Exile, Hope, and The Now and Coming Kingdom
捕囚、希望、そして『すでに』と『いまだ』の神の国

2024年2月18日(日)ヤキマ・バレ- ジョー・ハイト牧師

※通訳:ドリア・山崎ランサム

おはようございます。前回来てから四年が経ちます。四年前は日本語を十くらい知っていましたが、今は八くらいになってしまいました。ピアスとやえと、子どもたちは私たちと半年ぐらい一緒に住みました。彼らの子どもたちが非常に困ったことをした時には、よくわかります。子どもたちに怒る時には、日本語が出てきます。ピアスもですが、やえが最高です。本当にここにいることができて、皆さんとお会いできて嬉しいです。成長した人もいますし、新しい赤ちゃんもいますし、これは全て、順先生が機内で聖書を読んでいたからです。見方によっては、機内で聖書を読んだことはいいことだと言うべきなのか、そうではないのかは見方によります。
良い見方を取りますと、私たちはやえと孫たちをもらいました。ピアスにとっては非常に良かったです。でも今思うのは、やえとその家族にとっては、順先生が聖書を読んでいたことは良いことだったのかを問いたいと思います。滝川まりさんにも聞くべき質問だと思います。しかし全て、本当に良いことですね。

神さまが私たちに非常に大事な関係を与えてくださっています。私たちはほんの一部、主がやろうとしているこのことが、この中で見えています。良い出来事ですが、それよりも私たちが今は知らない、もしくはみ国に帰るまで知らないかもしれないことにも繋がっています。
人間関係とは、時には難しいです。時には衝突だったり、チャレンジだったり、病気だったりあります。でも主は互いに愛しなさいと言い続けます。どんな関係でも互いに仕え合い、赦し合い、そして与え合うのが、関係の中では大事です。
それは今アメリカの、大きな意味でキリスト教会にとっては、とても大きな挑戦でもあります。キリストを知らなければならないというこの世に、キリストを見せることが、今アメリカの教会にとっては非常に大きな挑戦です。

前回来たのは四年前ですが、ちょうどコロナが始まる一ヶ月前でした。私が日本からアメリカに帰国する一日前、中国からコロナをアメリカに運んだ中国人が、シアトルに飛んだのです。それでアメリカのすべてが変わりました。本当に大きなチャレンジでした。
アメリカでは八ヶ月ぐらい、一緒に会って礼拝をすることができませんでした。数人が来て、カメラに向かって説教していました。少し暖かくなった時は、教会の駐車場で礼拝を持ちました。やがて一緒に礼拝することができるようになりました。
私たちの教会はそんなに催し物をたくさんせずに、関係を通して自分たちの信仰を築き上げ、キリストを信じていない人たちと関係を作ることに重きを置いています。コロナになってから、しばらくの間は、まあまあ良かったです。繋がりがすごく強かったので。
でもしばらくして、互いに会えないというのが傷みとなり始めました。顔と顔を合わせて一緒に礼拝をすることができず、しかもその礼拝堂で主に向かって礼拝できないというのが、時間が経つにつれ、大きなダメージとなりました。少しずつ人が消えていくのを見ました。高速の出口を車が降りていくみたいに、教会から降りて、世の中に走っていく感じでした。教会の中の重要なリーダーたちでさえ、本当にイエスさまを信じていいのか?と思い始めた人もいるぐらいでした。私たちの教会だけではなく、アメリカのキリストの体が、どんどん小さくなっていきました。たぶん半分ぐらいかと思いますが、蒸発したような感じです。
それで教会の中でも政治や神学について、いろいろな議論が始まりました。今年アメリカで大統領選挙がありますが、ある教会は、「あなたがこの人に票を入れるなら、クリスチャンではない。」と言い張るぐらいです。また他のクリスチャンは、「いや、この人に投票したら、絶対にクリスチャンではない。」と。アメリカの教会は今、本当に病んでいます。今までで一番ひどい状態です。このアメリカの文化の中にある、外向きのものに目を向けていて、全くイエスさまの方に目を向けていません。

ここにも来たことがあるジョン牧師と私は、私たちにとって捕囚の中で生きるとはどういう意味があるのか?という話を始めました。
こちらに来る前の日曜日に、小さな祈祷会があり、その中でジョン牧師が、主任牧師に赴任しました。なので私はもう主任牧師ではありません。私の新しい肩書きは、「一番重要な牧師」です。今はジョン先生が私のボスです。私はもしかしたら「創立牧師」とか、「名誉牧師」とか、「あいつ」とかになるかなぁと思います。今は責任から放たれました。これからは何も私のせいではありません。すべてジョン牧師のせいです。いいことです。
私たちは「Exile」、英語だと「捕囚」とか「島流し」という意味の言葉ですが、島流しにされ・捕囚された者として生きるとは、どういう意義なのでしょうか?というのは、アメリカでは今、教会は悪いものとして見られているからです。
多くの人は、「アメリカに教会がなかったら、アメリカはもっといい国なのに。」と言います。ほとんどの人は、アメリカの教会イコール「好きではない。」という以外の知識はないです。多くの場合アメリカの教会は、イエスさまの愛、そして神の国の希望を示すことを全く忘れています。
なので、イエスさまの愛と希望、約束を知らなければいけない人たちに「悪いものだ」と思われている文化の中に生きながら、どのようにそれを見せるか?というのを学ぶ必要があります。
一月中は、私たちの教会では、「捕囚の中で生きる」というテーマを教えました。ジョン先生が捕囚についての説教をしましたが、エレミヤ書二十九章から話しました。それは、エレミヤがバビロン捕囚に連れて行かれた人たちに対して書いた手紙の内容でした。エレミヤ書二十九章四〜七節のみことばです。

“「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』”

民が捕囚の中にいたにも関わらず、エレミヤがこのような導きと、希望の言葉を送りました。「家族としてのあり方を続けなさい。」
私たちの教会にもそのように主が語りました。難しい時代ではあるが、家族としてのあり方を忘れないでください。自分がその捕囚に連れて行かれた地で、成長できるような生き方をしなさい。子どもを産んで増やせ。絶えてはいけません。
七節が私たちの教会にとって一番重要だと感じました。

“その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』”

これが犠牲であり、奉仕です。自分の周りにいるクリスチャンにも、クリスチャンでない人にも仕えることです。他の人がその人生において、平安と繁栄があるように「あなたも働きなさい」ということです。わがままでいてはいけません。仕えて、与えて、赦す。他の人にイエスさまがどのような方、どのような実を人生に結んでいるのか、その恵みを皆に見せなさい。それが、捕囚に連れて行かれた時の緊急の命令です。
でもこの捕囚が長い時もあります。時には人間としてそれは非常に困難な状況です。コロナがやってきた時、私たちの教会は非常に強かったです。その時から、ジョン先生を主任牧師にしようという動きが始まりました。私は、「強く終わるんだ!強くて良い牧師だった!私は生涯、これを成し遂げて、主からの報いを受けるんだ!」と思っていました。そしてコロナになりました。すると教会が百五十人くらいから、七十五人くらいまで落ち込みました。私は鬱になりました。自分が失敗したのではないかと思い、時には神さまに、「何でこれを私にやったのか」と怒ったりもしました。それをジョン先生のせいにしたり、奥さんのせいにしたり、順先生のせいにしたり・・。
でも神さまからは、「今、既にある国があります。」と言われました。「そして神の国は時間が経てば完成するものである」と。それは大きいものであろうと、小さいものであろうと、実を多く結ぶ、結ばないではなく、やがてくる神の国に貢献することに忠実でないといけないのです。
それで家庭集会で、黙示録を読み始めました。聖書の通読をしますが、ロビンが私たちの家庭集会のリーダーです。私は疲れているから、彼女がやってくれています。通読の中で黙示録に来て、それから旧約聖書に戻りました。
しかし私は、皆が旧約を読み始めた時、なんとなく、黙示録にとどまるように導かれました。黙示録の概念が、自分の心の中に落ちました。黙示録の一章九節では、ヨハネが自分のことを語っていて、「私はあなたの困難にあってのパートナーである。同労者です。」と伝えています。神の国の中において、同労者です。そして忍耐の中でも、パートナーです。そして私は島流しにされました。
この島に流されている時、神さまからヨハネはものすごく大事なメッセージを受け取りました。私たちは時に神さまから、何か学ばなければいけないことがあってこそ、捕囚にされている、島流しにされていることがあります。その中で、決して諦めることなく、互いに向き合って、神に向き合う必要があります。それは気持ちのいいことではないかもしれません。幸せなことではないかもしれません。
この数年間で、大きな衝撃、大きな損失を受けた人もいます。でもヨハネのように、私たちは常に、イエスさまを見ていないといけなくて、イエスさまに自分の心をささげ、そしてイエスさまに目を向ける必要があります。

黙示録が向けられた相手とは、もう諦める寸前だった人たちです。イエスさまが再臨する、戻ってくるとずっと聞かされていて、ずっと祈って、ずっと待っていたのですが、それが起きるどころか、彼らは、「イエスさまは帰ってこない。あなたたちはいらない。」という、迫害され始めた文化のただ中にいました。
そしてヨハネから、この人たちに、「忍耐しなさい」というメッセージが送られたのです。「その国はやがて完成されます。」黙示録で何回も繰り返されるのが、子羊が龍と戦い、勝利をする!と書いてある事です。
その中では、何名かが苦しんで殉教する、死ぬ人もいます。でもそれは神の国がやがて来ることを止めることにならないのです。

開かなくて結構ですが、黙示録四章六〜十一節について言及します。これを読むと、本当に壮大な、信じられないぐらい栄光に満ちた神のみ座があって、そこには超自然的な存在がいたり、二十四人の長老がいる。
このみことばが何を言っているのかというと、「この地球上で起きているすべてのことを心配するのをやめなさい!わたしの前にひざまずきなさい!」と言う事です。「わたしが主であることに目を向けなさい。わたしを礼拝しなさい。」
「わたしを礼拝しなさい。」・・それは礼拝の中で何か気持ちよく歌うとかではなくて、イエス・キリストが主であることを認めることが礼拝なのです。そこで超自然的な存在や、長老たちが歌っているのは、「聖なる聖なる聖なる主、全能の神。彼は昔もいます。今もいます。そして来るべきお方です。」すべてが変わっても、神さまは変わりません。
そして続いて、二十四人の長老たちは、自分の冠を取って、ひざまずいて主の前に置きます。「あなた以外、権威のある者はいません。私は権威のある者ではありません。主のみが権威を持つ者です。あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしいお方です。あなたがすべてのものを創造し、すべてはあなたのために存在しているのです。」
私たちは何も造っていません。私たちは冠を置いて、主イエスの前にひざまずく必要があります。何があっても。

五章にいきますと、「子羊は尊いお方です。」とあります。この子羊、ささげられたイエスさまが唯一、龍に勝利するにふさわしい、勝利することができるお方です。
このみことばの知恵とは何かといいますと、この天にあるものが地上で起きているものを現しているのではなくて、天にあるヨハネが見ているものが、地上のあるべき姿なのです。
礼拝とは、捕囚にいながらとても重要なことです。私たちが主イエス以外に信頼しているものはないという、その告白です。私たちが信仰しているものは、自分自身ではなくて、主イエスのみである。礼拝というのは、主が主であることを認めることです。主が私たちの力である。私たちがへりくだって主のみ前に出る。主が私たちの希望です。
そして、主の臨在が私たちの人生の中にあるからこそ、私たちは徐々に主に似た者に変えられます。