とどまるな!前進せよ

2023年12月31日(日)新城教会牧師 上條実

イザヤ38章1節~5節
“そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、言った。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。そのとき、イザヤに次のような【主】のことばがあった。「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も 見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。”

ハレルヤ!みことばを語る前にまずお祈りさせていただきます。
愛する天のお父さま、こうして今日、二〇二三年の最後の礼拝を迎えることができたことを感謝します。あなたはこの年、新城教会に語ってくださった約束は、希望の年であることを感謝します。そして私たちに素晴らしい祝福をくださったことを感謝します。様々なことがありました。しかし、すべてあなたが良きに導いてくださっていることを心から感謝します。すべて栄光をお返しします。今日、この小さきものがみことばを語る中で、全て主の聖なる名だけがあがめられますようにお願いします。尊い主イエス・キリストさまの名によってお祈りします。アーメン。

今日こうして私が二〇二三年の最後の礼拝にて、みことばを語ることができますことを心から感謝します。先週はクリスマス礼拝でした。イエスさまの誕生を喜んで、礼拝することができました。しかし一週間が過ぎて、今日は十二月三十一日ということで、年末を迎える事となりました。先日我が家で一人でいた時に、窓ガラスを見て、汚くて、掃除しなくてはと思いました。先週まではクリスマスモードでしたが、知らないうちに大掃除しなくてはというモードになっていました。自分が知らない間に年末モードになってしまっていることに気づき、悔い改めました。皆さんはいかがですか?
なんで日本人は年末に大掃除をするかご存知ですか?掃除をすることは悪くないのですが、年の終わりだから、大掃除をするのが当たり前と思っていませんか?なぜ年末に大掃除をするようになったのでしょう? そのルーツ。大掃除の由来・意味をひも解くと大掃除のルーツは「煤払い(すすはらい)」と言われています。昔は家の中に囲炉裏やかまどがあり、家の中が煤(すす)だらけになったため、煤を払うことが掃除をすることの象徴でもありました。また、払うという言葉には、清めるという意味があります。それは、煤払いというのは単なる掃除ではなく、新年を司る年神を迎えるための行事だったからです。
そもそも、正月行事というのは、新年を司る年神を迎えるために成立すると言われています。年神は、農耕神であり祖霊神でもあると考えられています。家にやってきて新年に生きる力などを授けてくれると言われています。そのため年神を迎える前に家中を清めるというわけです。知らない間にクリスチャンになっても神道的な考えに支配されてしまっています。床の間、居間、神棚、仏壇はもちろんのこと、とくに念入りに掃除したのが、台所です。台所というのは、家族が生きていくために欠かせない料理を作る場ですから、台所を汚くしていると生命力も落ちやすく、その家の運も逃げてしまうと考えられているからです。台所には、かまどの神(荒神)がいるともいわれています。先ほども主の祈りをささげました。その中で『我らの日用の糧を今日も与えたまえ。』と祈りました。毎日何気なく食事をしていますが、私たちの救い主であるイエスキリストが『日用の糧』を与えて下さっています。しかし知らず知らずの間に年末になると神道的モードになってしまっています。私たちの神はイエスキリストであると信じ、年末年始に働く暗闇の力が打ち破られるように、祈らなくてはなりません。
私はそのようなことを教えられ、思考の中にだまされて神道的なものが、埋め込まれていること悔い改め、逆に教会や地域に働く暗闇の力が打ち破られるように、霊的な掃除をしなくてはいけないと思って、昨日は新城市を回って年末行事に働く悪しき力が打ち破られるように祈らせて頂きました。クリスマスとは、イエスキリストが生まれて下さった事を記念とする日です。お母さん方が赤ちゃんを出産する時、臨月までお祝いして、クリスマスが過ぎると、皆、神道的の考えに代わってしまう。生まれたら「おめでとう」もなく、無関心という感になってしまっています。私たちはお母さんが命を懸けて生んでくださった子どもを見て、お祝いしませんか?赤ちゃんを見て「おめでとう。」と祝い、その子ども成長を見届けるわけです。もう一度この年末「私の救い主はイエスキリストである。」と宣言して行く必要があると思わされました。そんな中でみことばで、マタイの福音書一章二十三節、

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)”

私たちの主はいつもと共におられるということを、しっかりと土台を据えていきたいと思います。

またマタイの福音書二十八章二十節に、

『また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ここに「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。私たちの神は今も、世の終わりまでともにいて下さる神である。ということを信じていきたいと思います。

今回、何を語らなければいけないかと主に祈っていた時に、クリスマスの少し前でしたが、朝起きた時に、神さまが私に語って下さいました。それは今日のメッセージタイトルにさせて頂いたことばですが、「とどまるな!前進せよ。」という声を神さまから聞いたような気がしました。そのことばから様々な事を教えられましたので、ともに学んでいきたいと思います。

先ほど読んでいただきましたイザヤ書三十八章一〜五節の所から学んでいきたいと思います。その中で特に二節だけをお読みしたいと思います。

『そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、』

このみことばが私の心にとどまりました。ここにヒゼキヤは「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、」とあります。
ヒゼキヤは、紀元前740年頃から 紀元前687年頃に生きた、南ユダ王国の第十三代の王様です。ヒゼキヤはイスラエルの神、いつも主に信頼していました。 イザヤ三八章一節

『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」』

「そのころ」とは、エルサレムがアッシリアに取り囲まれていたころのことです。ヒゼキヤは、神さまをいつも信頼していました。しかしヒゼキヤは病気になって死にかかっていたとあります。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と言われてしまいました。

ヒゼキヤというのは人格者であって、神に頼っていて素晴らしい王様でした。しかしにっちもさっちもいかない状況下にありました。そんな時、ヒゼキヤは壁に向かって祈ったというのです。壁である病とアッシリアとの戦いに向かって涙ながらに祈ったというのです。
ここで「壁に向かって祈り、大声で泣いた」とありますが、問題に正面向かって、必死に祈ったのです。三節

『そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、言った。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。』

ヒゼキヤは主の前に、泣いて訴えたのです。「自分はここまであなたに仕えてきたではないですか!今まで主のためにやってきたではないですか!どうか助けてください、現状から解放してください。」と必死で祈ったのです。
私の中では家内の病気と介護で苦しい現状であります。今まで主に仕えて来たけど、なんで家内が病気になったんだろう。自分の中に罪があるのか?もっと、とりなしの祈りをしなければいけないのか? もっと主のために奉仕しなければいけないのか?など自問自答しながら、苦しい毎日でした。
そんな中で悪魔は私の心の中に、「そうだ、おまえはもっと祈らないからだ。もっと戦わないからだ。」と囁き、昔犯した罪を思い出させ、「その罪の結果だ」と十字架の血潮によって罪が赦されることを否定してきます。罪は赦されたのに罪があるからだと攻めてきます。そんな絶望の中にいた自分でしたが、先週のクリスマスのみことばによってすごく励まされました。滝元順牧師から「絶望からの希望」というタイトルで励まされました。
イエスさまがこの地上に来てくださった目的は何か、それは人が本来持っている機能を正しく回復するためでもあるのです。聖書の中に

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

とイザヤ四十三章四節で語って下さっている。「わたし」とは、イエスさまのこと、神さまのことです。「あなた」とは、私たちです。神が人を愛してくださっているというのです。聖書に描かれている神さまは、苦しめる存在ではなくて、愛してくださる存在です。日本人にとって神は害を加えるのではないかと考える傾向がありますが、愛してくださるお方。イエスさまは神でしたが、地上に来てくださいました。それは人間の、「すべてのものを支配するように」被造物の管理人という、人に与えられた機能とも関連しています。人間が正しく機能しないと、他の被造物もおかしな方向に行ってしまうからです。人間を愛し、人間を助けるために、人間の姿をとって、神が地上に来てくださった。と語られました。亡くなられた享子さんが昨年の秋、自分で花を買ってきて鉢に植えて、毎朝声をかけて大切に育てていた鉢植え、しかしその後無残にも枯れてしまいました。しかしそれが後に芽を出し、再生して花を咲かせたのです。その後何度も枯れましたが、四度目の記録更新です。主が天使を送って、特別、この花たちを祝福しておられるかのようです。と話しておられました。私はとても励まされました。「絶望からの希望」の主だと語られ、励まされました。

ヒゼキヤは主の前に、大声で泣きながら訴えたのです。「自分はここまであなたに仕えてきたではないですか!今まで主のためにやってきたではないですか!どうか助けてください現状から解放してください。」と必死祈ったのです。ここを読んだとき、この状況とは比べることが出来ないかもしれませんが、私と家族の中に苦しい問題があります。それは家内の病気と介護です。私も何もできていないかもしれませんが、今まで主に仕えて来ました。しかしなんで家内が病気になったんだろう?自分に罪があるのではないか?いやもっと、祈らなくてはいけないのか? いや、もっと主のために奉仕しなければいけないのか?など、自分に対して主への自問自答をしながら、答えの出ない苦しい毎日を過ごしてきました。
すると暗闇の力は私の心に、ネガティブな思いを起こさせてきます。「そうだ、おまえはもっと祈らないからだ。」「もっと戦わないからだ。」など思わせてきたり、主に悔い改めた、昔犯した罪を思い出させて、「その罪の結果だ」とか、十字架の血潮によって罪が赦されること、十字架を否定してきます。そんな中で暗い思いを持っていた私に、先週のクリスマス礼拝でのメッセージでとても励まされました。滝元順牧師から「絶望からの希望」というタイトルで語られました。
『イエスさまがこの地上に来てくださった目的は何か、それは人が本来持っている機能を正しく回復するためでもあるのです。聖書の中に