち望んで、「パームサンデー」という言葉がありますけども、「パームエブリデイ」というか、毎日主をあがめ讃え、賛美して、主が来られる時を求めて、歌い続ける者でありたいなと、心から願います。

そして黙示録のほうのみことばを読んでいきたいと思います。黙示録七章九〜十節、

“その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」”

天国、もう既に私たちの愛する方々も天に行っているわけですけど、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着て、主の前に立っている。そして主を賛美しているのです。そして、しゅろの枝を手に持って、やっぱり天国にもありましたね。しゅろの枝を手に持って、「主よ!賛美します!」と心から賛美し、「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」”と、み座にある父なる神さまにあって、そして子羊、主イエスさまにある。イエスさまの中にある完全なる救い。イエスさまを信じたら天国に行ける。
永遠のいのちを持つことができるというのは、何にも増して、何にも変え難い大きな祝福であるわけですので、そのことをもう一度、救いの喜びを、もう一度、私たちのうちに返してください!と、救われた時の喜び、心が熱くなって、「いやぁ〜本当にイエスさま素晴らしいな。そしてイエスさまが私の罪を赦してくださった!」ということをすごく感謝する、そんな感動をいつも持って歩むことができたら、どんなに素晴らしいことかと思いますので、ぜひもう一度救いの喜びに私たちの内側に、主からいただいて、日々、主への賛美をささげる者でありたいと思います。

さらに黙示録の七章十六〜十七節をお読みします。

“彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」”

主ご自身が、天国においては、主が太陽なのです。太陽よりも明るい祝福というのが、真昼よりも輝く。だから真昼よりも輝いたら、炎熱で殺されてしまうのかなと思いますけど、そうではないと。イエスさまご自身、この地上に新天新地というのが現れて、その時の光というのは主ご自身なのだと言うのです。それが真昼よりも輝いた祝福を、イエスさまは私たちのために用意されていて、先ほどの十七節に、「なぜなら、御座の正面におられる小羊」がいらっしゃるのです。ですから、その方ご自身が、真昼よりも輝く光というものを持っておられるので、私たちの人生そのもの、本当にぜひ皆さんの日々の歩みが、真昼よりも輝くような、輝きにあふれていったときに、「どうぞ!私にその救いをください!」と、多くの人たちが主のみ元に集まってくるような、そんなことが起こされる、これからの歩みとなるように求めていきたいと思います。
ぜひ皆さんがこれから、会社に出て行って、学校に行って、また地域での様々な歩みの中に、主はいろいろなきっかけを与えようとされているのではないかなと思うのです。何気ないきっかけの中で、主が本当に魂とのふれあいというか、出会いというのを与えてくださっているので、例えば家にピンポンと言って、お届け物をしてくださる方の中にも、ピンポンの中に、もしかしたら主の時があるのかなと、そんなふうに思っていかなかったらいけないのではないかなと思うのです。
そのために「あなたが主がお入用です。」と、おっしゃっておられるので、何気ない歩みの中、いろいろな場面で、受付の方、単なる受付の方、単なる業者の方、というふうにせずに、全ての方が主に出会うために、「あなたがお入用なのです。」と、主が語っておられる、この二〇二四年であると信じています。
ぜひ、皆さんを通して、主の働きがさらに進むことを信じて、歩み続けていただく二〇二四年でありますように願います。
それと共に、皆さんの唇を通して、主を賛美する。「開が出てくると、いつも同じことしか言ってない。」と思われるかもしれないですけど、でも本当に、私たち一人ひとりが叫ばなかったら何が叫ぶかと聖書に書かれているかというと、「石が叫び出す」と言うのです。だから石に叫ばせるのではなくて、私たち一人ひとり、こうして声を与えられて、主をあがめたたえ賛美するという中で、主を賛美する時に、主の帰られる道を備える。そのために私たち、しゅろの木を手に取って、「ダビデの子にホサナ!主よ。来てください!イエスさま!この二〇二四年、遅れないでください!」と、心からイエスさまを賛美する。「遅れないでください。」という願いが、そのためには主を伝えることも必要ですけど、それと共に、「遅れないでください!」と言うのが、主をあがめたたえ賛美することにつながっていくのです。そのために「あなたは主がお入用なのです。」と、ぜひそう思っていただいて、今年は主が私を用いて、私を通して、主の働き、主がしようとしておられる道を備える働きをされようとしているんだと信じて受け取っていただいて、歩んでいきたいと思います。みことばは以上とさせていただきます。
それでは一言、お祈りさせていただきます。

ハレルヤ。愛する天のお父さま、あなたの素晴らしいみ名を心からあがめたたえ賛美します。「主がお入用なのです。」と、今日私たち一人ひとりに語ってくださっている恵みを心から感謝します。すでにこの二〇二三年、二〇二四年と、私たち、様々な奇跡を見、あなたご自身が働いておられるみ姿を拝させていただくことができたことを心から感謝します。イエスさま、この年、主よ、遅れないで来てください!あなたが来てくださるために、私たち一人ひとりを「主がお入用です。」と語ってくださっている、この大きな約束とこの大きな計画を信じて、心から感謝します。
もう一度、主よ、あなたご自身のみ名を心からあがめます。どうぞ、主よ、今、あなたをあがめたたえ、賛美します。天と地が一つになって、あなたをあがめ、たたえ、賛美し、礼拝し、あなたを褒め称えることができますように。もう一度、新しい賛美の油を注いでください。
主よ、私たちのこの唇を主が用いようとされていることを感謝します。あなたの福音のために、そしてあなたをあがめ称え賛美するために、主が私たちに「お入用です。」と、それぞれの名を今、主が呼んでおられることを心から感謝します。どうぞ、主のみ名をあがめたたえ、賛美し、礼拝し続ける、そのような者とさせてくださいますようにお願いいたします。この希望の年を主が与えられ、そしてこの二〇二四年、「主よ。遅れないでください!」ということが与えられていることを感謝します。あなたが遅れないで来られるために、私たち一人ひとりに、私たち一人ひとりを「お入用です。」と語ってくださった主に、心から感謝します。もう一度全てを主のみ手におささげし、心から主をあがめ、尊きイエス・キリストのみ名によって、この祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン。