〜2022年〜「それは主の復讐の年」
「主よ。もう一度、栄光を現して下さい!」Part2

2022年11月6日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ヨハネの福音書  12章27節~28節

『今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」』

皆さん、おはようございます。新城教会出身のミュージシャンたちが成長している姿を見て心から感謝しています。
お祈りしていただいている家内ですが、状況的にはあまり良くはありません。とりなしの祈りが必要ですので、続けてよろしくお願いいたします、
先々週、私はこのみことばを主からいただきました。それはもう一度、主が栄光を現してくださるという約束です。このみことばに期待を持って祈っています。一度は主が栄光を現してくださったことは確かです。三ヶ月、四ヶ月の命という家内を癒し、皆さんの前で証しをするほどにまで回復して下さいました。
ですから、もう一度、主が栄光を現してくださり、家内がこの場所に立って、証ししてくれる日を信じ、期待しています。

ヨハネの福音書十二章二十七節から二十八節の記述、ここを読むとイエスさまが十字架を前にして、大変心が騒いだようです。イエスさまの公生涯は、神の栄光の現れ以外のなにものでもありませんでした。しかしこの場に及んでと言うか、最後は、祭司長や律法学者たちに捕らえられて、十字架刑です。イエスさまも心騒いで、「この苦き杯を取り除いてください」とまでお祈りされました。
しかし気を取り直して、「わたしはこのために地上に来たのではないか。」と、父なる神さまに、「主よ、栄光を現してください。」と祈ったとき、天から「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と、父なる神が直接語られました。
その後、イエスさまは十字架の死と復活を経験して、イスラエルだけの救いを、全世界、全宇宙の救いにまで拡大され、二度目の大いなる栄光が現されたのです。

話は変わりますが、本日の礼拝後、婚約式があります。誰が婚約されるかというと、UさんとHさんです。最近、結婚式・婚約式が多くて嬉しいです。
今日は、十一月六日ですが、一九七六年十一月七日は私と家内が結婚した日です。明日です。でも一九七六年十一月七日は日曜日だったので、今日という感じです。四十六年間、よくぞやってきたものですが、婚約式・結婚式は華やかですけれど、結婚生活には重みがあります。
結婚式の時、このような誓約をいたします。教会で結婚されたならば、この誓約をされたと思います。

「あなたはこの女性(男性)と結婚し、神の定めに従って夫婦になろうとしています。あなたは神の教えに従って、その健やかなときも、病めるときも、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの日の限り、堅く節操を守ることを誓いますか。」

結婚は、この誓約文に対して「誓います。」と応えて、成立するわけです。私も四十六年前、誓約しました。でも、あまり深いことは考えていませんでした。しかしこの内容は、「その健やかなときも、病めるときも、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちの日の限り・・・、」と続いています。

私も、病める家内をサポートするのは、本当に大変です。でも結婚したら、このようなことはどなたにも添付されています。早かれ遅かれ、どちらかが先に行きますから。
今日も婚約式がありますが、やはり覚悟が必要です。本当に人生、様々なことがあって、人間の力ではどうすることもできない場面に遭遇します。
イエスさまを神とし、救い主として信じると事が出来て、本当に感謝です。緊急時に頼れる神さまがおられるからです。

先々週のメッセージでは、私が家内と出会ったいきさつをお話しさせていただきましたが、結婚前に与えられたみことばは、生涯を貫くみことばだったと思います。前回も話しましたが、「享子ちゃんを私にちょうだい。」と祈っている時、誰かが私の耳元で、「ルカ伝の十一章を読め。」と囁きました。
それでルカの十一章を読んだら、主の祈りが書かれていました。「なんだ、主の祈りか・・、空耳かな・・。」と思ったけれど、読み進むと、三つのパンを貸してくださいというストーリーでした。夜中に空腹の友達が訪ねて来たので、隣の友人の所にパンを借りに行くと、「こんな夜中に借りに来るなよ!」という話です。それでも、しつこく、「お願いだからパンを貸してくれ!」と頼んだら、友人ということで貸すのではなくて、あまりにもしつこいから、必要なものを何でも与えるという例え話をイエスさまが話されたわけです。
「しつこさのゆえなら、起き上がって必要なものを何でもあげる!」ということで、これが祈りの秘訣です。

私は家内と結婚する前に、主からこのみこばをいただきました。初めは交際を断られたのですが、何しろ、しつこさのゆえならば神さまが起き上がって、享子ちゃんをくれるだろうと、しつこく主に祈ってみたという話をしました。
その結果、主が家内をくださいました。その体験から、しつこく祈ることは、重要だと信じています。

しかしこの結論は、「聖霊が来てくださる」という、いわばリバイバルについてのメッセージです。
一つの祈りが答えられたなら、そこで祈りは停止するわけではないのです。「祈りが答えられた!やったぜ!」ではなくて、さらにその祈りは前に進んでいきます。
まさに私の人生、家内をゲットしただけでは祈りは止まりませんでした。その後の私の人生、それは常に、しつこく祈るというテーマがつきまとっている気がします。
そして今、最後の局面を迎えている気がするのです。私は家内のいやしを絶対に諦めずに、しつこく祈ろう!と、決意しています。「しつこさのゆえならば起き上がり、必要なものを何でもあげる!」と約束されていますから、しつこく、しつこく神の前に出て、奇跡を力の限り祈ってみよう!と決断しています。
すでに過ぎる三年間、しつこく祈った結果、一つの栄光を見せていただきました。しかしもう一度、しくこく祈って、主の栄光を見せていただきたいと願っています。

しかしこの祈りは、ただ家内の癒やしだけでなく、聖霊が来てくださる、すなわち、リバイバルのための戦いだと信じています。

聖書の中に、しつこく祈ったサンプルというか、これぞしつこさの典型と思われる記事があります。それはマタイの福音書十五章二十一〜二十二節です。

『イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。』

イエスさまの活動の本拠地は、ガリラヤ湖周辺でしたが、ある時、イエスさまはツロとシドンに出かけました。ここはイスラエルではなく、今のレバノン付近の外国にあたります。一見、イエスさまは外国に宣教に行かれたわけです。その地方には当時、カナン人という原住民たちが住んでいました。
すると原住民の女が出てきて、「主よ!ダビデの子よ!私を憐れんでください!」と真剣にイエスさまに嘆願したのです。
しかしこの時のイエスさまは、どんな態度だったのか。その記録を読むと、「えっ?」という反応になります。

『しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」』

この女、命がけで、「イエスさま、私を助けてください!娘を癒してください!」と叫んだのにも関わらず、『しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。』と記録されています。信じられないほど、冷たいイエスさまですね。
弟子たちは、「イエスさま、この女を去らせてください。うるさくて仕方ありません。」と言って、困っている女性を追っ払おうとしたのです。弟子達の態度もひどいです。
しかしナカン人の女は、ここまで冷たくされても、なおもイエスさまの前に回り込んで、ひれ伏して、「イエスさま、助けてください!」とにじり寄っています。
どうでしょうか。まさしく、これはしつこくイエスさまに祈る姿ではないでしょうか。
イエスさまも、「それじゃぁ癒やしてやるか。」と、癒やしてあげればいいのに、次の言葉は信じられません。

『すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」』

なんということでしょう。イエスさまが、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げるのは良くないことだ。」とまで言われたのです。「子どもたち」とは、イスラエルの人たちのことです。「子犬」とは、原住民のカナン人を指しています。イエスさまは、「わたしは滅び行くイスラエルの民のために来たのだ。カナン人のために来たのではない。」とまで言われています。
こんな場面を読むと、異邦人である私たちの祈りって、果たして聞かれるのかと心配になります。イエスさまは、私たちの祈りに耳を傾けて、答えてくださる愛の深い方ではなかったのでしょうか。
しかしこの記述によれば、カナン人がいくら叫んでもイエスさまは無視されたばかりか、「子どもたちのパンを取り上げて子犬に投げるのは良くないことだ。」とまで言われたのです。

こう言われたら、どうでしょうか。あまりにもカナン人をバカにしていますから、普通の人なら怒ります。また、「カナン人は救いから除外されている。」という意味になります。
しかし、この時、カナン人の女性はどのような態度をとったかということです。皆さんならば、どんな態度を取られますか?自分に置き換えて考えてみてください。
例えば私がイエスさまに、「家内が死にそうです。助けてください!」としつこく迫ると、イエスさまは私の祈りを無視されて、あげくのた果てには、「子どもたちのパンを取り上げて日本人の滝元順に投げてやるのは良いことじゃない。」とまで言われたら、撃沈です。私なら怒って帰るかもしれません。
しかし、カナン人の女はすごいです。

『彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。』

一見、ここはイエスさまを誤解してしまいそうな記事ですが、実は、大変重要なことを教えています。
これは旧約聖書から新約聖書に至る「救済の歴史」を知らないと正しく理解できない箇所でもあります。イエスさまは旧約聖書の預言にしたがって、まずは、失われたイスラエルの民のために来られたのは確かです。しかしやがて、二度目の栄光によって、異邦人たちにも、救いが提供されるようになったわけです。この箇所はその過渡期の記事なのです。その為、カナン人の女は無視された状況であったわけです。
当時は民族ごとに神々があって、戦争とは神々の戦いでした。イスラエルは天地宇宙を造られた創造主を神としていたのですが、カナン人は、縄文人と同じで、土偶を神として拝んでいました。しかしこのカナン人の女は、偶像礼拝のただ中で、「もしかしたら、イスラエルの神が本物じゃないだろうか?」と気づいたわけです。

イエスさまはなぜ、ツロとシドンに行かれたのでしょうか。それは異邦人伝道ではないのです。
イスラエルの人たちは当時から、ディアスポラと言って、様々な国に散らされて、自分たちのコミュニティーを形成していました。イスラエルの滅びゆく子らが、外国にもコミュニティーを作っていたわけです。ゆえにイエスさまは、ガリラヤからわざわざツロとシドンに行って、異民族の只中に住んでいるイスラエルのコミュニティーに、福音を伝えようとされたわけです。カナン人の女との遭遇は、その道中の出来事でした。
カナン人の女は、イスラエルの神と神が遣わされた器である、イエスさまに全幅の期待を寄せました。イエスさまに「子犬」呼ばわりされても、傷つくことはありませんでした。
「子犬」という言葉、これは「野良犬」とは違う種類の言葉が使われています。子犬とは家族のペットです。ということは、子犬という言葉をイエスさまから聞いて、「私は野良犬ではなくて、ペットと認めてもらっているんだ!」と理解したと思います。イスラエルの神から、除外視されていないと信仰を持ったと思うのです。それで、イエスさまの語られた「子犬にパンを投げてやるのはよくない」という言葉を、ひっくり返すような発言をしたのです。
「それはごもっともですが、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と、彼女は、イエスさまに切り替したのです。その時、事態は動いたのです。