2023年カウントダウン・ワーシップ

大きな戦い、大きな試練による大洪水の水が引き、そして神さまのご栄光がこれから現されることを知って、信じて、そして神さまの夢の実現のために走り抜く二〇二三年でありたいと心から願う者であります。みことばは以上です。ハレルヤ!


≪四元雅也牧師≫

ハレルヤ!感謝します。こうして皆さんで年末の時を過ごすことができて感謝します。七名のメッセンジャーが立つので時間がないということでありますが、ここまでの先生方、素晴らしいですね。三人の間で十分ぐらい時間を稼いでおられ早めに進んでおります。私がその時間を食いつぶさないように気をつけながらお話ししたいと思っております。
私は昨年のカウントダウンで、エペソ人への手紙の一章十七〜十九節のみことばからお話をさせていただきました。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。』

このところからまず、私たちは信仰生活の中で、また教会の営みの中でもそうですが、神さまについて「私たちは知り尽くしました。もう信仰歴長いですからね!」などと言うことはできない。祈りと賛美、礼拝、リバイバル、様々な働きがこの教会でなされていますが、「それらはこういうものである」と言い切ることはできません。神さまの深みに及ぶのは、私たちのクリスチャンとしての一生において、完全に到達し得ることはできない。だから私たちは人生が続く限り、求め続けることが大切であり必要だということをお話ししました。
今お読みした一章の十七節には、「神を知るための知恵と啓示の御霊を受けますように」とありました。そして「聖霊によって心の目がはっきり見えるようになる」と。その事によって十八節と十九節に書かれてある三つについて知ることができます。

1 神の召しによって与えられる恵み
2 聖徒が受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるか
3 信じる者に働く神の力がどれほど偉大なものであるか

これらをあえて一言で言うならば、私たちの人生の中に、神さまの支配と、神さまの主権が現されるということであります。そのために私たちはまず神さまと出会い、聖霊さまを受け、心の目が見えるようにならなければならないということです。
言い換えますと、人間的な知恵とか努力によっては、私たちの目は、今申し上げた三つの恵みを理解することができない、神を知るための知恵と啓示の御霊を祈り求めることによって、神の知恵は私たちのうちに現されていくということをお話しさせていただきました。もしかすると私たちが、自分の信仰生活の中で持っている神に対する知恵や知識、これが正しいと思っている部分にこそ、神さまから霊的な悟りを受け取らなければならない部分があるかもしれません。そんなことをお話させていただいたわけです。

話は変わりますけれども、二〇二二年、新城教会にとって様々な出来事がありました。やはり、これまでお話しされた先生方も触れておられたように、享子先生の闘病、そして召天・凱旋には、私たちの想いを超えた主のご計画がありました。
今年の初め、享子先生の癒しのみわざを見て、私自身、心底良かったなぁと思いましたし、感謝をささげました。きっとこれから享子先生はもっともっと元気になられて、いろんな奉仕の場にも復帰できるし、また世界中を周られるようにもなるだろうと期待もしておりました。
それがこのような形になるとは、新城教会に集っていらっしゃる方は、誰も思っていなかったのではないかなと思います。
そしてまた、今年は、ロン・ブラウンさん、また滝元寛太さんも天に帰って行かれました。この方々も私たちが心から癒し回復を求めて祈っていた方たちでした。そして神さまの前に祈り続けていたのですけれど、願ったように癒しが起こされる事はありませんでした。このことは本当に悲しくて、寂しいことでありました。この事実をどうやって受け止めるべきなのでしょうか。

順先生が、十二月二十五日の礼拝で、享子先生の死はまさに勝利の凱旋であったというお話をしてくださいました。本当にアーメン、素晴らしいメッセージでした。
そして、このことこそ、二〇二二年の一年間を通して、神さまが聖霊さまの知恵によって、新城教会に教えてくださったことではないかと、私自身感じています。

話は変わりますが、今年の復活祭はユダヤ暦・聖書暦のイエスさまの復活と、現代暦、西暦での復活祭との日程が重なった、そういう特別な時でありました。その中で、これまでの私たちの信仰の理解を転換させる事柄を受け取るときがありました。それは「復活」という出来事が、イエスさまがよみに下られて三日目に起きた地上での出来事であった、という理解から、イエスさまが死なれた瞬間に、死の真っただ中に復活の勝利は成就されていたということであります。これは本当に重要な霊的な理解ではないかなと思います。
第一コリントの手紙の十一章二十六節には、聖さん式について書かれています。

『ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。』

ここで、みことばは私たちに聖餐式のたびに「イエスさまは死にました」と告白し宣言しろというわけです。聖餐式の時に、主が来られる時まで主の死を告げ知らせるようにと、みことばは命じています。「イエスさまが死なれました!」なんて言うのは、あまり良い気持ちがしないものではなかったかと思うのです。しかし、初代教会のクリスチャンにとっては、イエスさまの死と復活に関する理解は、イエスさまの死そのものを嘆き悲しみの日とは考えず、この箇所でパウロが語っているように、イエスの復活、死に対しての勝利は、十字架の三日後ではなく、イエスさまが死なれたその瞬間から既に始まった、そういう立場と理解であったということです。
人間は「死」というテーマに追われて生きているようなものであります。特に日本はそうだと、先日順先生もおっしゃっていました。イエスさまが死なれた日が敗北だとしたら、嘆き悲しむ日だとしたら、人間の死に希望はないです。
しかし、よみがえりの力は、イエスさまの死の瞬間に働いていた。だからこそ、イエスさまの十字架の死そのものが大勝利であったという立場に立てば、私たちも大胆に力を持って死に打ち勝つことができるわけです。
だから私たちは死そのものが敗北であるという見方を改めなければならない。イエスさまが十字架で死なれた、その死は勝利であった、死の力を持つ悪魔を滅ぼす力であると、ヘブル人への手紙二章十四節・十五節のみことばに書かれています。

『そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。』

私がこの年末に際して感じていることは、神さまがこの一年をかけて、イエスの死はいのちを生み出す武器であるという事を、私たちが愛する人の死という出来事を通して、その体験を通して、繰り返し私たちの心の一番深いところに刻み込んでくださったのではないかということです。

今も病気で苦しんでいる方、また様々な問題で押しつぶされそうになっている方が、この教会の中にはおられます。そして、新城教会の二〇二三年これからの歩みの中でどのように戦うのか。一年間主によってこの教会に教えられた、主イエスさまの死を武器として戦う。そしてイエスさまの死こそ復活の勝利であることを告白していくこと、これが私たちが受け取った最高の祝福であり恵みであるという事を覚えていきたいと思うのです。

そして、このことこそ実は私たちが宣べ伝えている福音です。享子さんをはじめ、ロン・ブラウンさん、また寛太さん、主にあって先に天に帰られた兄弟姉妹が、私たちの周りで雲のような証人として「みんな頑張って!」「イエスさまの死と復活を宣べ伝えてください!」と激励してくださっているのではないかと思うのです。私たちは二〇二三年、さらに力強くこのことを宣べ伝えていこうではありませんか。

最後に、私が二〇二三年に向けて受け取らせていただいたみことばを読んでメッセージを閉じさせていただきます。それはローマ人への手紙十章十四〜十五節、

『しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。』

そしてもう一箇所、イザヤ書四十一章十節です。これは最近の木曜賛美集会でもお話ししましたが、最近強く私の心に神さまが語ってくださっているなと感じているみことばです。

『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』

私たちはこのみことばのように恐れることなく、十字架の死と復活を、この世に対し、すべての被造物に対して宣言し現わしていく者とならせていただきたいと心から願ってメッセージと代えさせていただきます。ハレルヤ!


≪滝川充彦副牧師≫

ハレルヤ!今晩こうしてカウントダウン・ワーシップにおいて、神さまからのみことばを皆様と共に受け取る時が与えられていることを心から感謝します。この二〇二二年も皆様のお祈りと励ましに支えられて主に仕えることができました。本当に心から感謝しております。

私が二〇二二年に与えられたみことばは、詩篇四十六篇全体からでした。特に一節、七節、十一節でした。

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』
『万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ』

私たちが主を信頼し、砦である主に身を避けるならば、必ず主は私たちを守り助けてくださる。そして身を避けるということは、一見弱い存在のように思えるかもしれないですが、主という避け所は霊的軍事施設という砦であり、そこで私たちがみことばの剣を握り、祈りの使命を果たすならば、万軍の主によって、最終的に大勝利を受け取る。このようなみことばの約束の中で、二〇二二年を過ごすことができ、本当に感謝しております。
振り返ってみると、私自身何度も弱さを覚え、主の砦に逃げ込むような時がありました。しかしその度に、万軍の主が守り、支え助け、祈りに応えてくださり、主ご自身が最終的に勝利を与えてくださった二〇二二年であったことを思い出します。

そしてこの来たる二〇二三年に対して、私が神さまご自身から示されているみことばは、ヨエル書三章十三節の前半になります。

『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。』

このみことばであります。先に簡単にまとめさせていただきます。
「来たる二〇二三年、主の刈り入れの時は熟し、私たちは大胆にかまを入れる年となる。」そして主のみ座から流れ溢れる収穫の恵み、主の勝利を受け取る年となる。そのために私たち、新城教会一人ひとり、幼子からお年寄りまですべての世代が、主を王として仰ぎ見て、また畏れ、主の勇士として立ち上がり、主の軍隊として集い、敵に立ち向かい、主への賛美と礼拝をささげるように。このように示されています。

この数ヶ月、ヨエル書の三章前半部分がすごく心にとまって、巡っていました。このヨエル書について少し学んでみましたので、皆様とともに、私が示されているみことばを共に分かち合っていきたいと思います。
このヨエル書の主題は「主の日」と言われます。その主の日が非常な早さで近づきつつあることを預言していると言われます。そして私が示されているこのヨエル書三章十三節は、特に終わりの日における諸国民への審判が述べられている箇所の中にあたります。主による敵に対しての徹底した裁きと勝利、それは終わりの日にイエスさまが再臨されて、約束の民、私たち、そしてまたユダとエルサレムをあわれみ、神の都として回復し、永遠の繁栄と祝福を成就される、終わりの日に重ねられて捉えられています。
ヨエル書三章一〜二節を見ると、