とどまるな!前進せよ

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

とイザヤ四十三章四節で語って下さっている。「わたし」とは、イエスさまのこと、「あなた」とは、私たちです。神が私を高価で尊い存在だと言って下さっている。聖書に描かれている神さまは、苦しめる存在ではなく、愛してくださる存在なのです。日本人にとって神は害を加えるのではないかと考える傾向がありますが、愛してくださるお方。イエスさまは神でしたが、地上に来てくださいました。それは人間が、「すべてのものを支配するよう」にと、被造物の管理人という、人に与えられた機能とも関連しています。人間が正しく機能しないと、他の被造物もおかしな方向に行ってしまうからです。人間を愛し、人間を助けるために、人間の姿をとって、神が地上に来てくださった。と語られました。昨年亡くなられた奥様の享子さんが昨年の秋、自分で花を買ってきて鉢に植えて、毎朝声をかけて大切に育てていた鉢植えがありました。しかしその後無残にも枯れてしまいました。しかしそれが後に芽を出し、再生して花を咲かせたのです。またその後、何度も枯れましたが、主が天使を送って、特別、この花たちを祝福しておられるかのように再生して花が咲いたのです。』と話しておられました。私はとても励まされました。

日本人がクリスチャンになると、神は害を加えるのではないかと考える傾向があると語られたが、まさに自分だ!そして無残にも枯れてしまった鉢植えが再生し、見事また綺麗な花を咲かしている。再生した花の事を聞き、そうだ私の信じている神は「絶望からの希望」を与えて下さる神であると、とても励まされた素晴らしいメッセージでした。

お祈り祈っていただいている家内ですけれども、前回ここでメッセージを語った時は、東京にある病院に入院することができたということをお話ししましたが、その病院に入院する時に、「ここの病院は全国から多くの方々が集まる病院なので、最高三ヶ月間しか入院は出来ません。」と言われて、入院させたのですが、なんと二ヶ月間が経った時に、「奥さんの治療をすることはもうありません。」と言われて、早く退院してくださいと言われてしまいました。私はなんとがもっと入院させてくださいと言って、延ばしに延ばしてやっと七十日間ぐらいで、退院させられてしまいました。
私は家内のために毎日介護させてもらって約十年ぐらいたちます。はじめは要介護認定二でしたが、今は要介護五になってしまいました。その間、私は祈ってきました。しかし祈っても、どんどん悪くなってしまって、自分の中で、期待してイエスさまの癒しを求めていますけれども、しかし期待に反して悪化し、苦しくてたまらない状況になってしまいました。
退院後家内は今、となり市にある医療型の施設に入居させました。そして日曜日には、新城教会の礼拝をリモートで見れるようにお願いし、今日も礼拝を見ています。家内が元気な時、子どもが大きくなったら、こんなことしようと様々な夢を話した事があります。私と一緒に主のために働いていきたい。一緒に家庭訪問や家庭集会について行きたいなど話しました。しかし、今はそれができません。とても寂しい思いがあります。正直私はもっと介護できたのではないか?もっと一緒に過ごす事ができたのではないか?彼女のためにもっと良い治療があったのではないかなど考え、自分を責めたりしました。しかし正直私の体力的にも精神的にも限界が来てしまい、入所させました。

そんな中で、クリスマス礼拝で、「絶望からの希望へ」というみことばをいただいた時に、もう一度信仰を持たせて頂きました。再創造できる方だという事を、信仰持たせて頂きました。もう一度、主に期待して祈っていかなければいけない!ということを教えられました。

今日のみことばイザヤ書三十八章一節からお読みしましたが、滝元順牧師が以前礼拝でお話してくださった事を思い出しました。「時間が過去に戻る」という話を水曜主日礼拝で滝元順牧師が語りました。皆さんも覚えておられると思いますが、その日一人の男性が出席していました。彼はベテランのトラックの運転手の方です。その方がその週、長いこと使っていた時計をどこかにぶつけてしまい、時計のガラスが割れてしまったそうです。彼はその割れた腕時計をはめたまま、礼拝に来ておられました。そして滝元順牧師が、「時間が過去に戻る」というメッセージをしたのですが、時間とか、時計の話をしました。彼はガラスが割れた腕時計の表面を触りながら、話を聞いていたそうです。ガラスは三つに割れていて、表面を触ると、引っかかり、でこぼこしていたそうです。彼は十年くらい、その腕時計を使っていましたから、ちょうどガラスが割れたのを幸いに、新しい時計を買って欲しいと奥さんに見せたそうです。奥さんに「新しい時計を買って。」と言うと、「今、お金がないから駄目。」と断わられて、ちょっとがっかりしていたそうです。その礼拝が終わり、帰るために駐車場に行って時計を見たら、なんと、割れていたガラスがきれいに元に戻って、直っていたそうです。信じることができますか?割れていたのは、奥さんも確認されています。その奇跡は、そのメッセージの只中で起こったのです。普通はガラスは割れたら、元には決して戻りません。しかし神さまは、時間も空間も創造し、支配されているお方ですから、神が関われば、割れたガラスでも、元に戻すことができるはずです。新品に戻すことだって可能なはずです。彼は時計が直るようにとは、祈っていませんでした。むしろ、新しい時計が欲しいと考えていたらしいです。しかし集会の終わりに、「時間が戻るような奇跡が起きますように!」と祈りました。そうしたら、彼の割れた時計のガラスが直ったのです。現在その時計は、彼の一生の宝物になったと言われました。というメッセージが新城教会のホームージの二〇二一年九月十二日に掲載されています。皆さんも覚えておられると思いますが、もう一度そのメッセージを読み直して見て下さい。見事に時計のガラスが再生したのです。信じられない事ですが、実際新城教会で起きた奇跡です。
私はその軌跡をもう一度読み直し、思い起こして、神は出来ないことはない。主は全能なる方だ。主は癒し主だ。奇跡を行う方だ。「そうだ主に期待しよう」と教えられました。知らない間に、不信仰になってしまっている自分を悔い改めました。主は「とどまるな!前進せよ。」と語って下さいました。もう一度、絶望からの希望へ導いてくださる神がある。今絶望であっても、必ず主は希望に変えてくださるんだ!その神が私の主だ。だから「とどまるな前進せよ」主にもっと期待しなさい!と教えられたのです。
自分も問題の壁を向き、真剣に祈ろうと思います。皆さんもぜひ私と家内のためにお祈りください。私も皆さまのためにお祈りさせて頂きます。不可能を可能にしてくださる神さま、聖霊の力を私たちは求めて、再生していただく、いやもっと素晴らしい状況にしていただきたいと期待していきたいと思います。

この二〇二三年、「希望の年だ」と言われましたが、自分は今年は家内のことで精一杯な年だったと、暗闇のほうばっかり見てしまっていました。しかしイザヤ書四十一章十節に、こんなみことばがあります。

『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』

わたしがあなたの神だ。上條実の神である。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守ってあげる。これが主の約束だということを感謝しました。

そしてエペソ六章十一節に、

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

自分の中に問題に押しつぶされてしまい、知らない間に悪魔の策略にまんまとはまってしまっていた。今日、もう一度、神に対して、神の武具を身につけ、みことばの剣を持って戦う者に変えていただきたいと思います。

そして、主が私に語ってくださったみことばがもう一つあります。それは出エジプト記十七章十節~十三節です。

“ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。”

私はこのみことばを読んで、「このみことばは教会を表している」と思いました。自分で一生懸命、手を上げて主の前に祈っていますけど、やっぱり自分一人では弱ってしまって、手を下ろしてしまいます。モーセが手をおろすとアマレクが優勢になって、敵が優勢になっていく。再度モーセが手を上げるとイスラエルが優勢になった。しかしまた疲れるとアマレクが優勢になっていく。私たちは一人ではない。兄姉がいつも祈っていてくださる。アロンとフルがいました。モーセが疲れると彼らは腰掛けるように石を置いてやって、モーセを座らせ、一方をアロンが、一方をフルがモーセの手を持って、ずっと支えたのです。そのため手を上げていたために、何とイスラエルが勝った。教会は愛し合って、ともに合っていく。祈り支えていく。それが本当の教会ではないかなということを教えられました。一人で戦うのではない。みんなで戦うんだ。「イエスさまが頭で、私たちは各器官だ」とありますけれども、各器官は助け合って存在です。今日もう一度、私たち、からだは一つですから、分裂せずに、お互いのために祈り合っていきたいと思います。皆さんの周りに、苦しんでいる人がいたら、アロンとフルになってください。モーセの祈りの手が上がり続けたためイスラエルが優勢となり、勝利するように助け合いましょう。手を挙げ続けて行きましょう。
イザヤ書三十八章で日時計が十度戻った。そんな奇跡を学びました。それは壁に向かって祈ったのです。とどまらずに進んだのです。問題に対して、弱ってしまって、祈れずにいても、私たちの神は、絶望からの希望です。私たちはリバイバルを願っていますが、リバイバルどころではない、教会に多くの問題が増して行く。しかしもう一度、私たちは壁に向かって祈りましょう。神はともにいてくださる。インマヌエルの神。昨日も今日も変わることのない神です。絶対的に勝利者であって、絶望であっても希望と導いて下さる。再生してくださる神。将来と希望を与えてくださる神であるということを今日もう一度信じましょう。神さまは、時間も空間も創造し、支配されているお方ですから、神が関われば、割れたガラスでも、元に戻すことができるはずです。新品に戻すことだって可能なはずです。
今日壁に向かって祈りたいと思います。主に期待して前進して戦っていきましょう。「とどまるな!前進せよ。」これが主が下さった言葉だと信じて、進んでいきたいと思います。絶望からの希望へ、「とどまるな!前進せよ。」主の前に祈りたいと思います。

壁に向かって祈りましょう。お祈りします。

「愛する天のお父さま。あなたのみ名によって祈ります。あなたのみ名は力強く、何でもでき、あなたのみ名によって祈る時に、すべての祈りは答えてくださる事を信じます。主よ、私は壁を見てとどまっていました。問題に、壁に、背を向けてしまい、苦しんで、重荷を追って、主を小さく考えてしまっていました。お赦してください。「とどまるな!前進せよ。」主は絶望からの希望へ!と語ってくださいました。もう一度新しい油を注いでください。教会に奇跡をあらわしてください。あなたの前に手を上げさせてください。教会が愛し合い、ともに支え合って、手を取り合って、主に期待して祈っていくことができますように。そして二〇二三年の「希望の年である」とあなた語ってくださったように、その希望の年である祝福が、今から、大きく前進し始めますように。希望が始まりますように。二〇二四年は主のなさるわざが常に見える教会となりますように。主よ、来てください。一人ひとりを強めてくださり、弱っている膝、弱っている手を強めてくださり、立たせてください。主よ、お願いします。主のみ名によって祈ります。アーメン。