平和の福音の使者として戦う

二番目に、キリストのからだの各器官であることを互いに認め合うということです。六節から八節までに書いてあります。私たちがそれぞれ体の各器官であって、教会がキリストの身体であるということが、ここに書かれています。そしてそれぞれが異なった働きをするけど、すべての人が必要で、すべての人が賜物を用いることによって、教会が機能し、そして賜物を用いることによって、自分ではなく教会が、そこにいる人たちの徳が高まっていく。一人ひとりが賜物を通してキリストの恵み、愛を知って、さらに成長できるというのが、キリストのからだの各器官であることを互いに認め合い仕え合うということによって起こされていくということであります。

その後、九節からは何と言っているかというと、偽りのない愛で互いに愛し合うことが書かれています。互いに愛し合うこと、これが霊的な奉仕だということを言っています。私たちは教会で何ができるか。神さまのために何をしようかということをいろいろと考えたりしますが、そんなに難しいことではありません。兄弟姉妹を純粋に愛していくことで建て上げられていくということをここで述べているわけです。

四番目、十二章の最後の部分に、「対立する人に対する態度」が書かれています。時に私たちを迫害する人たちも出てきます。いやがらせや、冷たい態度で臨む人たちがいます。そういうときに私たちはどうしなければいけないか。祝福しなければならないと命じられています。本当にそのようなことができるものか、と思ってしまいます。しかしそれも聖書によれば、神さまの力によって、私たちはそれを行うことができると書いてあります。
コロサイ書一章には、

『神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐を寛容を尽くし』

というみことばがあります。神さまの権能ある力によって、私たちはあらゆるところで忍耐と寛容を持つことができますよと書いてあります。
神さまの全能の力に私たちがすがっていく時に、人を愛するということも可能となっていくのです。例えば、自分が中傷を受けたとしても、相手を中傷し返すのではなく、神さまから自分に与えられている奉仕を、その教会の中で行っていくことができるということです。

「悪を持って悪に報いない」と書かれてあるのですが、何をされてもじっと我慢の子で耐えなさいよと、もちろん耐えないといけないのですが、そういう意味だけではなくて、もっとダイナミックな目的があると思います。
ローマ書十二章を見ていくと、私たちが呪いを持って呪いに対応しないことによって、敵対する相手を祝福することによって、何が起こるかというと、神さまが私たちに変わってその相手に働いてくれて、相手に必要な裁きを行ってくれる。裁きというのは神さまがなさるから、あなたがたは祝福しなさいと言うわけです。だから私たちが自分でやらないことを決める時、神さまが両者の間に働いてくださる。復讐は神が行ってくださると書かれています。そういう考え方を持たなければいけないですよと言っています。

そしてさらに、自分に対して悪いことを行う者に対して、仕返ししないだけでなく「善を行え」と書いてあります。「祝福しなさい」だけでなく、さらに「良いことをしてあげなさい」と言うわけです。そうすることで、私たちは悪に対して攻撃することができる、善を行うということは攻撃なのだというのです。相手に対して「頭の上に燃える炭火を積むことになります」と書いてあるわけです。本当に不思議な方法で、神さまは対人関係に対する答えを与えられているわけです。そういう中で、教会の中に一致が生れる時、神さまの働きは大きく力強く広げられ、良い実が結ばれていく。
そして、ローマ人への手紙十六章二十節、

『平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます』

このみことばが、ローマ人への手紙の最後に、結論的なみことばとして与えられているわけです。

今まで申し上げたように、神さまが世になさろうとしていることは、失われた平和を歴史を通し実現するために、イスラエルの歴史を通し、またイエスさまの贖いのわざを通して今日まで現されてきたわけであります。神さまがいつの日かこの地上に来たらせてくださる新しい地と新しい天というものは、本当の意味の完全の平和が実現する時であると。その回復期を、私たちは教会として神さまと共に担わせていただいているということであります。

ヘブル語の挨拶は「シャローム」と言いますね。これは「平安がありますように!」という言葉です。良い挨拶の言葉だと思います。
「シャローム」ということばは、神さまにあって完全な平和を現しているといいます。ヘブル語の並びから完全な言葉で造られているみたいです。あらゆる領域が完全に平和であるということを、お互いに求めて歩んでいきたいと思います。それこそが、私たちが足に平和の福音の武具を身に着けるということなのだ、今日はこれをメッセージとしてお分かちしたいと思います。
お互い神さまを愛し、お互いを愛し合って、主の平和がこの教会を通して、すべての被造物に宣べ伝えられ、実現されていくことができるように、お祈りし合って前進していきたいと思います。
私のメッセージは以上となります。最後にお祈りして終わりにします。

一緒にお祈りしましょう。この地に神さまの完全な平和が実現されますように。お一人お一人の置かれた立場、働きや学び、家庭の中に、主の平和があるように。またそれぞれの健康状態、肉体・魂・霊に神さまの福音の力が働いて平和が与えられるように。
また前半部分でお話ししましたが、国々の中にある分断や様々な争いの中にも主の平和があるように。
そして、教会の中に平和があるように。お互いの賜物が豊かにされ、互いに仕え合うことで義の実が結ばれていくように、争いや偏見や偽善や不協和音といったもの、国籍や年齢や性別などによる分断が、愛によって埋められるように。平和の神によって私たちがサタンを踏み砕くために、ご一緒にお祈りをしていきたいと思います。それぞれに与えられた領域の中に神さまの平和を宣言してお祈りしたいと思います。

では代表して一言お祈りさせていただきます。

愛する天のお父さま、今日はこうして礼拝を持つことができたことを心から感謝します。私たちにあなたが十字架の贖いを成し遂げ、救いを与え、こうして神さまの恵みを受けながら、クリスチャンとして、また神の家族として、信仰によるアブラハムの後継者として立てられ、こうして歩むことができることを感謝します。どうか教会の中に主の愛が満ち溢れ、互いに仕え合い、互いに赦し合い、この地に対してそれぞれが平和の福音の備えを履き、働く者となっていくことができるように祝福してください。この世界を見る時にさまざまな領域に不協和音があり、分断があり、そして戦いや争いがあることを覚えます。どうかそのような領域に、あなたの平和が宣べ伝えられますように。今年はそのような意味で、主よ、あなたにあってさらに新たな扉が開かれ、働きが前進する年となっていくことができるように。お一人お一人がしっかりとその意識を持ち、役割を認識し、働いていく者となっていくことができるように、どうか祝福してください。
心から感謝し、すべての栄光をみ手にお返しし、尊きイエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。