〜この地に植えられ70年〜
教会はどこにある?

2023年2月26日(日)新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書 16章18節〜19節

『そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!聖歌隊の素晴らしい賛美を聴くことができて感謝します。コロナで長らく聖歌隊の賛美を聴くことができませんでしたけれど、今日は新鮮な思いで聴くことができました。「昔の礼拝の姿が戻ってきたなぁ」という感じでした。もう一度、拍手したいと思います。

「いずくまでも行かん」、いずくってどこ?みたいなところもあるのですが、どこまでもイエスさまに付いて行きます!という決意の賛美でした。何があってもイエスさまに付いて行きたいです。

いつも私のためにお祈りいただき、心から感謝申し上げます。様々な角度から私をサポートしてくださって、幸せを感じています。家内が召天して、早二ヶ月と一週間が過ぎました。私たちも、徐々に落ち着きを取り戻しているのですが、まだまだ、いろいろな点で大変です。しかし新城教会には、先輩の方々が多くおられて、ご主人を先に亡くされたり、奥様を亡くされて、一人で生活されている方もおられます。私はその方々の気持ちはわかっているつもりでしたが、わかっていなかったです。やはり実体験しないと、わからないものです。

一人身になって、生活においては、困っていることはないのですが、ちょっとストレスに感じていたのは洗濯でした。家内が、「私がいなくなっても、自分で洗濯できるようにしてね!」と言って、洗濯を教えてくれました。しかし脱水が終わって脱水槽にへばり付いたタオルとかを見るとうんざりでした。シワを伸ばして干さないと後から大変なことになるからと、家内に言われていましたが、面倒なので、そのまま棒状に干して、使い物にならなくなったりして、ストレスを感じていました。

しかし、神さまは助けてくださる方です。掃除はルンバが毎日、やってくれています。あれは便利です。夜中の一時に自動的に、サンダーバードのように基地から出動して、掃除してくれます。

しかし、洗濯だけは嫌だなぁと思っていました。「神さま、洗濯って、どうにかなりませんかね・・。」と祈っていました。娘が来た時に一緒にやってもらえるようにしていました。

しかしある日、ピンッと来たのです。「洗濯だって、この時代、全自動でできるんじゃないか?」とひらめいたのです。

私は洗濯機に全く興味はありませんでした。しかし、ちょっと、ネットで検索してみました。すると、あるじゃないですか、あるじゃないですか。なんと最近、全自動洗濯機があって、洗剤だって自動的に放り込んでくれて、乾かし、すぐに使えるぐらいにまで仕上げてくれる洗濯機があったのです。驚きました。ちょっとお高いですが、高くたって絶対にこいつを買うしかない!と思って、即、全自動洗濯機を購入しました。凄いですよ!私は電気屋の回し者ではありませんが、洗濯が楽しくなりました。洗濯かごも要りません。スマホでコントロールできるのです。私はそんなものがこの地上に存在している事すら、全く知りませんでした。本当に良い時代に妻を失ったなと、失うのはつらいですが、洗濯機に関しては感謝しています。孫たちが汚い洗濯物を置いていっても、「俺、洗濯しとこうか。」なんて、信じられないことを言っている自分にびっくりしています。皆さんのお祈りに支えられ、日々、暮らすことができることを、心から感謝します。

 

結婚されていれば、私と同じ経験をどちらかがされます。覚悟しておいてくださいね。ある方が「順先生が経験してくれたのは嬉しい」と言うのです。一つの手本みたいになるからねと。手本にならなければいけないのか・・と、少しプレッシャーですが、がんばります。

皆、やがて地上から出て行かなければならないのです。

しかしクリスチャンには、そんな中にも希望があります。死後、神の国に入国できるからです。けれども、死後の世界は完全な神の国ではありません。完全な神の国は、イエスさまの再臨と共に地上に訪れます。その日、先に天に帰った聖徒たちはよみがえり、地球がエデンの園のように完璧な場所になるのです。死も苦しみも悲しみもない、神の国が実現します。別れた家族・親族、そして兄弟姉妹と共に永遠に、幸せに暮らすことができるのです。それが聖書の結論です。

そんな日が来る!ちょっと信じ固いですが、私は楽しみに待ち望んでいます。

 

それを実現する機関が、天の門、教会です。以前も少しお話しさせていただきましたけれど、教会とは神の家であり、天の門です。天国に入るゲート、入り口が教会です。やがて主を信じる者たちは復活し、地上に戻ることができるのです。信じられないことが聖書には記されています。

天地宇宙を造り、私たちをも造ってくださった神がおられるとしたら、復活だって、容易に信じることができます。進化論では、そうはいきません。しかし天地宇宙を造られた神なら、それはたやすいはずです。

 

今日は、「教会はどこに?」というタイトルをつけさせていただきました。

 

眼下に見えるのは、新城市です。教会の北側の雁峰山からの写真です。ここに行って、よく、とりなしの祈りをします。新城市全体、東三河一帯が見えるのですが、この中で、教会がどこにあるのか、分かりますか?ウォーリーを探せよりも、難しいです。新城市は小さな街だとは言っても、結構、家があります。少し拡大すると、教会はここです。

 

「教会はどこにある?」と言ったら、新城市の東側に位置しています。

同時に、教会とは、目に見えない世界、霊的世界をも含む存在です。見えない世界では、教会はどこに存在しているのか?

 

『わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。』

 

教会は天の門ですが、この世には、天の門だけでなく、「よみの門」もあるのです。「よみの門」とは、地獄の門です。悪魔と悪霊どもが住んでいる世界への入り口です。

以前にもお話ししましたが、世界の霊的構図とは、「神の王国 VS 悪魔の王国」の対決の構図です。そして人は、どちらかのゲートをくぐっています。神の王国のゲートに入っているのか、それとも、知らずして悪魔の王国、よみの門から侵入して生活しているのか、どちらかです。

信じても信じなくても、残念ながらこの二つの国しか存在していません。死んだら分かると思います。人は二つの王国のどちらかに、従属しなければならないわけです。

もしも神の王国ではなく、悪魔の王国に入っていたら悲惨です。

イエスさまは、よみの門、地獄の門も、「教会には勝つことができない」と語られたのです。すごいです。イエスさまは、ピリポ・カイザリアで弟子達に語られました。

 

イスラエルに行きますと、北のほうにピリポ・カイザリアという地域があります。イエスさまは弟子たちを、そこまでわざわざ連れて行って、語られました。

 

当時、ここにはギリシャ神話のパン神を祀っている神殿がありました。ピリポ・カイザリア地方の人たちは、ローマ帝国により強制的に、全住民あげてギリシャ神話の神々を礼拝させられていました。パン神殿の背後には、大きな岩があります。それは日本の大岩大明神みたいなものです。大岩を神としていたわけです。

また、この場所では「皇帝礼拝」もなされていました。イエスさまは地域の人々が神殿に流れ込んでいく光景を弟子達と共に見ながら、みことばを語られたのです。

手で作った神々、偶像礼拝の背後には悪魔の王国が控えています。

日本人は良かれと思って、偶像礼拝に走っています。正月も大勢の人たちが初詣に行きます。それは「よみの門」です。

教会は、見えない世界では、ハデスの門前に置かれている存在です。新城教会も、この門前に置かれているはずです。

 

人はいつまで救われるチャンスがあるのか?というと、「命が果てて、魂が肉体から離れる瞬間まで」と言えます。その瞬間まで、救いのみ手は伸ばされています。しかし死んでしまってからは、助けることはできません。生きている期間だけが、救いを選択出来るチャンスです。

なぜかというと、私たちは「時空」という、時間軸の流れの中に生きているからです。今は、十一時十一分ですが、やがて十二分になり、十三分と、人は時空の中に住んでいます。「時間」とは、神の創造物の一つです。以前にも話しましたけれど、相対性理論によると、時間とは、ゴムのように長くなったり、縮まったりする「物理的法則」の中に存在します。人は、時間軸の中に住んでいるので、その期間は救いを選択可能なのです。

しかし死後の世界は、物理的に言えば「高次元」です。時空を超えた世界です。ということは、時間が機能しない世界です。時間が機能しなければ、どういうことになるのでしょうか。何かの行動がなされた瞬間に、結果が出る空間です。ドラえもんの「どこでもドア」状態の世界です。

人の罪は赦されても、悪魔が犯した罪はなぜ、赦されないのか。それは、時間のない世界で罪を犯したからだと私は考えています。時間が機能しなければ、罪を犯した瞬間が、同時に神の裁きの瞬間となり、赦される機会がなかったからだと思います。

しかし私たち人類は、感謝なことに、時空の世界に創造されました。もちろん、明日は保証されていないのですが、時空がありますから、生きている間は、悔い改めの余地があるのです。生きている期間内に、救いを選びとるなら、救われるのです。

死後にも救いがあると教える人たちがいますが、それはありえないと思います。時間が機能しない永遠の世界では、原因が、即、結果につながるからです。

生きている期間を、神との出会いの場にしなければなりません。

 

ということは、教会はハデス(よみ)の門に限りなく接近していないと、死ぬ寸前まで、救いの門として機能できないわけです。

イエスさまと一緒に十字架につけられた強盗は、死ぬ直前に救われ、パラダイスに入りました。それまで彼は、イエスさまの悪口ばかり言っていました。しかし途中で、「この方はもしかしたらメシア、救い主かもしれない・・。」と考えを改めて、イエスさまに対する悪口の舌が乾かないうちに、「イエスさま、あなたがパラダイスに行かれる時には、私を覚えてください」と願ったわけです。

イエスさまは、素晴らしいですね。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにある。」と約束されて、強盗は救われたのです。本当にイエスさまは救い主ですね。私だったら、悪口雑言言っていて、最後の最後に「救ってくれ」なんて言われたら、「うるさい!おまえなんか救ってやるものか!地獄のどん底にたたき込んでやる!」と言うかも知れません。イエスさまは悪口を言われても、強盗をパラダイスに入れました。ということは、教会も、ハデスの門前に建てられているということです。

 

地上に存在する教会の使命は、パラダイスに人を送るための天の門であり、神の家です。創世記二十八章で学びましたが、それは、ヤコブの枕元から、はしごが伸びていて、天と地が一つになっている光景でした。

イエスさまを信じ、クリスチャンになりますと、私たちの人生にはしごが立つわけです。天国とこの地を結んで一つとするはしごです。天使たちが上り下りして、我々を守り支えるるのです。

しかしイエスさまを信じなければ、地獄の門に向けてはしごがかかります。悪魔・悪霊どもがそのはしごを使って上り下りするのではないでしょうか。

イエス・キリストを信じる者には、天使たちが上り下りしているのです。

これは何を意味しているのでしょうか。前回も話したように、教会は、地上だけに存在するものではなく、天にも存在することを示しているのです。

 

私たちの父なる神さまは、天の家族と地の家族を合わせての父なる神なのです。私たちは地上に兄妹・姉妹という神の家族を持っていますが、天に帰った聖徒たちと分断されているのではなく、天の家族も一つの家族として暮らしているのです。