主の使命を全うする

2023年5月28日(日)新城教会牧師 岡本信弘

マルコの福音書 12章28〜31節
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美いたします。
今、素晴らしいピアノの演奏を聴いて、日々忙しい生活を送っている私にとっては穏やかな、心洗われるような時でした。心から感謝します。

新年度が始まり二カ月が過ぎようとしています。コロナも五類になり、皆さんの生活も落ち着きつつあると思いますが、皆さん、お元気でしょうか。
実は私は、四~五月の初めにかけて、少し調子を崩していました。仕事には支障がなかったのですが、午後になると少し頭が痛くなり、夜に三十七・三度くらいの微熱が出るという状態が三週間くらい続いていました。それもようやくよくなりました。年齢のせいかとも思うのですが、今までこのようなことがあまりなかったので、あらためて健康であること、そして皆さんのお祈りに支えられていることを心から感謝しました。

四月の初めのことですが、娘が沖縄に引っ越すという報告をしました。その時に順先生が、「信弘先生は沖縄に追いかけて行ってしまうかもしれませんね」とおっしゃったことで、何人かの方から、「先生はいつ沖縄に引っ越しするんですか?」と聞かれました(笑)。将来、隠居生活になったら沖縄生活もいいかもと思っていますが、まだプレイズには多額の借り入れがあり、仕事もたくさんありますので、今は行く気もありませんし行けないと思っています。まだまだここにいさせていただきますので、よろしくお願いします。

四月九日は復活祭の日で、この教会でも特別礼拝が行われましたが、私は、久しぶりに和歌山県の橋本教会(平岡先生の息子さんである新人先生が主任牧師をされている)にお招きをいただき、朝六時頃に夏目洋平兄と一緒に出掛けて行きました。昼に刺身を切ってほしいと頼まれていたので、こちらから持っていった魚を、礼拝前にある程度準備しておきました。
そして礼拝でメッセージをさせていただいたのですが、その前に新人先生が、「岡本先生は、牧師としてもビジネスマンとしても超一流の二刀流です」と紹介してくださいました。私はその時にあえて、「今日の私は、三刀流です」と言いました。午前は牧師として礼拝でメッセージを語らせていただき、メッセージが終わってすぐに講壇から下りて、十二時からの食事会のために隣の教育館で刺身を切って、一時からビジネスセミナーをすることになっていたからです。どれも一流には程遠いですが、「三刀流です!」という言葉が皆さんの笑いを誘いました(笑)。
その日は本当に忙しい一日でした。新城教会でも時々刺身を切らせていただきますが、それは私にとっては昔とった杵柄で、本業ではありません。午後のセミナーはもちろん主の働きの一部ですが、私の経験談とでもいうものなので、使命というほどのものではないと思います。しかし礼拝でメッセージを語ることは、主に仕える者としての重要な、神さまに与えられた私の使命なのかなぁと、振り返ることができました。
そんなことを考え祈っているなかで、『主の使命を全うする』というテーマが与えられましたので、皆さんと学んでいきたいと思います。

その前に、今日は何の日かご存じですか。五月二十八日、私の誕生日ではありません。今年は今日がペンテコステの日です。クリスチャンはペンテコステについて、知っておく必要があると思います。
ペンテコステ(ラテン語)は、聖霊降臨日(聖霊が人々に臨まれた日)のことです。使途の働き二章では、復活したイエスさまが弟子たちに、「近いうちに聖霊が降る」ことを告げて天に昇られ、それから十日後、集まって祈っていた信徒たちに聖霊が臨み、皆が他国の言葉で話し出し、聖霊に満たされたと記されています。そこから世界宣教が進んでいったという大きな転機の日であり、同時に、ここから教会がスタートして今に至っているという、教会誕生の日でもあります。この日がなかったら今の教会の存在はなかったかもしれません。そんなことを思いながら今日のみことばを準備しました。

さて、「使命」という言葉を、皆さんは普段使いますか? 辞書で調べるとこうあります。
㈠ 使者として受けた重要な命令。使者としての務め。「特別な使命を帯びる」
㈡ 与えられた重大な務め。責任をもって果たさなければならない任務
例えば、会社で使命を果たせと言われたらどうでしょう。ここでいう使命とは単なる仕事の依頼ではなく、会社の存続にかかわるような重大な責任を負うことを意味します。私たちクリスチャンにとっての使命とは、神さまから託された重要な命令を遂行することではないでしょうか。
今から三十年前に行われた全日本甲子園リバイバルミッションで、私は明先生から大会の財務運営を任せられました。やってほしいと言われた当初は何も考えずに、「わかりました」と軽く答えました。しかし、いざ関西の先生方の集まりの中で、「今回の大会の財務運営を、ここにいる岡本に任せたいと思います」と明先生が私を紹介してくださった時、そこにいた多くの先生方の目が「こんな若造にできるのか」とでも言っているかのように思え、これは大変なことになった。重要な使命を任せられたのだ、と感じました。
今日は初めにお読みしたみことばから、二つの命令について学ぶのですが、その一つ目が後半の三十節にあります。

『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

神さまを知らない人にこの言葉を言ったら、「いきなり、そんなことを言われても」と思う人がいるかもしれません。

少し話は変わりますが、ここには結婚している人が多くおられます。結婚して長年たつ方もいると思いますが、当時のことを皆さんは覚えていますか? 何と言ってプロポーズしましたか? 今の若い人たちは、いろいろ工夫してサプライズを計画してプロポーズする方もいらっしゃると思うのですが、私はたぶんプロポーズらしいことはしなかったと思います。昔のことはほとんど忘れているので、真実は分かりませんが…。
ただ、私が家内を好きで好きでたまらない!と、祈り始めて結婚に至ったことは確かです。初めは一方的な思いであっても、片思いのままで結婚にたどり着くことはないと思います。お互いが受け入れ合って愛し合って、結婚に導かれるわけです(ずいぶん昔には、相手の顔を結婚式当日に知る、といったことがあったと聞きますが…)。神さまとの関係も、同じだと思います。
先々週、望さんが語ってくださったエレミヤ書三十一章三節にこうあります。

『主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』

私たちが神さまを知らなかった時から、どんな状況の中であっても、主は永遠の愛をもって私たちを愛してくださっているという、素晴らしいみことばですね。
皆さんがクリスチャンになった時のことを振り返ってみてください。最初は、神さまの愛を知らないだけでなく、背を向けていたような者だったと思います。そんな中で、友人を通して、また直接みことばをもって、神さまからの熱烈なラブコールを受けて、私たちはイエスさまを信じる者となりました。しかし、多くの人はそれを受け取ることができていません。
この教会には今まで何千、何万という人がコンサートや伝道会に来られましたが、続けてこられているのはその中のわずかです。聖書に、『いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです』(マタイの福音書七章十四節)とあるとおりです。皆さんは、信仰によって、狭いけれど、確実にいのちに至る門を見つけ、神さまからの愛を受け取ったからこそ今ここにいるわけです。他の教会から来られた方も同様だと思います。
では「神さまを愛する」とはどういうことでしょうか。皆さんは、「イエスさまを愛していますか?」と問われたら、「熱烈に愛しています!」と答えられますか? 愛することについて、次のようなみことばがあります。

『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』(ヨハネの手紙第一 四章十六節)
『私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。』(同十九節)

これほどまでに神さまから愛され、選ばれたあなたには、それだけの目的があり使命があるということです。
先ほどの三十節のみことばに、『主を愛せよ』とあります。では、具体的に何をすることでしょうか。
私たちは祈る時、「愛するイエスさま」と言いますが、あなたは配偶者に「愛しているよ」と言いますか? 夫婦だったら「愛してると言うのは、簡単ですよね」と、ある方に言ったところ、「簡単じゃないですよ!」と言われました。私は家内に「愛してるよ」と、簡単に言います。いい加減な気持ちではありませんよ(笑)。
愛していると言うか言わないかはともかく、夫婦や親子であれば、相手にできるなら何でもしてあげたいという気持ちがあると思います。これが愛を表すということではないでしょうか。イエスさまに対しても同じです。皆さん、愛するイエスさまのために、できることなら何でもしたい、お返ししたいと思っていますね。これがまず主への献身であり、イエスさまを愛するということだと思います。
そんな主への献身の姿勢を考えていたときに、一つのみことばが浮かびました。ダビデが、戦いの最中に言った独り言に対する勇士たちのことです。

『ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。』(第二サムエル記二十三章十五~十七節)

水を飲みたいと言った主人に喜んでもらいたいと願い、三勇士はいのちがけで水を汲みに行きました。普通に考えたら、そんなことしても無駄じゃないかと思うことかもしれません。ダビデは、三勇士が危険を冒してまで汲んできたことに感動し、その水を「彼らのいのちの血だ」と言って飲むことをせず、神にささげたと書いてあります。三勇士の行動、これこそが、主が私たちに求めている姿ではないでしょうか。
いのちがけで、無謀なことをしなさいという意味ではありません。実際に何かができているとか、できていないとかではなく、神さまに対して、私たちがどのような思い、姿勢を持っているのかを、主は見ておられるのではないでしょうか。
では、今私たちが主のためにできることは何か、主が私たちに望んでいる献身とは何かについて、考えてみたいと思います。

一昨日(二十六日)、私は東京に行ってきました。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、尾山令仁先生の召天式に参列するためでした。九十六歳でしたが、亡くなる数日前までお元気で、礼拝メッセージを語っておられたそうです。
先生は「生涯百二十歳まで現役!」と言っておられ、常に伝道者として働いてこられた方でした。神学的にも優れた方で、多くの書籍を執筆され、皆さんが読んでいる新改訳聖書編纂にかかわり、ご自分でも聖書全部を翻訳されて『現代訳聖書』を発行しておられます。「頭の構造はどうなっているのかなぁ、すごいなぁ。秀才中の秀才だ」と思いますが、物腰のやわらかい方で、静かにお話しされる先生でしたが、霊的にはとても熱い方で、リバイバルミッションのためにもいつもお祈りくださり、多くの献金をしてくださいました。一九九八年の東京リバイバルミッションでは大会実行委員長もしてくださり、共に戦った同志でもありました。
私はその召天式に出席している中で、尾山先生と明先生に共通しているところがあるなぁと思いました。お二人とも、人の意見に左右されることなく、ただ主を見上げて前に進み、それぞれに与えられた主からの使命を、いのちがけで全うされた方たちだったと。私もそのような人生を送ることができたらと思わされました。