大いなる年 2024
主よ。遅れないでください!
昔いまし、今いまし、後に来られる方

2024年3月17日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ヨハネの黙示録 4章8節(新改訳第三版)
“この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」”

 

ハレルヤ!皆さんおはようございます。花粉は症大丈夫でしょうか。花粉症で苦しんでいる方が多くおられますので、いやしをお祈りします。
今日は授産所の兄弟姉妹が四年半ぶりに、来られました。本当に嬉しいです。

本日、導かれている聖書箇所は、ヨハネの黙示録四章八節です。

“この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」”

これは、今この時点で、天で起こっている光景です。神は天地を創造された時、地上だけではなく天にも生物を創造されたみたいです。神のみ座の前に、四つの生き物がいて昼も夜も絶え間なく、叫び、賛美しているのです。この生き物を想像して描いてみるのも楽しそうです。すごい生物ですね。
いずれにしても、神のみ前では被造物全体の賛美が満ちています。「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。神であられる主。万軍の支配者。昔いまし、今いまし、後に来られる方」と賛美されています。
賛美されている方は誰かというと、イエスさまであることがわかります。「昔いまし、今いまし、後に来られる方」と賛美されているからです。
岩波訳聖書では、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主、全能者なる神、かつて在し、現在も在し、またこれから来る者」と訳されています。
イエスさまは、今も生きて「これから来る者」なのです。
イエスさまは歴史的人物で終わったのではありません。これからもう一度、見える姿で来られるのです。
最近、新城教会で導かれている賛美は、「イエスさまが帰って来られる!神の国よ、来たれ!」という賛美が多いです。これはやがて起こることの預言的な賛美です。
現在、世界は混乱しています。解決は、神の国に期待するしかありません。

今月には復活祭があります。暦によると、三月三十一日となっています。しかし復活祭の日程は毎年変わります。けれども曜日だけは変わりません。誕生日とか、誰かが死んだ日がコロコロ変わったらおかしいですが、復活祭の日程は変わるのです。
どうしてかというと、理由があります。復活祭は「春分の日以降、最初の満月から数えて、最初の日曜日」と四世紀に行われた、ニケア公会議でカトリック教会が決めたからです。政治的な理由で、復活の日を日曜日に設定したのです。当時ユダヤ人たちは太陰暦を使っていました。それをローマ帝国の太陽暦に当てはめると、日程が合わず仕事にならないわけです。それで変えられたのです。これは聖書の正しい暦とは違います。

イエスさまが復活したことが歴史的事実ならば、キリスト教を信仰していても問題ありません。しかしもしもこれが作り話で、誰かが加えたストーリーならば、やめた方がいいと思います。騙されていることになりますから。真実ならば、こんなすごいことはないです。

特にマタイの福音書二十七章に記されていることが嘘だったら大嘘です。けれども真実なら、超すごいことです。イエスさまが十字架にかかって、息を渡された瞬間の出来事です。

“すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」”(マタイの福音書 二十七章五十~五十四節)

この記述が歴史的事実ならば、人類にとって大きな希望です。なぜなら、墓が開いて死んだ人たちの体が生き返ったと記録されているからです。イエスさまが復活しただけでなく、旧約時代の人たちが「多くが生き返った」と記録されているからです。
この事が歴史的に起こったのならば、人生は死だけで終わらないという、希望が生まれます。

しかも、この大奇跡が起こった背景に地震がありました。地震によって、岩が裂け、墓が開いて復活が起こったからです。イエスさまに敵対していた、ローマ帝国の兵士たちでさえ、「この方は本当に神の子であった!」と認めたのです。地震は、ただ単なるプレートの沈み込みだけで起こる現象ではなく、霊的世界との関連があるのがわかります。

近年、日本で地震が頻発しています。私が幼い頃、地震は滅多にありませんでした。けれども、甲子園ミッション後、阪神淡路大震災から始まって、地震のオンパレードです。
私はイエスさまが帰ってこられるスケジュールが、次のレベルに達したのではないか?と感じています。
もしかして私たちは、人類史上、いや、被造物史上、最大の光景を目にするのかも知れません。

イエスさまが復活された記念日は、ユダヤ暦によると、過越の祭りの子羊を屠る日に十字架で死なれ、翌日が安息日で「大いなる日」と呼ばれ、復活されたのはユダヤの祭り、「初穂の祭り」の早朝でした。ユダヤ暦を太陽暦に落とし込むと、今年は、三月二十六日火曜日がイエスさまが復活された記念日に当たります。ということは、次週の日曜日(二十四日)は、イエスさまが十字架で死なれた記念日です。
普通その日は、悲しい雰囲気が教会にはあるのですが、聖書の記述は違います。「その死によって悪魔という死の力を持つ者を滅ぼして、一生涯死の恐怖に繋がれて奴隷となっていた人々を解放した」と告げています。
イエスさまは、復活した時に死の力を滅ぼしたのではなく、死なれた瞬間、ご自分の死によって、死の力を滅ぼしたのです。すごいことですよね。
岩波訳で見ると、”つまり悪魔を死を通して滅ぼすため”と訳されています。
通常、「死」は、絶望の極みです。しかしクリスチャンにとって死は、絶望ではなく、イエスさまがご自分の死を通して、悪魔を滅ぼしたように、死は最大の勝利の日であるのです。
イエスさまは初穂の祭の日に「初穂」として復活して下さいました。初穂が出て、その後、どんどん穂が出てくるのが被造世界の法則です。それは、イエスさまの復活に続く人たちがいることを意味します。
先ほど読んだ箇所でも、イエスさまの死によって復活した聖徒たちは、イエスさまが復活して後、墓から出てきたと記されています。「彼らは復活の後」、墓から出て、聖なる都に入って多くの人に現れたと記録されています。聖書の記述は韻を踏んでいて矛盾がありません。

人とは、いつかは死なければならない存在です。
死ぬ瞬間ってどんな感じかな?とよく考えます。家内が亡くなって一年四ヶ月が経ちました。きっと家内も死ぬ瞬間は、海外旅行の出国の列につくようなものだったと思います。
死んだ瞬間、「大勢の人が一瞬にして死ぬもんだなぁ・・」と、お互い、話し合うのかもしれません。死亡原因はいろいろあるかもしれないけれど、皆、出国していくわけです。出国したら、次の国への入国です。家内も出国して行きました。
教会に納骨堂があるのですが、家内の墓標には、「世界一のばぁばでした!孫一同」と記されています。今や新城教会の納骨堂には、二百名ぐらいの遺骨が管理されています。しかしイエスさまが帰って来られたら、全員、復活するのです。
家内は六十七歳で亡くなりました。私はたいへん寂しいですが、一つ大きな慰めがあります。家内は二〇二二年十二月に召天したのですが、その年の九月ぐらいに自分で花を買ってきて、鉢植えにして寝室前のベランダに置きました。その花たちが、家内の召天後も、繰り返し咲き続けているからです。
去年の復活祭の時にも見せましたが、私は手入れしていないですが、今日も、咲いています。

被造世界の中にも、復活が起きるのならば、我々だって被造物の一つですから、復活してもいいのじゃないですか?
「復活?それは信じられん。」と言う人がいますが、花を見たら分かります。最近、この花たちに対して、私は少し責任を感じるようになりました。イエスさまが帰られる日、それは同時に享子さんの復活の日だからです。その日まで、咲き続けるように祈っています。

人は死を悼み儀式を行います。象とかも葬式じみた行動をとるみたいです。しかし人類はすべての人たちが行います。
「死者を弔う」とは、「故人の死を悼み、悲しみ、悔む事」となっていました。死者を弔うことは、全世界共通の感覚です。
ということは、死者を弔こと自体は宗教行事ではありません。人間の本能です。
しかし葬式となると、必ず、宗教が関わります。クリスチャンならば、キリスト教式。仏教ならば仏教式。神道式、無宗教式とか、いろいろあります。「無宗教」も宗教です。何が言えるのかというと、宗教には必ず、「死後の世界観」が関わっているという事です。
葬式を特定の宗教で行うとは、「私の死後は、この道を選択しました。」という宣言なのです。

無神論・唯物論者は、「死後すべてが終わる」という、死後の世界観です。シャボン玉のように大きくなって、「壊れて消えた♪」という考えです。これは寂しいですね。この広い宇宙の中に、どこを探しても享子さんの片鱗さえない!としたら、私はたいへん悲しいです。自分も死んだら、何も残らないとしたら、悲しいです。しかし無宗教での葬式は、「私は消えてもいいです」という宣言です。

仏教の葬式を選択すれば、「輪廻転生して、生まれ変わる」という宣言です。それは六道という、苦しい世界を永遠にぐるぐる回ってもいいです!という、自らの選択であり、宣言です。最近は葬式を気軽に、小さなお葬式・・、みたいな感覚でやっていますが、重大な選択なのです。自分が死後、どの道を選択したのかを参列者と、見えない世界にも宣言しているからです。

他にも、「先祖の霊に加わり憑依する」という考えがあります。仏教徒ならば、先祖の霊もいないし、墓もいりません。なぜなら皆、輪廻しますから。魂がどこかに浮遊していることはあり得ないのです。
日本人は墓を大切にしますから、先祖の霊に加わり憑依するという、儒教の考えを支持しています。仏教は、韓国から流入したのです。だから仏教という箱の中に入っていたのは儒教でした。
家に何か不幸があって「拝んでもらいましょう」となれば、言われることはただ一つ。「先祖が祟っている」です。大切な家族に祟るのですか?そんなの嫌です。先祖はやがて我々の敵となるわけです。
カトリック教会とプロテスタント教会の死後の世界観は全く別物です。どのぐらい違うのかについて知っていただきたいです。カトリック教会は「カトリック教徒は死後、煉獄に入り、何万年も罪滅ぼしをする」というものです。これがカトリック教会の死後です。直接、天国には入れないのです。
カトリック教徒は天国に行く前に、まずは煉獄に行くと言います。そこは地獄の火と同じ火が燃えているそうです。まずはそこで苦しんで、罪滅ぼしをするというのです。そこでポイントを稼ぐと、天国に入れるかもしれないらしいです。楽天ポイントと同じようなものです。
ゆえにカトリック教会の葬式には慰めも、励ましもないのです。なぜなら死者は、煉獄に行って苦しむからです。何万年も、いや、何百万年という噂もあります。そんなに長く苦しんで、苦しんで、やがて脱獄できるかもしれない・・・。それがカトリックの教えであり、公式教理です。
しかし私たちはクリスチャンはどうでしょうか。直接、神の国に入り、家族とともに、幸せに永遠に暮らすのです。これはプロテスタント教会の教えどころか、「聖書そのもの」です。

「死後の世界を一つ選んでください」と言われたらどうしますか?ひねくれていなければ、五番目を選びますよね。
それを証明するために、イエスさまは一度死なれ、後に復活してくださったのです。また、神に仕えた死んだ聖徒たちも復活させて下さったのです。
人は必ず宗教に関わります。文化、習慣ではなく、慎重な選択が必要です。誰でも迎えなければならない死と後の世界に対して、何を選択すべきかをはっきりと納得の上で、決めないといけないのです。