弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ。

2023年7月16日(日)新城教会牧師 上條実

ヨエル書 3章9節〜10節
『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』

エレミヤ書 29章11節
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

ハレルヤ!今日皆さんとともにみことばを学ぶことができます事を心から感謝します。また素晴らしい賛美を主にささげることができましたことを、心から主を賛美いたします。

いつも私と私の家族、またリバイバルミッションのためにお祈りを感謝いたします。リバイバルミッションではコロナウィルスも終息し、全国各地の教会を巡回しての奉仕が、再開することができるようになりました。

先月はお祈りを頂き、六月二十日から二十五日まで、茨城県と栃木県を、平岡修治先生と、サックス奏者の安武玄晃さん、そして音響の岩井兄で巡回することができました。とても恵まれた集会を持つことができました。そして今月七月は二十八日から三十日まで、東北地区と新潟地区とを巡回します。ぜひ覚えてお祈りください。今回は講師として平岡修治先生と賛美ゲストとしてDuo B→ Z、そして岩井兄が回ります。最初は宮城県仙台市にあるつばめさわキリスト教会。そして土曜日が山形県山形市にあるフルゴスペル山形教会。そして次の日曜日は、新潟県長岡しにある長岡聖契キリスト教会で、夕方から南魚沼市にある浦佐キリスト教会にて行ないます。ぜひ覚えてお祈りください。山形市から新潟県の長岡市までの移動が約三百キロぐらいあります。ぜひ事故もなく移動できますように覚えて祈って頂ければ幸いです。

新城教会ではこの二週間素晴らしい礼拝がささげられて来ました。お伝えしております様に七月は「賛美と霊的戦い月間」ということで、礼拝では常に行なわれていますゲスト賛美をなくして、その分賛美を一杯ささげ、そして霊的戦いが一九九二年の七月九日の早朝に主がこの教会にお示し下さったという事で霊的戦いにスポットを当てて、学ぶ時をもっています。特にこの二週間、滝元順牧師より七月九日を振り返ってというタイトルで素晴らしいみことばを伺いました。

一九九二年七月九日( 木) の早朝。私もその時一緒に祈祷会などに出席していましたが、振り返って考えて見る、とにかく聖霊に圧倒されて、ただただ押し出されて、訳わからずに祈りに行ったというのが正直なところです。でも一つハッキリいう事ができるのは一九九三年十一月に「全日本リバイバル甲子園ミッション」が控えておりましたので、そのために私たちが、どのように準備していたら良いのかと、みんなで相談してひねりだしたのが「霊的戦い」ではありません。みんなの祈りの中で、聖霊さまが圧倒的な支配の中で、「この地の覆いを取りなさい!」「日本に働く暗闇の力を打ち砕きなさい!」とハッキリ示してくださいました。確かに霊的戦いは主が私たちにお示し下さって始めることができるようになりました。

あの時の祈祷会は、たしかに圧倒的な聖霊さまのご臨在がありました。何か空間が、良い表現かわかりませんが、空間がねじれているような、神さまのご臨在を感じつつ、主が語ってくださいました。祈りの中で、次々と祈らなくてならない場所が示されて、出かけて行って祈る時を持ちました。

なんと霊的戦いが、始まってもう三十一年が過ぎました。今までの日本のキリスト教界は教会に必要だから、「こんなプログラムがあります」というプログラムが教えられ、各教会でそのプログラムに賛同してともに学び、また次のプログラムという事でいくつかのプログラム、学びが行な
われてきました。しかしその学びは大切で、とても素晴らしいのですが、なにか一過性で、数年後また新しいプログラムが出てくるという、様々なプログラムが紹介されてきました。しかし主がお示し下さったこの「霊的戦い」は今まで続けられ大きく拡大されてきました。特に私たちの
愛する日本のために。この新城教会に必要だからこそ、私たちに託された神さまの賜物だと思います。ですからこの霊的戦いを、私たちは重んじて、更に学んで、戦っていきたいと思います。

先ほど、司会者の方が読んでいただいたみことば、エレミヤ書二十九章十一節を最初にもう一度お読みしたいと思います。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐ 主の御告げ‐‐ それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

素晴らしいみことばですよね。私たちの人生は、災いではなく、平安を与えられるというのです。将来と希望が与えられている。なんと希望に満ちたみことばでしょう。今まで暗闇の支配にあった自分が、主にあって勝利。将来と希望が与えられるというのですというみことばです。
ここの『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。』の、「あなたがた」という所に、自分の名前を入れて見てください。私だったら『わたしは上條実のために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐ 主の御告げ‐‐ それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、上條実に将来と希望を与えるためのものだ。』と主が語って下さっています。なんと素晴らしいみことばでしょう。私たちは今まで経験したことのないパンデミック、新型コロナウィルスの三年半の時代がありました。どのように生活して行ったら良いのか? またどのように与えられた仕事を進めて行ったらよいのか? 経済的にも困窮を覚える生活でした。日本のあらゆる分野がストップしてしまいました。しかし今その束縛から解放されたのは、ただじっと閉じ困っていたのではなく、やはり祈ったからこそ、解放されたと信じます。将来と希望をあなたに与えてくださる。このみことばを受け取っていきたいと思います。
エペソ一章四節に

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

ここに、神は私たちを世界の基の置かれる前から選んでくださった。私や皆さんを主が選んでくださって、地上ができる前から、選び、神が聖く、傷のない者にしようとしてくださった。これは特別な主の選びです。またイザヤ四十三章一節〜四節、

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

このみことばもとても有名なみことばです。『水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。』とあります。今まで振り返って見ると大水、濁流で、押し流されそうになった時も、不思議なように、守られました。また、『火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』大変な事故や事件にあったとしても、不思議と守りがあり、生かしてくださいました。『わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛
している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』私が、悪しき力に捕まえられたとしても、当時の富と栄誉に満ちあふれた都市であるエジプトを身代金として、私を敵から取り戻してくださる。そして四節『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』とあります。皆さん今日このみことばを信じますか?主が責任をもって守ってくださるのです。なんとすばらしい約束でしょう。みことばは生きています。

しかしとても恵まれましたこの二週間の礼拝でしたが、みことばを聞きながら、私の心の中で辛い思いがありました。何かというと、うちの家内のことでした。家内は要介護五を認定されて、我が家で暮らし、私が看護しています。
毎日介護で疲れ果てた自分がいました。彼女が認定を受けている要介護五というのは、ネットで検索して見ると、『介護が必要となる度合いを要支援一、二、要介護一~五の七段階で評価する「要介護度」の中でも最も重度な状態です。要介護五とは、最重度の介護を要する状態で、食事やトイレ、服の着替えなど生活全般に介助を必要とする。身だしなみや掃除などの家事がほとんどできない。立ち上がったり歩いたりすることがほとんどできない。立ち姿勢を保ったり、片足で立ったりすることができない。全般的な理解の低下がみられることがある。』とあります。何から何まで自分で毎日彼女の介護をしており、とても疲れ果ててしまっている自分です。家族やケアマネージャーの勧めで、明日から初めて三日間、ショートステイを使う事となっていますが、初めてショートステイに出かけるという事で、緊張してしまい、昨夜は、何回も起きてしまい、私も寝れませんでした。正直、霊的戦いは、「主が与えてくださった武器。必ず勝利が与えられる。」ということをわかってはいますが、反面、体と心が疲れて正直、牧師でこんなことを言ってはいけないかもわかりませんけれども、「疲れた人は無理だ。霊的戦いは元気な人がやるものだ。」と思っている自分がありました。

本当に情けないのですが、今までイエス様の多くの勝利、奇跡を体験したはずですが、ついていけない。疲れ果てた自分が存在していました。パーキンソン病が少しずつ進行してしまい、介護しているため、正直疲れてきてしましました。

ある時、デイサービスの車を待っている時家内が、「私って何で病気になったんだろう?」と、私に質問してきました。やっぱり牧師ですので、「それは神さまがあなたを通して神様の栄光を現してくれるためだよ。」と答えました。しかし「でも、つらすぎるよ」と、言うのです。そし
て、「私って罪を犯したのかなぁ?」と、そんなことを言い始めたのです。「いや、イエスさまの十字架は、すべての罪を赦してくださったから、罪は全部赦されているよ。」と言ったのですが、最後に、「これから孫と一緒に遊んだり、あなたと一緒に旅行に行ったり、また伝道に一緒に出かけてイエス様のために一杯奉仕したいと思っていたのに・・・・。」と言って流していたのです。その時に私は言い返すことができませんでした。彼女がデイサービスに出かけた後、私は主の前に出て祈りました。しかし決して祈りと言えるものではありませんでした。主に文句を
並べて訴えていました。「主よ! なんでですか? 辛すぎます。どうしてこんな状況になってしまったのですか? なんで自分がこんなになったんですか? 」と祈りました。先ほどのエレミヤの二十九章十一節の「あなたがたの将来は、将来と希望を与えてあげる。というけど将来が見えない。希望がない。自分もつらい。いつまでこんなにつらいんだろうか? こんなはずじゃなかった」と訴える祈りをささげてしまいました。家内よりももっともっと、重篤の方もいらっしゃいますし、生まれつき体が不自由である方。またそれを看病されておられる方、もっと大変な方々がおられるにもかかわらず、自分が大変で、他の方々のために祈れないのです。時々ご夫妻で食事をされていたり、夫婦で並んで仲良く歩いている姿を見ると、とても羨ましく思ってしまいます。しかし一方では、俺は牧師だ!聖書は必ず成就する!戦わなくては行けない、もっと主のために奉仕しなくては・・・・など考えてしまい、板挟みになって、苦しんでしまう時があります。大変申し訳ないのですが、ある方が「お祈りしてください。」と依頼される時があります。その時は主を信じて祈りますが、正直心の奥底では、「いやあ大変だけど、もっとこっちが大変だよ。」というような思いが出てしまう時があります。主を愛し、皆さんを愛して、お仕えさせて頂かなけ
ればならない立場でありながら、自分の心が全く裏腹になってしまう時があります。こんな私です。お祈りくださり、お赦しいただければと思います。