神の臨在は祝福をもたらす

2023年9月3日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド

歴代誌 第一 13章14節
『神の箱は、オベデ・エドムの一家とともに、彼の家に三か月とどまった。主は、オベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。』

ハレルヤ!感謝します。いつも私たちのために祈ってくださり、心から感謝します。実は先月の十三日は私のメッセージする番でしたが、ちょうどその週に奧さんが病気になってメッセージができず、雅也先生が代わってくれて本当に感謝でした。今日は問題ないですので、メッセージをします。では、メッセージにいきましょう。

信弘先生がおっしゃった通り、今日のメッセージのテーマは「神の臨在は祝福をもたらす」というテーマです。
六月の末に陽介先生がとても素晴らしいメッセージをされました。それは私にとってとても祝福となりました。しかし今日、私のメッセージは、陽介先生の用いたほぼ同じ聖書箇所から異なることに焦点を当ててお話ししたいと思います。

今日の私のメッセージですが、ダビデの歴史と共に見ていきたいと思います。サウル王はすでに死に、ダビデはまさに王座を手に入れるときでした。ダビデは力と恵みに満ちており、その何年か前に、すでに神はダビデに油を注いで、次の王になるようにされていました。サウルは神に敵対し、その故に力を失い、恵みを失い、最終的にはうつ状態になりました。最後には、彼は戦いの中で自ら命を絶つように亡くなりました。こうしてダビデは主役として現れたのです。
ダビデはサウルとは全く異なる人物でした。小さい時から神の臨在を求め、愛した人でした。神への詩篇を書き、賛美する者として知られていました。竪琴と歌によって、わざわいの霊によって苦しめられていたサウル王を解放するために用いられました。ダビデは熱心に神のみこころを求める人でした。

その当時、この話の中で、ダビデは戦いの中にありました。辺境地を征服し、イスラエルの辺境からペリシテ人を追い出し、王座に就く直前でした。彼には心に大きな望みがありました。それはエルサレムへ神の箱を戻すことでした。その神の箱はもう何十年も忘れられていた存在でした。そして彼はこう言いました。第一歴代誌十三章三節(新改訳2017)、

『私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」』

サウルはこの神の箱を放っておきました。ペリシテ人がいくさの中でこれを持ち去ったのですが、サウルは全く気にしませんでした。
ダビデはその逆でした。神の臨在を愛する彼は、その神の箱を探し出し、取り返してきました。そして、このお話になるのです。
ここでは、ダビデは兵士の長やリーダーを呼び集め、神の箱をエルサレムに持ち帰ることが重要であると彼らに説きました。

ダビデは良い意図をもって、アビダナブの家の長に指示を与えました。その家は長く神の箱を預かっていました。その二人の息子であるウザとアヒヨが、神の箱を牛車に乗せ運び出しました。彼らはペリシテ人たちを見て同じようにしたのです。
ペリシテ人が何年も神の箱を運んでいた方法で、牛車に乗せて運ぼうとしたのです。しかしそれによって、ダビデは恐ろしい体験をすることになります。第一歴代誌十三章九〜十節(新改訳2017)、

『彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押さえた。牛がよろめいたからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱の上に伸ばしたからである。彼はその場で、神の前で死んだ。』

それは神に対する不敬のために、閃光が発せられたかのような一瞬の出来事でした。神さまの臨在を表す神の箱に対する敬意の欠如が原因でした。閃光が天から下り、その行列の歩みが止められました。計画は立ち消え、ダビデは怒りと悲しみに満たされて家に帰りました。「なぜ神は裁かれたのか、私は良い意図をもって行ったのに。」と疑問を持ちながら帰りました。

そして三ヵ月後、ダビデは原因を見つけます。それは神の臨在を表す神の箱を、律法が命じるようにではなく、ペリシテ人たちの運び方を模倣して牛車の上に乗せて運ぼうとしたからです。すなわち神に油注がれ、その名誉ある仕事のために身をきよめたレビ人の肩によって担がれる方法ではなかったからです。そのためには身をきよめる必要があったわけです。

しかし今日はそれよりももっと深くみことばを学びたいと思います。このお話から、神の臨在を受けるために私たちがどのように準備すべきか、ということに注目したいと思います。また、私たちすべての人に訪れようとしてくださる神の臨在を、どのように迎えるべきか、ということに注目したいと思います。
なぜなら、あなたや私のやり方によっては、私たちがいくら神と良い関係を築きたいと思っていても、神の臨在がもたらす祝福を受けられるかもしれないし、失うかもしれないからです。
サウルは神の箱の存在をすっかり忘れていました。しかしダビデはそれを持ち帰りたかったのです。しかし本来すべき扱いを、注意深く行いませんでした。そして三か月間、王ダビデは神を求めて泣き、律法を調べ、「どうしたら神の箱を、主よ、あなたの臨在を、私の民のところへ戻せるのでしょうか」と悩みました。

そこでここに、今日私がお話ししたいと思っている、無名な人物が出てきます。この人は神の臨在によって祝福を受けた人でした。ダビデがどのように神の箱、神の臨在を持ってこようかと思案している間にこの人が現れました。第一歴代誌十三章十四節(新改訳2017)にこうあります。

『神の箱は、オベデ・エドムの一家とともに、彼の家に三か月とどまった。主は、オベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。』

ここで話題に上がっている人物はミステリアスな人物です。この箇所より前には聖書に出てきません。オベデ・エドムという人物です。この名前から、エドムの出身であると推測されます。おそらくエドムから来たか、もしくはそこで生まれた人物であると思われます。そして他の箇所では、「ガテ人」と書いてあるので、ガテにも由来する人物であると分かります。そこはまたペリシテ人の町であった可能性があります。
ということは、この人物はおそらくイスラエル人ではなく、イスラエルと関係のない、神がイスラエルの民と交わした契約とも関係のない人物であったと思われます。しかしウザに起きた災いを受けて、神の箱を強制的に引き取ることになった人でした。
これがポイントです。ダビデは神の箱を運びたかったのですが、できませんでした。それは注意不足から起こったことでした。しかしオベデ・エドムは自分からではなく、神の箱を自分の家に迎えるよう強いられました。この危険な宝を受け取るしかなかったのです。この神の箱はペリシテ人の地を巡って、恐ろしい破壊をその街々でおこなっていました。ペリシテ人の街で、中に何が入っているかと不敬を働いてふたを開けようとした街の住人すべてが死ななければならなかったのです。その箱を彼は受け取るしかなかったのです。
ペリシテ人たちはイスラエルの神がこの箱の中に入っていると思っていました。なぜなら荒野でこの神の箱に起こったことが間違って伝えられていたからです。イスラエルの民をモーセが導いていた時、神は木で箱を作るように命じられました。それに金をかぶせ、その箱の上にケルビムを表したものを置きます。そしてその箱の中には律法の書を収めなさいと言われました。そしてパンであるマナ、アロンの杖などが収められていました。
それは最も神聖な装置であり、それ自体を礼拝するものではありませんでした。至聖所にそれを置いて、その装置を置くことによって、神はモーセと会い、彼に指示を出す、そういう役割があったものです。

ペリシテ人たちは、この神の箱を望んだために死にました。そして今イスラエル人はこの神の箱をどうするべきか分かりませんでした。そんな時、オベデ・エドムが強制的にそれを自分の家に引き受けなくてはならなくなりました。
しかし時が進むと奇妙なことに、このオベデ・エドムは外国人であり、そして真の神さまのことを知らなかったのにも関わらず、神さまとのつながりができるようになります。神の臨在との関係性が生まれていくのです。その臨在が彼を祝福していきます。それもはっきりわかる形で!
はっきりと彼やその子どもたち、またその家全体が、彼の所有物が祝福されていきます!これは歴代誌ではない箇所にも書かれています。第二サムエル記六章十二節前半(新改訳2017)、

『「主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。』

この三ヵ月の間に大きく変わったのです!とても貧乏であったのが裕福になったということかもしれませんし、おそらく絶望の中にいたところを神に希望を見出したのかもしれませんし、平凡だった家族が劇的に変わったということが起こりました。
オベデ・エドムが実際何をしたかわかりません。ペリシテ人たちはその神の箱に殺されましたが、奇妙なことにオベデ・エドムは神さまに祝福されたのです!

私はこう思います。彼が神の箱にとった態度というのは、神の箱に表された危険と麗しさを前にかしこまった態度でした。聖書には、『神を敬う者は神に誉を受ける』とあります。ですからこの神の箱が行くところにいる人や家族が、正しい方法で神との関係を構築するということを知っていたなら、神さまはその人たちを祝福します。それがオベデ・エドムに起こったことでした。

ここで少し話を止めたいと思います。ここがメッセージの中心ですから。オベデ・エドムとその家全体が明白な形で祝福を受けました。明白な形で彼の人生は繁栄しました。そしていろいろな箇所でこの人物について語られています。特に神は多くの子どもや孫を彼に与え祝福しました。中東に住む人にとってこれははっきりとした祝福の一つです。多くの家族がいること、多くの子どもがいることが祝福でした。
しかしその他にも、神は彼を祝福しました。彼の家にあったすべてのものを神は祝福されました。それは次の事を私たちに伝えています。何年も後になって、他国の王たちがイスラエルを侵略するときに、神の箱を守っていた間にオベデ・エドムに与えられ管理していた宝を持ち去ったと書いてあります。これはすごいことです!神の祝福は、敵が持ち去るくらいの宝を彼に与えていたということです。

このことに私は考えさせられました。神が入ってこられた場所は、神の祝福も一緒に入るということです。神が入ってこられると、その臨在も入ってこられます!神がどのように働かれるかを理解するなら、どのようにあなたの人生をあなたが管理するのがみ心かを理解するなら、神はあなたの人生を祝福し繫栄させます!
他の言い方をすると、敵が入るところには、敵が支配しているところには、廃墟になります。呪いがあります。豊かになるために敵の力を求める人は、その人自身や、その子どもたちに貧困を招きます。病気や死や大災害、呪いなどの不幸を引き寄せ終わります。しかし神が入る場所には祝福があります!
この違いは、人が神を信じるときに起こります。生活を正し、優先順位を守り、時間の管理をきちんとし、家族に対しても正しくするなら、神の祝福をその人の人生の中に見ることができます!

神の祝福はオベデ・エドムのところまで届きました!彼は神の臨在を愛する人となったのです!神の臨在に対して敬意を払い、神の臨在に対して真剣に取り組んだのです。それによって神はオベデ・エドムのところに届きました。
このことがあまりにもはっきりした事実だったので、ダビデのもとにその知らせが届きました。「神がオベデ・エドムとその家族を祝福された」と知らされました。
そこでたぶんダビデはこう言ったでしょう。「私はその祝福をもらい損なっている。私も祝福されたい。私もイスラエルに神の臨在が欲しい。」と。そこで彼はレビ人たちを集め、そして神のみことばを教えました。それは素晴らしいことでした。第一歴代誌十五章十二〜十五節(新改訳2017)、