〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
大きな喜びをお知らせします!

2023年12月3日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルカの福音書 2章8~11節

“さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。”

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。ついに十二月になりました。メリー・クリスマス!
仲一バンドの賛美、良かったですね!歌詞が良かったです。学生にとっての十二月は、悪意のあるスケジュールだそうです。いずれにしても悪意のある世界に私たちは生きておりますが、「喜びの知らせ」はイエスさまです!
今週の土曜日はクリスマスコンサートです。今年は無料ですから、こんなチャンスはありません。ぜひ機会を活かしてください。

今日皆さんに、祈りのカードをお渡しします。導きたい方の名前を書いて一枚はキープして祈り、もう一枚は教会に提出してください。今週、リストに記されている方々のために、毎日、お祈りします。一人ひとりのための祈りが積まれた上で、クリスマスコンサートに参加していただきたいと願っています。音楽も超一流ですし、平岡先生も素晴らしいメッセージを語ってくださいます。ぜひとも楽しみにしていただきたいと思います。

十二月二十五日は、イエスさまの誕生日だとされているのですが、イエスさまの誕生日ではありません。イエスさまの誕生日はいつかについて、昨年も少しお話しさせていただきましたけれど、十二月二十五日ではないのは確実です。なぜなら十二月二十五日は、二世紀から四世紀の間ぐらいだと思われるのですが、ローマ皇帝によって定められた日だからです。
当時、ペルシャの方からミトラ教という太陽を礼拝する人たちが大勢ローマに入ってきました。十二月二十五日は冬至ですが、一年で最も太陽の姿が短いその日、彼らは怪しい火祭りをやっていたようです。それからローマ土着の農耕祭も、冬至近辺にあったらしいのです。さらに当時、クリスチャンが増えていましたから、ローマ皇帝は困ったわけです。
そこで考えたのは、キリストを「光」に例えて、「太陽の復活はキリストの復活」として、前述の異教の祭りをすべて吸収する形で、十二月二十五日をキリストの降誕祭に決めたというのです。
というわけで、クリスマスはイエスさまの誕生とは全く関係のない、むしろ、偶像の神々との関係が強いのが十二月二十五日です。ですから、クリスマス気分に浮かれるだけでなく、霊的戦いの視点が必要なわけです。

ではイエスさまが生まれた日はいつかと言うことです。それは三百六十五日中、どこかであることは確かですから、はっきりと分からないなら、十二月二十五日にお祝いしても差し支えないと思います。その日を、誕生日ではなく、イエスさまのお生まれを「記念する日」として、お祝いすればいいと思うのです。

イエスさまがお生まれになった日は、聖書の中にはっきりとは記されていませんが、ヒントはあります。それはバプテスマのヨハネという人物が、イエスさまより六ヶ月前に生まれたからです。
ヨハネの父はザカリヤという祭司でした。それも、「アビヤの組」というグループの祭司であったと記録されています。アビヤの組のザカリヤが、神殿での奉仕を終えて家に帰った後、奥さんのエリザベツが妊娠したと記録されています。アビヤの組の神殿奉仕は、ユダヤ歴「第四の月」の後半です。その情報を加味すると、第五の月にエリザベツは身ごもったことになります。
そしてマリアが身ごもったのは、

“御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」”(ルカの福音書一章二十八節)

と言って、

“見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。”(ルカの福音書一章三十六節)

と語られています。
ということは、エリザベツが妊娠して六ヶ月目に、マリアは妊娠したことになります。ゆえに、イエスさまの誕生は、ユダヤ暦・第七の月、ティシュレイの月になります。これを太陽暦に直すと「九月から十月」の間に、イエスさまは誕生されたことになります。

九月から十月には、旧約聖書の中で、大変重要な祭りがあります。まず九月には、今年の暦に落とすと、九月二十五日「ヨム・キプール/大贖罪の日」があり、その後、第七の月が始まり、「仮庵の祭り」が始まります。仮庵の祭りとは、イスラエルがエジプトから出て、仮の宿に四十年間宿ったことを忘れないようにという祭りです。なんと、その期間にイエスさまの誕生日が当てはまるわけです。神の子が人の体を「仮の宿」として、三十三年間、宿ってくださったのです。仮庵の祭りの期間中に、イエスさまがお生まれになったとは、すごいと思います。

また、仮庵の祭りその前に行われる「ヨムキプール」は、イエスさまの十字架の贖いを表す祭りです。イエスさまは、預言に従い、地上に来てくださったわけです。
最近、バイブルリーディングの時に、いろいろ解説してくだって、聖書を深く学ぶことができています。旧約聖書は大きく捉えれば「預言の書」です。「救い主がお生まれになります。」という預言が随所にあり、誕生と公生涯、そして十字架が中心にあるのです。新約聖書は、「預言の実現」を記録した書です。旧約聖書だけだと、ユダヤ教になってしまいます。ユダヤ教の人たちは、新約聖書を絶対に認めません。彼らにとっては、私たちが旧約聖書と呼ぶ書がすべてです。
しかしクリスチャンは、旧約聖書の預言を基礎として、イエスさまの誕生と、公生涯、そして十字架による贖い、天地創造から、新天新地の創造に至るという、壮大な神のストーリーを信じています。その理解が重要です。そして、その中心におられるのがイエスさまです。

私たちの救いのためにイエスさまは人として生まれてくださったのですが、新約聖書は、人のためだけではないと告げています。
コロサイ人への手紙一章二十節、

“その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。”

なんと、イエスさまの誕生は、万物との和解の始まりでした。人間の罪によって被造物は神と対立してしまったのですが、十字架の血によって和解したのです。

なぜクリスマスは、大きな喜びなのか、それは人だけでなく、神が造られた被造物全ての和解が成就したからです。
クリスマス、神が造られたすべての被造物にとっても喜びの日です。一般の人たちは「自然」と言いますけれど、自然とは「自ら然り」で進化論が絡んだ言葉です。神さまが造られたすべての被造物が、救い主の誕生を喜ぶのが真のクリスマスです。

現在、イエスさま誕生の地、イスラエルが荒れに荒れています。毎日の報道を見て、心が痛くならない人はいないでしょう。現在、戦場となっている「ガザ」について、「使徒の働き」に、こんな記述があります。

“ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)” 使徒の働き8章26節

これは二千年前の記録です。当時のガザは、見捨てられ、荒れ果てた場所だったわけです。しかし神はそんな土地にピリポを遣わし、超自然的な方法で、エチオピアの宦官を救い、荒れ果てた地に救いのチャンスを与えられたのです。
「このガザは今、荒れ果てている。」・・・この新約聖書の記録が、今や現実に目の前に広っています。昔のように、主が超自然的にガザに訪れてくださるよう、祈る必要があります。

イスラエルに行かれた方は地理的にも分かると思いますが、イエスさまがお生まれになったのは、現在はヨルダン川西岸地区に属する「ベツレヘム」です。トランプ政権から、イスラエルの首都が、テルアビブからエルサレムへと移りました。ベツレヘムは、「ダビデの街」と呼ばれ、エルサレムから数キロの地点の街です。

イスラエルを鳥瞰して見れば、ガザはエルサレムやベツレヘムにも近い位置にあるのがわかります。このガザで現在、激しい戦闘が繰り広げられているわけです。本当に心が痛いです。

日ごろのニュースを見ながら、いろいろな思いがこみ上げてくるのではないかと思います。なぜ、ユダヤ人たちはガザの人たちにひどいことをするのか?と思うかも知れません。
しかし現在のイスラエルと、聖書に出てくるイスラエルの枠組みは、必ずしも、同じではないということも、押さえておく必要があります。
現在の戦争にキリスト教が絡んでいるように報道されます。しかし根本的にはユダヤ教の問題であって、キリスト教の世界観とは違います。それを理解しないと、祈りも間違った方向に行ってしまう危険性があります。

現在、戦争をオペレートしているのはネタニヤフ政権です。内閣を構成している人たちは、ユダヤ教超正統派、右派、さらには、極右政党の人たちによって構成されています。戦争とは、国民の総意ではなく、時の政権が決断し実行するものです。かつての日本もそうでした。太平洋戦争も、極右政権が関わって引き起こされました。
ネタニヤフ政権は、新約聖書は絶対に認めません。彼らにとってイエスは神ではなく、異端者であり、敵です。極右政権は完全なユダヤ教国家を目指しています。彼らは「旧約聖書のみ」を聖典とし、彼らの領土観は、創世記十五章十八節に基づいています。

“その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。”

これはアブラハムに、今から四千年以上前、神が語られた言葉です。神は「エジプトの川から大河ユーフラテス川までを与える」とアブラハムに約束したではないか。だからパレスチナは、我々のものだという主張です。

ネタニヤフ政権は、ナイル川からユーフラテス川、すなわち、エジプト付近から、イラクの近所までが自分たちの領土だと主張をする人たちによる政権です。
「旧約聖書に記されているのだから、クリスチャンにとっても、この記述は重要だ」と主張する人たちもいます。もちろん基本的には重要なみ言葉です。しかし先ほども話しましたが、「預言から実現」という大きな流れを捉えてみ言葉を理解しないと、間違った方向に向かいます。

新約聖書に入ると、土地に関する概念が、旧約時代と大きく変化します。そして、アブラハムに語られた言葉の実現が何か、はっきりとしてくるのです。
新約聖書、使徒の働き一章八節、

“しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」”

「地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあるように、新約時代になって救いの範囲が拡大しています。キリスト教に、この拡大思想がなかったら、日本人である私たちはクリスチャンになれませんでした。
旧約聖書だけの解釈なら、領土内に異教徒たちは入ることはできません。ガザの人たちも、ヨルダン川西岸の人たちも聖絶され、追放されなければなりません。しかし福音は、ユダヤ人たちだけのものではなく、他民族にとっても福音なのです。

さらに新約聖書ヘブル人への手紙を読むと、当時のユダヤ人クリスチャンたちが、「約束の地」をどう解釈していたのか理解できます。

“もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。”(ヘブル人への手紙十一章十五~十六節)

これは当時のクリスチャンたちが、どのような領土観を持っていたのかを表す、重要な記述です。この箇所から、「自分たちの領土は、エジプトの川から大河ユーフラテス川までだ!」という、狭い考え方ではないことがわかります。彼らは、『すなわち天の故郷を夢見ていた』とあります。イエスさまが王となって治める、神の国の実現を、天の故郷と理解していたのです。ただ単なる物理的な領土ではなく、神の国の実現による、新天新地に望みを抱いていたのです。
私たちは、キリスト教徒ですから、この視点が重要です。神は決して、一部の人たちだけが幸せならいい!と言う方ではありません。すべての人たちの祝福を願っておられます。武力ではなく、神による平和な世界の実現を心から願っておられるのです。