2022年12月31日(土)
≪上條実牧師≫
ハレルヤ!今日こうして皆さんの前に立つことができることを心から感謝します。十二月初旬からから二〇二三年のためのみことばを祈り続けておりました。しかしクリスマスや様々なことがあり、忙しくなかなか与えられずに、クリスマスシーズンとなり焦っていました。いつも「二〇二三年のみことばを、主よ、語ってください。」と一日中祈り続けながらいました。子どもクリスマスのメッセージ。十二月十一日の礼拝メッセージと忙しくてなかなか与えられませんでした。また享子先生がお亡くなりになり、召天凱旋式が行われるなど、バタバタで時間だけが過ぎ去って行きました。
十二月二十日に、召天・凱旋式が行われ、次の日二十一日水曜日が家内を診察のために病院に連れて行かなくてはなりませんでした。いつもかかりつけの浜松のある病院に連れて行き、二つの科に診察してもらいました。診察が長びき、午後から、普段家内が通所していますデイサービスしおんの方にお願いしておりましたので、時間の関係上、普段は使わない新東名を使って帰ってきました。帰り道いろんなことを考えながら運転していました。二〇二二年に寛太兄が亡くなったこと、敬愛するロン・ブラウンさんも亡くなり、享子先生も亡くならたこと。また三人の様々な思い出などを思い返しとてもさみしい思いになりました。また家内の病気を考え、皆さんお祈り下さり、支えられていますが、この状態というか介護がいつまで続くのかと考えはじめたら、とても心が重たくなって、気持ちが滅入ってしまいました。そんな苦しい思いの中で新東名の新城インターを出て、坂を下り、「もっくる新城」という道の駅がある交差点を左に曲がり、我が家に帰ろうとした時でした。その時不思議な体験をしました。私の心の中に大きな声で、ことばがポンと飛び込んで来たのです。それは、私にとって思いもつかないことばでした。それは「喜び躍りなさい」ということばでした。正直、それを聞いた時、私にはできないと思いました。こんな重たい気持ちの中で、喜ぶだけでなく、躍れということは絶対無理だと否定しました。理屈的には聖書にイエスさまを喜んでいかなければいけない、また主にあって喜び躍れということはわかっています。しかしなんで私にこんな言葉が来るのだろうか?と正直困惑しました。だから二〇二三年のテーマではないと、打ち消そうと思いました。しかし時間が経てば経つほど、「喜び躍れ」という声が大きくなってきました。そのため家内をデイサービスに送ってから、神さまの前に出ました。「もし喜び躍れということばが二〇二三年に与えて下さったなら、みことばを教えて下さい」と祈りみことばを読みました。するとゼパニヤ書三章十四節〜十七節のみことばが与えられました。お読みします。
ゼパニヤ書三章十四節〜十七節(第三版)
『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』
特に十四節
『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。』
このみことばが与えられました。このゼパニヤの三章十四節のフレーズは、やがてキリストの再臨においてエルサレムが回復されることが預言されています。そのときには最大級の喜びが湧き溢れ、その喜びの声は絶えることがなく、神の民も完全に回復されるのです。 しかし、喜び歌え。喜び叫べ、喜び勝ち誇れ。ということばはありますが喜びは出てきますが、躍れということばがないと思いました。しかし二〇一七年版の聖書を読むと
『娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。』
「喜び躍れ」出てきました。主はこのことばを語って下さったんだと、私ははっきり受け取ることができました。
この「喜び躍れ」と書いてありますが、「喜び躍れ」の「おどれ」というのは、漢字で二つあります。
一つは、「①踊れ・・・・ダンスをすることや、人にあやつられることを指します。」そして、
「②躍れ・・・・飛び上がることや心がどきどきすることを指します。」と書いてあります。
二〇一七年版は②にある「喜び躍れ」という「躍れ」という漢字が使われています。「踊れ」ではありません。しかしゼパニヤ書三章十四節を二〇一七年版にある「躍れ」は、突然素晴らしいことが起きて、驚き、飛び跳ね、心がドキドキする感動で躍り出すことです。子どもがクリスマスなどにプレゼントをもらいますが、期待もしていなかったのに一番ほしくてたまらなかった「ゲーム機」をもらったとき、飛び跳ねて狂喜する時がありますが、そんなものより比べる事のできない素晴らしいことが起きて「喜び躍る」時が来ると言うことです。二〇二三年は喜び踊る年であるという事を主が語ってくださいました。三章十五節をもう一度読みます。
『主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。』
ここに『主はあなたへの宣告を取り除き、』というのは、これは「宣告」というのは、悪魔が私たちを束縛し「お前たちは有罪判決がおりたんだ。」と訴え、責めて来ます。しかし私たちはイエスの十字架を信ずることにより、解放されたのです。霊的に自由とされました。そして十六節、十七節に、
『その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』
と書いてあります。ここに『恐れるな。気力を失うな。』というみことばがあります。私たちは様々な現実を見させられて落ち込みます。私もすごく落ち込んで、家内の戦いがいつまで続くのか?また戦って奇跡を信じていたのに癒やされなかったと思い、敗北を認めてしまっていました。しかし『恐れるな。気力を失うな。』とあります。主は必ず私たちに勝利を与えてくださる。恐れるな。気力を失うなとあります。主は今も生きて働いて下さいます。負けたと思えても、主のなさることは不思議です。負けではなく圧倒的。勝ち得てあまりある勝利を用意して下さっています。だから今年は喜び躍りなさい。喜び躍りなさい。自分でダンスするのではなく、今まで見たことも、聞いたことも、思い浮かんだことのないほどに、驚き、素晴らしいことを体験させてくださる。その恵みを見て、体験して『喜び躍る』事ができる一年にさせてあげるというのです。私たちは再臨を待ち望みましょう。「マラナタ。主よ、来てください。」と、待ち望みましょう。そして、今年私たちは霊的戦いの中で勝利を頂きましょう。『喜び躍る』二〇二三年であると信じましょう。
Ⅰペテロ一章八節
『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』
Ⅰコリント二章九節
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』
今年は、自分の気持ちとは裏腹に、喜び躍る年になります。信じましょう。この教会に将来と希望を与えてくださるという約束を信じて進んでいきましょう。今年は『喜び躍る』年であることを信じます。ハレルヤ!
≪岡本信弘牧師≫
ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。
あっという間に一年が過ぎて、今日は二〇二二年の最後の日です。今年もこの場所に立つことができ、主を賛美し、主を礼拝し、共に新しい年を迎えることができる恵みを心から感謝します。
さて早速ですが、私が二〇二三年のために与えられたみことばは、コリント人への手紙第一の一章三十〜三十一節です。この中で特に、『誇る者は主を誇れ』という言葉が私の中に飛び込んできました。お読みします。
『あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。』
『誇る者は主を誇れ』、このみことばを皆さんも何度も聞いたことがあると思います。私も何度も聞いていましたが、この年末、このみことばが与えられてからずっと、「パウロはこのみことばで、私に何を語ろうとしているのだろうか?」「本当はどういう意味なのだろうか?」という疑問がわいて祈っていました。そして、この一章を読んで、多くのことを教えられましたので、皆さんにお分かちしたいと思います。
コリント人への手紙は、パウロが開拓したコリントの教会に宛てた手紙です。コリント人への手紙第一の初めで、パウロはコリントの人たちに対して、一人ひとりが成長していることを称賛しています。しかしそのあと、あなたがたの間に争いがあることを知らされたと書き、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストに」と言っている人々に対して、このように言っています。
『さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。』(コリント人への手紙第一 一章十節)
世の中では、例えば政治家は、どの指導者に従うか、どの派閥に入るか、いつも争い、忖度しているという印象がありますが、私たちの集う神の教会の中にあっては、争ったり、不信を持ったり、そういったことはあってはならない、とパウロはコリントの人たちに忠告しています。
コリントの人々が自分の気に入った指導者に、「この人がいい」「あの人がいい」と言い争った時、パウロは、次のように語っています。
『キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(同十七〜十八節)
ここでパウロは、自分が遣わされた目的を、『福音を宣べ伝えさせるため』だと言っています。
「誇る者」という意味の中には「頼る者」という意味も含まれていると注釈書には書かれていましたが、人は、誰かに頼りたい、誰かに寄り添ってほしいと考えます。ある人は、「私は誰の力も借りたくない」「自分の力で生きていく」という人もいるかもしれませんが、実際には、生きている間に多くの人に頼り、多くの人に助けてもらって毎日を生きていることを、皆さんも感じていると思います。しかし、人間に頼っても、どうにもならないことがたくさんあります。 パウロはコリントの人たちに、「誰につくか、誰に従うか」、だれかのことばではなく、すべては十字架の福音をあなたに示し、救いを与えてくださった十字架のことばが重要で、それこそが神の力だと語っています。
続いて、一章二十六~二十七節をお読みします。
『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。』
今、私たちは、偶然ではなく、主に選ばれて今ここにいるということを忘れてはなりません。皆さんに「あなたの誇れるものは何ですか?」と質問したらどう答えますか? 人より優れたものを持っている方も多くおられ、それは、一つの誇りといえるのかもしれません。しかし、主を誇ることとは違います。一方で、「私は何もできません」「私には誇るものが何もありません」と言われる方も多くいらっしゃるかもしれません。
しかし、教えられたことがあります。