歓声を上げ、主とともに前進しなさい

2023年6月25日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

歴代誌第一 15章28節

『全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。』

この箇所だけをお読みになって、どの場面か思い浮かべられる方は非常に少ないのではないかと思います。これはダビデ王の時代、そして彼がいよいよ全イスラエルの王になったその直後の記事です。

今日はこの主題聖句と、第一歴代誌の十五章前後、また同時に第二サムエル記の六章を中心にみことばを学んでいきたいと思います。

実はこれらの箇所は、いわゆる並行箇所になっています。同じ記事が、別の書物の中で別の視点で書かれているということです。新約ですと福音書が四つありますので、その様な箇所を思い浮かべやすいのではないでしょうか。実は旧約にもそういう箇所があり、それらを読み比べて読み解いていくとすごく興味深いです。

 

今回ダビデという一人の人物の物語、人生の描写を通して、神のことば、神ご自身について学んでいきたいと思います。

 

まずこの主題聖句に至るその冒頭、どのような場面から「全イスラエルは歓声を上げ」というところに至ったか、そこから見ていきたいと思います。

 

並行箇所の第二サムエル記六章一節から三節をお読みします。

 

『ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている。彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。』

 

先ほども触れました。ダビデがいよいよ全イスラエルの王となった直後の記事です。

私はこの数年来、ダビデの記事をよく引用させていただいております。第一サムエル記十七章、ダビデとゴリアテの戦い、有名な記事からもお話しさせていただきました。それ以前は主の軍の霊的戦いということで、ヨシュア記のエリコの戦いについて、また三月の礼拝ではアブラハム契約ということで、「敵の門を勝ち取る」という視点でお話をさせてきていただいております。今回も主が示してくださっているその一連の流れのみことばになります。

ダビデは第一サムエル記十七章でゴリアテを破って以来、主にあって活躍を続けます。しかし、当時の王様であったサウルはこれを妬みました。ダビデの活躍を妬み、自分の立場が危うくなるのではないかという思いから、ダビデを殺そうとしました。国のため、王のために活躍したはずのダビデが命を狙われてしまいます。それは再三に及ぶもので、第二サムエル記の五章までずっと続きます。サウル自身の死後、子の代にいたっても、サウル家とダビデの闘争は続きました。ダビデはずっと逃げなければならない。そのような立場にありました。

そのような長い戦いがようやく決着して、ダビデは全イスラエルの王となりました。その王ダビデは、その直後に何をしたでしょうか。神の箱、主の契約の箱が二十年間ほったらかしであることに目を向けました。都がエルサレムに移る。そのエルサレムに、主ご自身の象徴である契約の箱を運ばなければならないと、いの一番に考えました。

端的に言うならば、ダビデは自分自身の置かれた状況に目を向けるのではなく、主に視点を向け、主のために何をなすべきか、そのための行動をとったわけです。

 

今のお話を少し地図や資料でご説明します。ダビデは、ゴリアテを破って以来、サウルに追われる身となり、いろいろな所を点々と逃げました。その最後に、ユダの地のヘブロンという場所で、ユダ部族の王に就任します。それが七年半あったということです。そしてすべての決着後、全イスラエルの王になり、三十三年、王として仕えました。

そしてヘブロンからイスラエルのエルサレムに都を移そうということで、契約の箱をエルサレムに運ばなければならないと考えたわけです。

 

次に契約の箱についてですが、モーセが出エジプト後、神とシナイ山で契約を結び、そのとき戒め、いわゆる律法が与えられました。その中でも十の教え、十戒が書かれた石の板が二つ、この契約の箱中に収められました。旧約の時代はこれが主の臨在の象徴、ときには主の臨在そのものと言えるほど重要なものでした。また契約に与えられた律法の規定を守ることがとても大切に求められました。

今私たちは新約に生きる者であり、律法のすべては、イエス・キリストによって全うされています。ですから主イエス・キリストを信じる者は律法の細かい規定を守らなければいけないという状況ではありません。

しかしダビデの時代においても律法は当然発効中でした。その契約の大きな象徴が契約の箱でした。

 

契約の箱の移動を少し追ってみます。

イスラエルがいよいよカナンの地に入る場面、ヨルダン川を渡る時にも契約の箱の存在により水がせき止められました。そしてカナンの地に入り、初めの町エリコ、その城壁を回る時も契約の箱がともにあり、城壁が崩されました。

しかしこの契約の箱は第一サムエル記の序盤で、宿敵であるペリシテ人に、奪われてしまいます。ペリシテの手により点々とします。

ただ、ペリシテの手の中にある間、彼らに祝福ではなく、災いをもたらしました。ダゴンの神殿での出来事、疫病などがペリシテ人を襲いました。そしてペリシテ人の手には負えなかったので、イスラエルのもとに戻されました。

その後、キルヤテ・エアリムという地に置かれました。第二サムエル記六章ではバアラと表記されていますが同じ地を表しています。

ここに二十年間、良い言葉で言えば安置されていました。悪い言葉で言えばほったらかしでした。初代の王様サウルは「主の箱を顧みなかった」という描写もあります。

 

第二サムエル記六章一節から三節にもどります。

このような経緯の中でこの箇所を読むと、素晴らしい王が良い動機付けで、契約の箱を運ぼうとする良い記事に見えるわけです。ダビデを中心にみると王としての即位記念、都の遷都記念などとして、ある意味華々しい場面でありました。ここでこのまま、喜びの歓声が上がる場面に行くかと思うのですが、実はそうではありません。

先ほどは第二サムエル記の六章三節までをお読みしましたけども、六節から読むと、このような記事があります。

 

『こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押さえた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。』

 

お祝いムードが一転、歓声を上げるどころかとんでもない状況になります。ウザという人物が主に打たれてしまいます。人命が大衆の面前で断たれてしまいました。このウザという人物は、先ほど三節の場面で出てきたアビナダブという契約の箱が安置されていた家の者でした。

なぜ打たれたかというと、契約の箱に触れたからです。六節で、落ちそうになった契約の箱を押さえました。一見すると良いことをしたと感じます。同じ状況に置かれたら、おそらく誰でも手が出ると思います。

しかし契約の箱に触れていいのは、レビ人の中でもケハテ族というごく一部の人たちだけというきまりがありました。安息日の規定などとともに、禁じられたことを行えば、例え良い動機付けであっても即座に罰せられるのが旧約の時代でした。律法の文言通りに主の主権がそこに働きました。

要するに、最も大事なのは神の義であるということです。これはシナイ契約以降、新約イエス・キリストの十字架に至るまで同様でした。

一見良い行動に見えても、主の定めにそっていなければ、主が罰せられた。人間の主観ではないのです。人間の善悪の判断ではない、ウザはその規定のために打たれたわけです。

 

八節には、『ウザによる割りこみに主が怒りを発せられた』という表現があります。ペレツ・ウザと地名が残されたということですが、このペレツは、パーラツという動詞の派生語で、洪水が堤防を破るような様を表す言葉だということです。「割り込み」と「怒りを発せられた」の両方に同じ言葉が使われています。ウザの側を考えると、神の定めを破って人間が良いと思うことをやった、割り込んだということになります。一方で神の側では、すべてにまさる神のさだめが主権的にウザにおよんだと読み解けるのではないでしょうか。

 

しかし、ウザだけでなく、実はダビデがそもそも大きな間違いをしています。

第二サムエル記六章三節に戻るのですが、『新しい車に載せて』とあります。この車というのは、牛車のことです。六節には『牛がそれをひっくり返しそうになった』とあります。要するに牛に引かせたのです。これも律法の規定では全く論外の方法です。運び方にも正しいきまりがありました。特に、この牛で運ぶ行為というのはペリシテ人がやった方法でした。

 

第一歴代誌の十五章十一節から十三節

 

『ダビデは祭司ツァドクとエブヤタル、それにレビ人たち、ウリエルとアサヤ、ヨエルとシェマヤ、エリエル、アミナダブを呼び、彼らに言った。「あなたがたはレビ人の家のかしらです。あなたがた自身も、あなたがたの同族の者たちも、身を聖別し、イスラエルの神、主の箱を、私がそのために定めておいた所に運び上りなさい。最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」』

 

このウザの死以降、恐れから、三ヶ月間契約の箱を運ぶことが中断されていました。おそらくこの間、ダビデは律法を学び自分の間違いに気づきました。

そして正しい方法で再び挑戦しました。

十三節の「最初の時」は見たウザの死の場面です。『最初の時には、あなたがたがいなかったため、』レビ人が運ばなかったからということです。それらを改善し、今度はさだめの通り、聖別されたレビ人に契約の箱をかついで運ぶことを指示しました。

 

これらの教訓は私たちにも当てはまります。主を求めるからどの様でもいいわけではないのです。正しい求め方、定めの通り求めなければならないのです。新約においても、「主よ!主よ!」と連呼する者が救われるのではないということが書かれています。私たちは正しい動機付けとともに、正しい方法で、主を求めなければなりません。新約の時代の私たちにも同じ原則が当てはまります。必ず主権は主です。みことばを学ぶ時、主の主権に目を向けさせられます。

 

私たちにはそれぞれ願望があり、希望があり、祈りの課題もあるわけですけども、あまりにもこの世の現実、私たちが直面している状況だけに目を留めたなかで主を求めるということであれば、動機づけという部分でおかしくなってしまいます。動機付けがおかしければ方法もおかしくなっていくということが言えるのではないかと思います。

 

ダビデは動機づけは完璧でした。主から選ばれた者の、耐えに堪え忍んでようやく得た祝福、勝利の瞬間、そして主を第一にしました。しかし方法が誤っていたので、はじめの時には主の裁きを免れませんでした。

 

 

続けて第一歴代誌十五章、十四節〜十六節、先ほどの続きです。

 

『そこで、祭司たちとレビ人たちは、イスラエルの神、主の箱を運び上るために身を聖別した。そして、レビ族は、モーセが主のことばに従って命じたとおり、神の箱をにない棒で肩にかついだ。ここに、ダビデはレビ人のつかさたちに、彼らの同族の者たちを十弦の琴、立琴、シンバルなどの楽器を使う歌うたいとして立て、喜びの声をあげて歌わせるよう命じた。』

 

十五節を見ると、「モーセが命じた通り」とあります、主語はダビデではないのです。ダビデが決めることではない。契約の箱を扱うという点においては、契約によるさだめがありました。