2023年カウントダウン・ワーシップ

『見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。』
(2017版では「国民」のところが「国々」とも書いてあります。)

このように主による敵に対する裁きが最初に書かれています。その文脈の中で、続いてヨエル書三章九〜十一節、

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。』

これは敵に対する裁きの中で、主ご自身が敵に対して語っている言葉であります。リビングバイブルでお読みします。

『このことを、できるだけ遠くまで告げ知らせよ。 戦いの準備をせよ。 精兵を集め、全軍を召集せよ。鋤を溶かして剣に打ち変え、鎌を打ち直して槍にせよ。 弱い者を強くせよ。諸国民よ。束になってかかって来い。』

こんな言葉が書かれています。諸国民に対して、敵に対して、主が命令している言葉であります。戦いの準備をしてみろ!弱い者もすべて全軍団よ、ヨシャパテの谷に集まって来い。鋤を溶かして剣に打ち変え、鎌を打ち直して槍にして立ち向かってみよ。そして束になってかかって来いと、やれるものならやってみよと言わんばかりの言葉が、主ご自身によって敵を裁くという中で語られているわけです。
その中でヨエルは何と言うかというと、十一節後半で、

『主よ。あなたの勇士たちを下してください』

リビングバイブルでは、

『神様、今こそ、神様の勇士たちを遣わしてください。』

このように書かれてあります。主の刈り入れの時が熟す時、私たちは主の勇士として立ち上がり、主の軍隊として集うようにと、この二〇二三年に対して覚えさせられています。

その裁きというのは、ヨシャパテの谷という所に敵軍を集めて主による裁きがなされていくわけですが、このヨシャパテという意味は、「主は裁かれる」という意味があります。第二歴代誌二十章にヨシャパテ王様の話がありますが、ヨシャパテ王様の話にも少し触れてみたいと思います。

二十章においておびただしい大軍が南ユダを攻めてきました。それによってヨシャパテ王、またユダの民は恐れました。そんな中で、ヨシャパテ王は何をしたかと言うと、悔い改めと主への全き献身を意味する断食を全国に布告したのです。全国民が断食をして、主に身をささげていったわけです。
そして第二歴代誌二十章四節、そして十三節をお読みします。

『ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、主を求めた。』
『ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。』

このおびただしい大軍に対してユダの民は恐れ、主を慕い求めて、主の前に全ての町々から人々が出てきたわけです。それは全員であります。幼子たちも、女性たちも、子どもたちも、すべての人が主の前に出てきたわけです。
そしてまた、第二歴代誌の二十章の戦いの時には、聖歌隊までも戦いの前線に出て行ったことを見ることができます。
二〇二三年、私たち新城教会の幼子からお年寄りまで、子どもたちから、女性も男性も、すべての世代が、主の勇士として立ち上がり、また主の軍隊として集うようにと、総力戦というものを求めておられると強く感じさせられています。
では、その中で主の勇士とされた私たちが、私たちの手で敵を滅ぼして勝利を得ることができるのか。敵が裁かれるのかというと、そうではないのです。第二歴代誌二十章十七節、
『この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」』

またヨエル書三章十二節もお読みします。

『諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。』

とあります。第二歴代誌において、「あなたがたが戦うのではなくて、わたしが戦う」と、主ご自身が勝利を与えてくださる。その中でただ動かずに立っていなさいと、主がなされること、その救いを見なさいと、神さまが語られています。そして私たちは勇気をもって、その戦いの前線へとただ出陣しなさいと言われています。

ヨエル書三章十二節では、「さばきの座に着く」、この主がさばきの座に着くというのは、さばきの座というのは王座とも言ってもよい座ではないかなと思います。その座から主ご自身が敵を裁かれ、勝利を与えてくださるということです。私たち自身が主の勇士として、主の軍隊として立ち上がり集うことは大切なことだとして示されていますが、私たちの力でその勝利が与えられるかというと、そうではなくて、主ご自身が勝利を与えてくださるのです。その約束があるのです。王座におられる王なる主が、さばきの座におられる主が、勝利を与えてくださるということです。

この二〇二三年、主の刈り入れの時が熟すと語られています。私たちはさばきの座におられる王の王なる主を仰ぎ見て、主を畏れて、子どもたちからお年寄りまで総力を尽くして、すべての新城教会員の方々が主の勇士として立ち上がり、主の軍隊として集い、主が用意されている裁きの谷であるヨシャパテの谷、その戦いの前線へと勇気を持って出て行く。そして敵に立ち向かう。そして私たちはただただ王なる主を賛美し礼拝する。
第二歴代誌二十章でヨシャパテ王は聖歌隊を戦いの最前線へと出しましたが、彼らは断食をして、礼拝を戦いの前にささげました。私たちができるこの主への礼拝をささげていくこと、それが私たちが大胆にかまを入れていくこであり、また酒ぶねのぶどうを踏むことになる。そのことが主ご自身が敵を打ち砕き、勝利を与えてくださることにつながるということを示されております。
そしてその歩みは、このヨエル書の後半で、終わりの日にイエスさまが再臨されて、神さまご自身がこの地に神の国を現し、建て上げ、主の祝福が流れることが書かれてありますが、やがて帰られる主の日に備えるものであり、永遠の栄光、神のみ国の到来へと繋がっていく、そのようにも励まされています。

最後に、このヨエル書三章十三節をもう一度お読みしたいと思います。これは主の勇士たちへの主からの命令として書かれている言葉です。

『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。』

二〇二三年、主の刈り入れの時が熟します。主に期待して、大胆にかまを入れて、酒ぶねに入って、ぶどうを踏みましょう。これが二〇二三年に対して私が主から示されているみことばであります。主に期待の拍手をおささげしましょう!


≪鈴木陽介副牧師≫

ハレルヤ!主のみ名を心から賛美します。二〇二二年、最後の日、こうしてみことばを取り次がせていただけて感謝します。
まず二〇二二年のみことばとして、私は「布陣を敷け」というテーマで語らせていただきました。そのようなみことばとともに始まったこの年、多くの主の働きがありました。
ヘブンズアイスクリーム&コーヒーの働きについて、少しだけ振り返らせていただくと、昨年の十二月のクリスマスのパーティープランに引き続き春にアフタヌーンティープランというものをさせていただきました。地域の方々が喜んで集い、店を利用してくださいました。そして福音に触れる機会が今までにない形で地域の人たちに提供できている。その働きを担わせていただいているその恵みを本当に感謝しています。
七月九日には、一周年記念のイベントがありました。大雨の中とても多くの方々が、この教会に、何かを勝ち取ろうというぐらいの勢いで押し寄せました。本当にとてつもなく大きな鮮やかな主の奇跡だったと振り返ることができます。

そして二〇二二年単体でと言うよりは、私たちの家族にとってはこの三年間という大きなひとまとまりで振り返ることにもなりますが、享子さんの病が九月、十月以降、ひときわ厳しくなり、私たち家族の生活も大きく変わりました。そこからも多くのことを主から学ばせていただきました。多くの兄妹姉妹の愛にたくさん触れることができました。主が与えてくださる恵みは本当に私たちの思いをはるか超えた中にあると、二〇二二年を振り返る中に考えさせられております。

二〇二三年に向けてのみことばですけれども、ヨハネの福音書六章二十七節、こちらのみことばが、示されています。

『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。』
ここに「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」という、イエスさまの言葉が書かれています。

この二〇二二年、我が家にとっては大きな痛みがあり、壮絶な戦いが最後にありました。その様な中にあって、私たちのこの地上の歩み、お一人お一人の歩みが何のためであるのかということを改めて、ただただ主のみことばに返って学んでいきたいと思います。私たちは地上の生活を豊かに楽しく、多くの方と愛し合って、調和して楽しむためにこの地上に生かされているわけではありません。もちろんそれらが主の恵みによって与えられ、私たちの集まりの中に表されること、それ自体は本当に素晴らしいことです。しかし一方で私たちは、どの様な使命を帯びてこの地上で生かされているのか、その一点を忘れてはいけないと、私自身もこの三年間を通して主から何度も語られております。
「なくなる食物のためではなく」という視点は、言い換えるならば「この地上の出来事に目を止めるのではなく」と受け取ることができます。そして「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」とあるように、私たちは、永遠を見据えてこの地上で一生懸命生きる、そのような存在であります。
享子さんの闘病について、私たちの家族の話になってしまって申し訳なく思いますが、少しだけお話しさせていただきたいと思います。やはりこの新城教会の主任牧師夫妻という立場で戦われた戦いですので、それは個人的なものではないと思います。お二人とも最後まで、この教会そのもの、またこの教会に託されている主の働きそのものを背負って戦われた、そういった事実があります。地上的な視点ではなく、天的な視点でお話を聞いていただけると感謝です。

十二月一八日に召される直前の三ヶ月余りは本当に大変な状況でした。しかし、享子さんは最後まで諦めずに信仰を持って闘い、「闘病」というかたちで最後まで主の使命を果たしました。
順牧師が語られた様に、その死は敗北ではなく勝利でありました。サムソンが生きている時に倒した敵よりも、死んだ時に倒した敵の方が多かったと聖書に記されているように。そのような視点でこの地上での決着を、神さまが示してくださっています。
そしてまた、この闘病に際して、それぞれの役割がありました。私たち家族としては順先生、そして私の妻、ご夫妻の娘である里辺架、そして東京に住んでいる息子の堅志さん、その四人家族で、最後まで看取った形になります。最前線の戦いがそこにありました。また私の家族、私の子ども、享子さんご夫妻からすると孫にとっての戦いの現場というのも確かにありました。子どもたちがこの三年間、大きく成長して大きな戦力として主の働きを担ってくれました。
そしてもちろん、この教会全体として、皆さんが祈り戦ってくださいました。それぞれがすべて同じ戦いの別々の戦況ということなのです。それぞれ同じ戦いでそれぞれでしか果たせない役割を果たしていただきました。