豊かになる秘訣

2024年2月11日(日)新城教会牧師 公畑フェルナンド

第二列王記4章1〜4節
” 預言者のともがらの妻のひとりが エリシャに叫んで言った。「あなたの しもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」 彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」”

ハレルヤ!感謝します。さっきの子どもバンド、素晴らしかったですね。本当に次の世代が準備されているので、嬉しいです。皆さん、いつも私たちのために、インターナショナル部会のために祈ってくださり、本当に心から感謝します。あまり時間がないので、メッセージに入りましょう。

今日私が皆さんにお話しするテーマは教会ではあまり取り上げられないものです。しかし主は、神の言葉のすべての助言を教えるように私たちに言われます。ですから今日はこのテーマでお話ししていきます。

今読んでくださった聖書箇所を見ると、とても困難な状況にある一人の女性が出てきます。聖書には、この女性が神を信じていたと書かれています。それはそのご主人が預言者であったからです。しかしその預言者の夫が死に、彼女の人生は変わりました。
今彼女には夫がいなくなり、その子どもたちも父親をなくしました。そして聖書にはこの女性が生活費を受ける術がなくなったことを示唆しています。彼女は夫に経済的に依存していたと思われます。聖書にはその負債がとても大きかったので、二人の子どもを失いかけていたと書かれています。なぜなら貸主が迫ってきており、彼女はどうすればよいかわからなかったのです。

私は実はこのやもめの話がとても好きです。それは彼女が預言者エリシャの言うことをそのとおりに行ったからです。言われた通り容器に油を満たすことから始め、そしてその空の容器がなくなると、エリシャは彼女にこう言いました。「その油を売りなさい。そしてあなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」と言いました。
ここで聖書はその女性や子どもたちの年齢を言っていません。しかし私が考えるに、そのお金は、彼女が一生、生きるために十分であったと思います。生活に必要なものが全て与えられたと思います。
このような奇跡をあなたが好きかどうかは、私にはわかりませんが、私はとても好きです!私が好きな理由は、神が言葉を発して私たちを祝福してくださるところです。そして、その時この奇跡を行った同じ神が、今も同じようにしてくださると信じます。神には限界がないからです!

このやもめの油が増えるという奇跡は、彼女の従順がもたらした奇跡でした。神は少量の油を用いて彼女を祝福しました。この場合と同じように、私たちの問題をも神様は解決してくださいます。神が求めることに従順になることが必要です。
ただ、今は油ではなく、十分の一献金と普通献金によるのです。聖書の多くの箇所で、お金について教えています。申命記二十六章一〜二節、

“あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。”

レビ記二十七章三十節、
“こうして地の十分の一は、地の 産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。”

聖書は私たちが豊かになる方法をわかりやすく教えています。それは十分の一献金と普通献金のことです。そしてこのメッセージの目的は聖書の原則を皆さんに教え、皆さんの経済状態を変えることになります。そして私の唯一の意図は、皆さん一人ひとりとそのご家族が、神の豊かさを味わうことにあるのです。なぜなら聖書を読めば、神さまという方は余りあるほどに祝福してくださる神であることがわかります。溢れるほどの祝福を私たちに与えてくださる神さまです。
ただ時々、私たちはそれがわかっていながら実際に体験することができないでいます。それは本当に残念に思うのですが、クリスチャンでありながら借金まみれの人がいたり、また貧乏人のメンタリティーを持っている方を見ると本当に残念だと思います。私は、神さまは必ず必要を与えてくださる方であることを確信しています。

もしあなたが十分の一献金をしたくないなら、それはあなたの決断です。ここにいる誰もあなたに無理強いすることはありません。こんなふうに言いません。「十分の一献金するか、もしくは教会に来ないか、どちらか。」とは言いません。決してこんなことは言いません。それはあなたが決めることだからです。
しかし今朝、私はあなたにこの聖書の原則を理解していただきたいと思っています。なぜなら私のメッセージの目的は、時に私たちが陥る経済的問題からの脱出であるからです。出エジプト記二十五章一〜二節、

“主はモーセに告げられた。「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。”

その後の聖書箇所を見ると、七節までは奉納物として受けることのできる物のリストが書いてあります。しかし私の注意を最も引いたのは、「強く求められるからではなく、強いられてでもなく、献げる人は心からしなさい」と言っている点です。
神がどういうお方であるかを知っていただきたいのです。十分の一献金の原則があります。それは私にとっては命令と同じなのです。しかしマラキが言っている通り「わたしを試してみよ。」と神さまは仰っており、つまりそれはあなたが決めなさいということです。出すのか出さないのか、あなたの決断によるのです。誰もあなたを強いることはしません。

今お読みした三節の所で神さまはこうも言っています。言い換えれば、このように言っています。「このリストはわたしがあなたがたから献げられるのを待っている物ですよ。」ということです。
神さまは、いつも私たちが差し出すものを尊重してくださいます。期待していてくださっています。私たちが神さまにささげるとき、それは神さまが私たちにとって一番の存在であること宣言しているのと同じことなのです!

私は何年もの間、十分の一献金や普通献金に反する意見を聞いてきました。いろいろな意見がありました。その中には、「献金は牧師が裕福になるためのものだ」とか、「すべては牧師の懐に入るのでしょう?」という意見を聞きました。また「教会は金のことばかり言う」とか、「十分の一献金とは旧約聖書の時代だけのものだ。」「今私は新しい契約の時代に生きているから関係ない。新約聖書には十分の一のことなんて書かれていないから。」と言う人もいました。
また「十分の一とはお金だけの事ではないから、ジャガイモや、バナナ、トマト、羊をもって行けば良いのではないか?」と言う人もいました。またこういう人もいました。「私は十分の一献金を教会にはしない。だってその分を叔母に仕送りするから。」
またこういう人もいました。「教会は金持ちなのにまだ要求するのか」と言い、また一度こう言われたこともあります。「私が会社をクビになったら、私は自分の教会を立てて、十分の一献金で生活しようかな。」と。こういう人は簡単なことだと思っているのでしょうか。

次のことを言いたいです。多くの神に仕える人がこの聖書の原則を乱用した事実があるということは、私も認識しております。本当に残念ですが、そういう人たちが聖書の原則を悪用したことがあります。
しかしまた、はっきりとした事実もあります。それは、神は彼らを裁かれるということです。なぜなら神さまという方は、侮ることができない方だからです。

しかしそれに加えて、一つの疑問があります。なぜ十分の一献金や普通献金に対してこんなに攻撃があるのでしょう? なぜでしょう?なぜこのテーマで人と話すとき、いつも攻撃を受けるのでしょう?
考えていただきたいことがあります。おそらく私たちの敵は、何とかして私たちが祝福されないように背後で働いているのではないか、ということです。私たちの敵は私たちが借金にまみれ、貧しい中にいるようにしたいのではないでしょうか。

しかし神が私たちを経済的にも成功者にしたがっておられるいうことを理解したとき、私の考え方は変わりました。なぜなら神さまという方は豊かな神さまであるからです。聖書の中に神さまがお金を貸してもらうということは出てきません。そんな記事を読んだことがありますか?絶対ありえません!
聖書を見れば、神は私たちが経済的に自由になることに関心があることが分かります。また申命記二十八章には「主はあなたを頭とならせ、尾とはならせない。」と書いてあります。

このメッセージが終わった時に、「ああ、いいメッセージだったね。」とただ、みなさんに言ってもらって終わりたくはないのです。そうではなく、この祝福が皆さん一人ひとりに実現してほしいと願っています。
私たちは考え方を新しくする必要があります。そして今年が今までとは全く異なった年になるために決心しなければなりません。二〇二四年に対してあなたが計画していることを私は知りません。しかし私は主にこう祈りました。「私の二〇二四年はすべての面で今までとは違うものにならなければなりません!」と。
私の二〇二三年は悪い年ではありませんでしたが、今私は聖書が言うことを理解し、聖書には栄光から栄光へと神の栄光が増していくことを言っているので、私もそのように栄光が増し加えられる人生を望んでいます。そしてそれが教会にもなることを望んでいます。今年は今までとは違う年になって欲しいのです!もちろん経済的領域についても今までとは違った年になることを望んでいます。

創世記四章を読みたいと思います。三〜七節、

“ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中からそれも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、 受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」”

この箇所では詳細があまり書かれていないので、よく分析することができませんが、興味深いことが書いてあります。例えば七節に、「正しく行うこと」と、「正しく行わないこと」が書いてあります。アベルの献げものは神に受け入れらました。それはアベルが正しく行ったからです。しかしカインは正しく行わなかったので神に受け入れられませんでした。
ここを読む時、カインが自分の作物の中から良い物をささげたのであって、腐ったジャガイモや虫の食った野菜をささげた訳ではないのです。彼はそんなことはしませんでした。おそらく彼は自分の作物の中から一番良い物を神にささげたと思います。しかし何が差をつけたのでしょうか?この箇所から解釈すると、神はすでに彼らに、動物の献げものを持ってくるように求めていたのです。それで神はアベルの献げた物を喜んだのであって、カインのではありませんでした。つまり、カインは自分に都合の良い物を神さまが喜ぶと思って献げたのです。