神さまの計画だけが実行に移される

2023年10月29日(日)新城教会牧師 岡本信弘

箴言19章21節

『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。久しぶりにここに立たせていただいていますが、皆さんと共に、主を賛美して礼拝ができるこの恵みを心から感謝します。
今がいちばん過ごしやすい季節だと言われますが、朝晩すごく涼しくて体調を崩しやすい時期でもありますので、健康には気をつけていただきたいと思います。
四年ぶりにコロナがあけて、世間ではいろいろなところで秋祭りが行われています。そのために私たちは祈らなくてはいけません。また今週は、ハロウィンがあります。ほとんどの人は本当の意味も知らず、ただのイベントとして騒いでいるという悲しい現実にありますので、私たちクリスチャンはそのことを覚えて、死の霊が打ち破られ、主のみこころが現されることができるように、関心を持って祈りましょう。

さて今日は午後から運動会があります。小さい頃は、「明日、運動会か!」と、すごくワクワクしたものですが、正直、我が家の兄弟は皆、足が遅いのです。徒競走で六人で走って、私はいつも五番目、兄はいつも六番目でした。そのように、いつも一番という滝元家の子どもたちとは違って、うちの兄弟は運動音痴だったのです。しかし、新城教会の運動会で、いつも一番になれる競技がありました。それは、パン食い競争です。皆さんから、「先生早いですね!」と言われるので、何か、走るのが早くなったような気分になったこともありました。ただ、食べるのが早いだけだったのですが…(笑)。今日は天気も良いので、皆さん、見るだけでも結構ですので、ぜひご参加ください。
また今週金曜日は、十二時間の賛美集会があります。そして十一月十一日土曜日には、甲子園ミッション三十年を記念してのイベントが、西宮一麦教会であります。私も行きますが、まだマイクロバスの席が少し空いているそうです。今日申し込んでいただいたら乗ることができますので、ぜひご一緒に出掛け、集会に参加していただければと思います。

さて今日は、「神さまの計画だけが実行に移される」というテーマで、証を交えてお話ししたいと思います。
「計画」とは、「事を行うために、あらかじめ方法や順序などを考えること。また、その考えの内容に応じたプランを立てること」と辞書にありました。
人が計画を立てる時、悪いことを計画する人はほとんどいないと思います。これから後に得られると思われる祝福、恵み、良いことを想定し、期待して計画を立て、準備をするわけです。でもなかなか計画どおりにいかないのが常なのです。

今年は、「この教会が新城に植えられて七十年」と、毎週のように語られていますが、先日順先生が、「この教会においては、あまり計画を立てなかったからこそ今がある」と言われていました。そう言われてみれば、確かに、短期的には「これに向かって頑張りましょう」ということはあっても、長期的に大きな目標を掲げたり、計画を立てたことはなかったように思います。
しかし、この会堂建設のためには、長期的な計画を立て、建設委員会がつくられ、何度も何度も話し合いを重ね、海外にまで視察をして建て上げられました。もう四十三年が経ちましたが、今もこうして素晴らしい環境で礼拝ができるというのは恵みです。また教育館の時にも綿密な計画が立てられました。私は実行委員の一人で、あちこちの教会を見学させてもらい、「このようなことのために使いたい、このようになるだろう」ということを想定して、様々な準備をして、一九九二年に教育館が完成しました。
しかし、そんな「さぁ、これから!」という時に、霊的戦いが起き、多くの人が教会から出て行ってしまいました。様々な噂が日本中に広がり、「新城教会は経済的にも立ち行かなくなって、つぶれるのではないか」と言われるほどでした。私は、教会がつぶれるなどという心配はしていなかったのですが、「神さまの計画ってどこにあるのかな」と思い、祈ったことを覚えています。しかし、人の計画の前に、前提として、揺るぐことのない神さまの計画があるということを、今日皆さんにぜひ覚えていただきたいのです。

当時、霊的戦いが突然始まったかのように思っていたのですが、実は、七十年前からその戦いは始まっていたことがわかります。
明先生はこのクリスチャンもいない、田舎である新城で教会を始めました。なぜ、新城だったのかと思います。もちろん、知り合いがいたということや、いろいろな巡り合わせがあるわったと思いますが、何よりも、それは神さまのご計画だったからです。
この因習の深い、伝道が難しいと言われるところで伝道が始まって、本当に戦いは激しかったでしょう。しかし明先生は、「偶像礼拝は罪だ!」と、偶像に立ち向かい、村八分のような状態になりながらも、信仰に堅く立って戦ってきました。そのように、偶像に立ち向かって戦ってきたからこそ、神さまは素晴らしい恵みを与えてくださり、さらに使命を与えてくださったのだと思います。もうすでに霊的戦いの計画書が開かれていたのです。
そのような戦いの中、だんだんとクリスチャンが与えられて、ここからさらに田舎に、多くの若者が聖霊に満たされて伝道に遣わされて出て行きました。これも神さまのご計画でした(このことについては、順先生が詳しくお話しくださっています)。人には明日はわかりませんし、将来もわかりません。しかし、主はご存じです。だから、主のなされることは偶然ではなく、必然なのです。そんな神さまのご計画って、私たちの人知をはるかに超えたところにあるなぁと、皆さんも感じておられるのではないでしょうか。

私はいくつかの事業をしているので、仕事でよく計画書を作成します。私は計画書を作るのが好きです。こうするとこうなって、こうなっていく、などといろいろ考えることが好きなのです。事業を始めるには当然多くの借り入れが必要になります。そのためには銀行に、何枚も何十枚も計画書や申請書を作成して、やっとお金が借りられます。
八年前に老人ホームなどの事業を始める時、また四年前にプレイズの本社を移転する時も、たくさんの計画書を作りました。しかし、人の作った計画書というのは、いろいろなところに不備があり、思い通りにいかないことが多々あり、何度も訂正したりします。しかし、神さまのご計画には一切の落ち度がありません。

キリスト教の最大のミッションは、「人類救済」です。聖書の書き初めの創世記一章一節には、『初めに神が天と地を創造された』とあります。天地を創造され、それを治めさせるために人間を造り、神と親しく、平安のうちに過ごせる楽園を造ってくださいました。しかし、人が一方的に神さまから離れて罪を行ったために、人間と神さまの関係は断絶され、人類は、どんどん罪にまみれ、堕落していきました。
そんな人類を救い出すために、神さまは人々を救うための壮大な計画を立ててくださいました。それが、イエスさまによる救いです。
父なる神は、メシアなるイエスさまをこの地上に送ってくださいました。イエスさまが人類の身代わりとなり、十字架について死なれたことによって、人々を救うという計画を立て、それが実行に移された結果、ただただ神さまのあわれみと恵みによって、今私たちは救われ、永遠のいのちを受け取っているわけです。これこそが、聖書に記されている人類救済の計画書なのです。その計画は、必ず成就し、一つの狂いもありません。そして、皆さんお一人おひとりに、神さまによってつくられた計画書があります。

先日、私は水曜礼拝で、伝道者の書十一章一節の

『「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」』

というみことばからメッセージをしましたが、その後、日曜礼拝で順先生が同じ箇所からメッセージをされました。先生がどんなことを語られるのか興味深く聞いていたのですが、「さすが順先生!」と思いました。私の思いをはるかに超えた解き明かしをされていて、すごく恵まれました。
そのメッセージを聞いて、もう一度『あなたのパンを水の上に投げよ』という意味を考え、調べている時に、一つの参考書が目に留まりました。その中に書かれていたのは、パンを穀物に例えていたのですが、海上貿易するビジネスのようなものだというのです。
当時、大量の荷物を一度に運ぶには、船で輸送するのがいちばんの手段だったのです。でも考えてみますと、現代なら天気予報もよく当たるようになっていて、それを見ればある程度天候を予測することもできますが、そのようなものもなく、また造船技術も発達していませんでしたから、海に出て行くのは、大きなリスクを負う賭けのようなものでした。しかし、そのリスクを恐れずに投資をするならば報いは大きく、多くのものを得ることができる、というようなことが書かれていて、「なるほど」と思いました。今の時代ではあまりピンと来ないかもしれませんが、その時代なら、「確かにそうだろうなぁ。水の上にパンを投げるようなものだなぁ」と思わされました。
またもう一つ、パンを比喩的に、困っている人、悲しんでいる人、いろいろな問題を持っている人と解釈する時、そのような人たちに寄り添い、手を差し伸べるなら、後になってその報いを思いがけない時に受け取ることができる、と書いてあって、「本当にそうだ」とすごく納得しました。「後の日になって、あなたはそれを見出す」という神の国の原則があるわけです。

イエスさまはヨハネの福音書六章四十八節で、『わたしは、いのちのパンです』と宣言しています。私たちクリスチャンは皆、神さまの恵みの中で、あわれみによって救われて、神さまから「いのちのパン」をいただいて持っているのです。そのパンを「水の上に投げよ!」とは、どういうことでしょうか。
日本の福音宣教は、まさに水の上にパンを投げるような働きであるといえます。
皆さん想像してみてください。水の上に投げられたパンは、初めは少し浮いているかもしれませんが、すぐに水を含んで沈んでしまったり、ふやけてバラバラになってなくなってしまったりしますね。投げても投げても何にもならず、一見無駄に思えるような行為かもしれませんが、そのパンによって水の中の生物が養われ、肥やしになることもあります。
同じように、福音宣教も、後になって必ず魂の収穫を見ることができるのです。そのために必要なことは、「投げ続ける」ことなのです。一回投げたらすぐに結果が出るということではなく、投げ続けるということが重要だということです。
一生懸命やっても、祈ってもなかなか結果が出ないという時もあります。むしろそのような時のほうが多いわけですけど、そのような時でも、「ずっと後の日になってそれを見出す」という神さまの原則、神さまのご計画を悟り、待ち臨んで祈り励むなら、必ず、後の日に大きな収穫を得ることができますから、これからもパンを投げ続ける者とさせていただきましょう。

もう一つ、神さまの計画は、神の造られた自然界の法則に則っているということがわかります。マルコによる福音書四章二十六〜二十九節をお読みします。

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

皆さんもよく知っているみことばだと思います。当たり前のことですが、種は、買ってきて袋に入ったままでは芽を出すことはありません。袋から出して、土の中に蒔くと、水や養分を吸い、太陽の光に当たって芽を出し、成長し、実をならせていくわけです。蒔いた種は、いつかどこかで芽を出し、必ず収穫できる。これが神の国の原則です。これも考えてみると、本当に不思議な神さまのご計画だと思います。
収穫といえば、皆さんの中にも家庭菜園をされている方がいると思います。私はズボラな男ですので、何かを育てるなどということとは縁がないのですが、この夏、家庭菜園ではないですけれど、家内が一本のゴーヤーの苗をもらってきて庭に植えたのです(私はあまりゴーヤーが得意ではないので、枯れることを期待していたのですが…笑)。植えただけで、何も手入れすることもなく、ツルが巻き付くようなネットも張ることなくそのままになっていたのですが、数日するとどんどんツルが伸びて、知らないうちに地面に実がなっているのに気がつきました。これはちゃんと上に伸びるようにしないといけないと思い、急きょ簡易的にビニールの紐を張って、ツルを巻きつけました。これがその写真です。
 こんないい加減な張り方でしたが、いつの間にかいくつかのゴーヤーがなりました。私はまったく食べませんでしたが…(笑)。
玄関を出てすぐのところに植えられていたので、「あれ、もうこんなにツルが伸びた」、「実がこんなに大きくなった」と見るたびにその変化に驚かされました。何か野菜でも植えてみようかなと思えるほど、成長の過程を見るのが楽しみでした。一本のゴーヤーから、神さまの原則を見ることができた時であったことを感謝します。
私は今年で六十七歳になりました。人生七十年、八十年、九十年と、年月が長ければ長いほど、良い種も蒔いてきたけども、悪い種も蒔いてきたと思います。しかし、今まで蒔いてきた悪い種は、イエスさまに出会って主の前に悔い改めた時に、主の贖いによって、罪赦され、良い実に変えられ、恵みの中にあるということも事実です。