歓声を上げ、主とともに前進しなさい

一方で、十六節ではダビデが主語です。ダビデは律法の規定をしっかり全うすると同時に、信仰者として主へのしかるべき対応・応答として、楽器や歌を通して、主ご自身に、また主が成してくださったことに対して、その思いのあまり歓びの声を上げて歌わせるように命じました。

それは咎められることもなく、主はそれを喜んで受け取ってくださる。わたしたちの「礼拝」や「賛美」もこの様な順序であるべきではないでしょうか。

主の側の主権があり、私たちは「なんだから、どうだから、恵まれたから、祈りが聞かれたから」という動機づけではなく、主の存在に対してただただ賛美がわき出る。主の言葉に応答して、真心から主に賛美をささげる。自分たちが気持ちよくなるために、賛美するわけではないのです。神ご自身が賛美されるべき方だから私たちは賛美をささげるのです。私たちは本当に弱い存在ですから、ともすると順番が逆になってしまっているのではないでしょうか。

 

このようなみことばを学ぶ中で、新約のマタイの福音書十章二十八節が思い起こされました。

 

『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』

 

今回の主題と同様の原則があると思います。

私たちはイエス・キリストを信じて、神の国に属するものとなり、いつも神の主権を認めて生きていく存在であります。それはこの世の生き方とは全く別の生き方であるはずなのです。日々の生活の中でも、困難な状況に直面するときでもこれを見失わないようにしなければなりません。恐れるべきは地上の困難、苦しみではなく主です。

 

そして、マタイの福音書のこの二十八節以降、有名な記事が続くのですが、お読みするだけにします。十章二十九〜三十九節、

 

『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』

 

一見すると、平和ではなく剣をもたらすとか、家族を引き裂くような話に見えますけども、決してそうではないです。本質、大事な点は、地上のことよりも神の国を第一にしなさいと、要約することができます。神の国とその義が第一ということです。これは何度も何度も聖書で学んでいることです。

 

 

第一歴代誌十五章に戻ります。二十八節いよいよダビデが喜びの賛美隊を招集して、主の契約の箱を歓びとともに、運び上ります。「全イスラエルは」とあるようにダビデ王やごく一部の側近の満足ではなく、全会衆が理屈抜きに歓声を上げ主を賛美しています。

私たちがみことばを受け取るとき、「全イスラエル」は私たちを含む全クリスチャンに適応されるものです。私たちも主の前に歓声を上げて、主を喜びほめ歌う、そんな存在であり続けなければならないと思います。なぜならそれが私たちクリスチャンの使命だからです。最初からその様に召されているのです。この世と分離して、神の国の支配に入れられる。これがクリスチャンの存在だからです。もし主を礼拝し、賛美することに理由が必要ならそれだけで十分です。主のさだめの中です。

私たちは歓声を上げて喜んでいるでしょうか?主に歓声を上げて賛美しているでしょうか?

 

ダビデはその人生において主のみこころを果たし続けました。続く第一歴代誌十七章十一節から十四節はこのように書かれております。

 

『あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。』』

 

これがいわゆるダビデ契約と呼ばれるものです。ダビデの息子ソロモンのことにも言及されておりますし、彼が神殿を建てているということも書かれています。しかし同時に『とこしえ』という表現が出ている様に、神の国の領域にも言及がされています。おわかりのようにこれは、イエス・キリストのことを指しています。『彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。』このダビデの家系から、イエス・キリストがお生まれになるわけです。

このような旧約聖書のストーリーを、今の私たちの現代の生活とは一切関係ない、ただの物語として読むこともできるわけです。しかし、これらは歴史的事実です。また私たちの信仰のもとになっている主の物語、主ご自身が召された、私たちと同じこの地上を生きた信仰者の実際の物語です。

 

私たちは自分の身内のことであれば感情移入がとてもしやすいですけども、ダビデがここまでしっかりと主に従ったその歩みを、同様の重みで心に留めなければなりません。ダビデ自身も何度も失敗をし、何度も命を奪われそうになり、生きた心地のしなかった期間もとても長く労苦した信仰者です。しかしダビデは主を仰ぎ見ることをとことん止めなかったのです。

 

使徒の働き十三章二十二節〜二十三節には、このように書かれています。

 

『それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。』

 

ある一定の主の選びというのは、やはりあるとは思います。しかしそれ以上に大事な点は、「彼はわたしのこころを余すところなく実行した。」ダビデは主のみこころを余すところなく実行したのです。それ故にダビデ契約と呼ばれるダビデの家系からイエス・キリストがお生まれになるという神の計画・物語が、しっかりと紡いでいかれたということになります。このダビデ契約が新約への直接的な架け橋となります。

そのような点で、今回学んでいる一連のストーリーは、現代のクリスチャンである私たちにとても大きな意味を持っているものです。

 

 

もう一点だけ最後に学びたいと思います。第一歴代誌十五章二十八節にはこの通り、歓声を上げる描写がありました。しかし、この第一歴代誌十五章にはもう一節続きがあり、そこでぱたっと終わっています。

二十九節、

『こうして、主の契約の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。』

 

この歓声とは全く相対する描写で、第一歴代誌の十五章は終わります。ミカルというのはダビデの妻です。サウルの娘でしたけども、ミカルのほうがダビデを愛し結婚することができました。サウルから命を狙われる場面ではダビデを助けるような記事もあります。

しかしこの時、ミカルはダビデの様子を一人離れたところで見て蔑んでいました。

第二サムエル記で見ると、この続きが書かれています。第二サムエル記六章二十〜二十二節、

 

『ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」』

 

ミカルはダビデに対して皮肉たっぷりのことを言います。それに対してダビデはどのように対応したかというと、

 

『ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」』

 

妻ミカルに対して、このようにピシャリと返しています。今日、何度も見てきた通りです。ダビデはとことん、何がどうであれ、誰に何を言われようが、主ご自身を最優先にしたということです。

もちろんこの指摘は当然の部分もあるにはあります。王が裸同然のエポデを身にまとって喜び躍っている。ミカルの指摘も、人間的・社会的に見れば最もな部分もあります。しかしダビデもそんなことはわかっていたと思うのです。でも今はどういう時か。主に歓声を上げて、ただただ自分自身が主を歓ぶのみ。誰がどうだという話ではないのです。他人がどうという話はそこには一切ない。ダビデと主の関係だけだと。そういうことをはっきりとここでミカルに告げています。そして、そのように行動することで、もし私が蔑まれるならば、とことんそれを受け入れよう。そんなことは私の問題ではない、というのです。これもまた非常に学ぶことが多い場面です。

 

繰り返しになりますが、私たちはあまりにも世の中のことを気にしすぎたり、不安を持ちすぎたりしていないでしょうか。この世の状況を主よりも上に置いていないでしょうか。ダビデの信仰とその歩みを学んだ私たちも、この世のあらゆる状況において、ときに誰に蔑まれても主を優先して生きる、そのような覚悟を持たなければなりません。

身近で召されていく方々を送ったり、新しく与えられる命に目を向けるとき、私たちが主の支配されている命について向き合えば向き合うほど、この世の状況や他者というのは、ある意味で背景になっていきます。主と自分の一対一だけの祈りに導かれていきます。そこでしっかりと、それぞれに対して主が成せということを成していく。主の定めの通りに主を求めていく。主のみこころを実行し続ける、それがクリスチャンにとって最も大事なことではないかと思います。

 

最後に第一歴代誌十五章二十八節をもう一度、私たちの思いもそこに向けて、お読みさせていただいて、終わりにしたいと思います。

 

『全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。』

 

私たちも主に歓声を上げて、主を歓ぶ人生を歩み続けていきたいと思います。お祈りさせていただきます。

 

愛する天の父なる神さま、み名をあがめます。どうか主よ、あなたご自身の主権だけが私たち一人ひとりを覆いますように。この世のすべての出来事、私たちの身の回りにあるあらゆる罪、わざわい、また恐れをもたらす出来事、不安、すべてを主ご自身のみことばによって、私たちの霊的な目が開かれて、私たちの目の前から、消し去られますように。私たちはただただ、あなたご自身を見上げて、あなたご自身を歓び、賛美することができるように、もう一度私たちが召されたその通りの使命に立ち返らせてください。