2023年カウントダウン・ワーシップ

一章二十八節で、パウロは主の思いを代弁してこう語っています。

『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』

そうです。私たちは、何もない、何もできない者だということを悟ったからこそ、それを知ったからこそ、今私たちはここにいて、神さまの恵みにあずかっています。しかし、そんな取るに足らない、何もできない者を、あえて神さまが選んでくださったのです。
十字架にかかり、私たちのために死なれたイエスさまを、まことの神さまと信じ、神の前に立ち、どうしようもない罪人の頭であることを認めた時から、私たちの人生が再スタートしています。そして、それは自分で神を選んだのではなく、神が私たちを選んでくださったからこそ、今があるのです。その視点に立つ時、私たちは、主に選ばれたことを誇ることができます。

ガラテヤ六章十四節には次のように書かれています。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』

私たちはイエスさまの死によって今ここに生かされています。イエスさまの十字架を仰ぎ、主の恵みを感じることができる。それは本当に大きな恵みです。

そんなこと思いめぐらせている時、クリスチャン小説家の三浦綾子先生の『塩狩峠』という本のことが頭に浮かびました。ご存じの方もおられると思いますが、私も若い時に本を読み、映画を見て涙したことが思い出されます。
鉄道員だった一人の青年 永野信夫さんは、キリスト教が大嫌いでしたが、やがてクリスチャンになりました。そして幼なじみのふじ子さんとの結納の日、名寄駅から札幌へ向かう途中の塩狩峠の頂上付近に来た時、彼の乗る最後尾の車両の連結部が外れる事故が起きたのです。このままではどんどん加速して脱線して大事故になるという、そんな状況になった時に、彼は自分の命を投げ出してその車輪の下敷きとなり、列車を止めたのです。その結果、その車両の乗客は皆助かったという実話です。みずからの命を投げ出して人々を救ったことで、世間のキリスト教に対する見方が大きく変わったとも言われています。
永野さんはキリストの十字架を誇りとし、自分の命をかけてキリストの愛を実践して主を証ししました。誰もがこのような方法をとることはできませんが、私たちも、それぞれに人生を通して主を誇り、キリストの愛を実践していく者となりたいと思います。

続いて一章三十節にはこうあります。

『あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。』

私たちは、イエスさまにより知恵が与えられ、義とされ、聖とされ、贖っていただけたと、パウロは伝えています。今、私たちがキリストの内にあるのは、ただただ神の恵みによるものです。
人は、誇りを失っては生きていけないと言われることもありますが、人間的な誇りではなく、神さまがイエスさまを与えてくださり、主に選ばれているという誇りを神さまからいただいている私たちは、イエスさまの存在を除いたら、誇れるものは何もないことを覚えてください。だからこそパウロはコリントの人たちに、また現代に生きる私たちに、『誇る者は、主の十字架を誇れ』と語っているのです。

私たち自身は何も持ってはいなくても、主はすべてを持っているお方であり、すべてを知っているお方です。そのことを認め、どんな時でもただ主に拠り頼み、主と共に生きる時、主のみ名があがめられます。
私たちには、主を証しするという目的があります。『誇る者は主を誇れ』のみことばを心に留め、いつも主の十字架を仰ぎ、主を愛し、主は素晴らしいと宣言し、称賛できるお方はイエスさましかいない、この方以外に救いはないことを宣べ伝えていきたいと思います。
来たる二〇二三年、私たち一人ひとりが主に選ばれていることを誇りとし、人に頼るのではなく、どこまでも主に頼る者とさせていただきましょう。また、争うことなく、心を合わせて主を賛美して、主の栄光をこの地に現す者とさせていただきましょう。ハレルヤ!


≪滝元開牧師≫

ハレルヤ!こうしてこの二〇二二年の最後の日に、こうして皆さんの前に立たせていただける、この大きな恵みを心から感謝しています。ただただ主の恵みと憐れみによって生かされている者でありますけども、様々なことがあった二〇二二年でした。
主が私たちの思い以上に、私たちの前を先立って働いてくださって、私たちの心がなかなかついていけないような中でも、主は確実に一歩一歩を導いてくださるという事を強く感じた一年でした。
それとともに、本当に大きな悲しみがありました。そんな中でも、主ははっきりと、確かに私たちを導く中での一つ一つの出来事でしたので、主のなさることというのはすべて時にかなって美しいことを信じて、来たる二〇二三年に向かって歩んでいきたいと思います。
身内になりますけども、寛太君の死がありました。彼が癒されて再びドラムを叩くことを心から願っていました。そして、また享子さんのことも、絶対死なないと信じておりました。でも神さまのなさることの中に無駄がないので、結果的に私たちの思いをはるかに超えた神の国の実現のための働きであったと信じて、本当に心から感謝しています。この滝元家の中で、二人の命が天に帰りましたけど、でも神さまは真実なお方で、祈った祈りを何一つ地に落とさないお方ですので、その分、これから主がされようとされていることはすごく大きなものだと、本当に信じています。
享子さんが天に帰って、享子さんがいろんな物をこの地に残してくださって、そしてそんな中で娘がこんなものを持って来ました。

享子さんのお家にあったものをいただいてきました。「これお父さん使って。」と言って、いただいたものが、この写真にあるカップで、これはノアの方舟の後に、鳩がオリーブの若葉をくわえて帰ってきた、その絵をカップにしたものだと思うのですが、この絵を見て一つのみことばが与えられました。
創世記八章十一節、

『鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。』

享子さんが天に帰った後に、このカップを見て、何か一つの神さまからのメッセージかなと思って受け取りました。ある意味、二〇二二年、主は確かに先立って導いてくださったことと共に、大洪水に見舞われたような、一年のみならず、特にこの三年の戦いが、本当に大洪水の只中での戦いの日々でした。でも主はそんな中でも絶えず励ましてくださって、確かに前へ前へと導いてくださったような一歩一歩だったなと思います。死を持って勝利を打ち立てられたイエスさまが、霊的戦いという大きな使命を順先生ご夫妻にお与えくださって、そして究極的な勝利のために、享子さんの死を持って勝利を打ち立ててくださったのかなと、そんなふうに感じております。
ですから私たち、本当にこの三年間、この新城教会が苦しみ、本当に主の前に呻くような祈りをずっとささげてきましたが、私たちは本当に心からもう一度主がしようとされている大きく永遠のご計画を受け止めて歩ませていただかなかったらいけないなぁと思っています。

昨年私が与えられたみことばの一つが、主の祝福というのが垣を越えるというみことばでしたけども、二〇二三年というのが垣を越えるどころか、鳩がその若葉を口にして飛び回るような、大きな主の祝福を与えようとされているのかなぁと、そのように強く感じています。
ですから、この二〇二三年、大洪水の水が引いて後、そして神さまの契約がこの地に現される、そのようなニ〇二三年であると信じて進み続けていきたいと、心から願う者であります。

創世記の九章を見ると、鳩がその若葉を取って来た後の出来事が書かれています。九章十二〜十六節、

『さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」』

神さまからの契約、神さまからのご計画は、私たちの思いをはるかに超えてなされるものであり、私たち、この地において生きているもので、目の先の、目の前の出来事の中で迷走してしまう者であり、時には自分の弱さの中で、主ご自身を見るのではなくて、なんとかして自分をなんとかしなきゃみたいな、そんな歩みをしていたような気がするのです。しかし主は、主のご計画、主の永遠のご計画、そして主が与えようとされている契約というのは、私たちの思いをはるかに超えた、大いなるご計画なので、それを私たち、もう一度しっかりと受け止めて歩く者でありたいなと心から思います。

『虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」』
とあります。

実は享子さんが病を宣告されて、その後、何度も虹を見ました。そして虹が立って、神さまの約束というものが必ず起こされるから!という、そんな希望を持って祈り続けて、例え命がこの地上で断たれても、きっと生き返るだろうなと、本当に思っていました。でも神さまのご計画はそれ以上に大きく、神さまの契約を、私たちとこの人類との契約を成し遂げるためには、この道を神さまは備えて、そして新たなる道へと導こうとされているんだなということを、本当に強く感じています。

享子さんが天に帰って、幾日か後に、すごく大きな虹が目の前に出ました。

皆さんいろんな所で見られて、それぞれ写真を撮っておられたと思いますけど、この教会をすっぽり包み込むような、

これは二十二日だったのですが、永遠の契約の虹というものが出て、神さまご自身のご計画というのは変わらないんだなぁと、もう一度受け止めました。

もう一つ私自身、与えられているみことばが、ヨハネの福音書十七章五節のみことばです。

『今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。』

私たち、この人類がこの地上に命を受ける前からの永遠の主の契約のご計画というのがある。それはあまりにも果てしなく大きく、偉大な、そして壮大なものであるわけですけど、イエスさまご自身がその壮大なご計画を全うするために、この地上に来られて、十字架にかかられた訳ですが、十字架を前に、もう一度父なる神さまに「父よ、」とお祈りした祈りがこの祈りで、
「わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
イエスさまが最後の最後にこの地上で、「もう一度、あの時の栄光を輝かせてください。」と父なる神様に語られました。そのための働きを今私たちに託してくださっていると思うのですが、世界が存在する前に持っていた、完全なるご栄光、天の父なる神さまだけがあがめられて、そしてサタンによって汚されていない栄光の奪回のために、ある意味、主の夢を、主ご自身が持っておられる夢を実現するために、私たちは戦い続ける者でありたいと、本当に心から願います。

もう一度、最初のみことばに返って終わりにさせていただきますけど、『鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。』