平和の福音の使者として戦う

“二〇一八年、リバイバルミッション主催のPNG(パプアニューギニア)ミッションが開かれ、多くの方々と共に参加させていただきました。和解の集会がもたれ、さらなる前進が与えられた時でした。これまでの出来事を通して、PNGのためにとりなし祈ることは、この国(日本)のために祈る事なのだと思わされました。PNGのいやしは、この国のいやしなのだと思います。
そこには私たち一人一人、その家族や教会、地域も含まれていて、それはとてもダイレクトで、力強く、顕著な聖霊さまの働きであることを今も体験させられています。私たちはただイエスさまの十字架の和解の福音を携え、その地に遣わされて行くだけで、主がそれを喜ばれ、すべてのものはすでに備えられていて、主ご自身がその地をいやし回復を与えてくださるのだと信じます。
日本のリバイバルを祈り求めるとき、それはPNGを含む、かつて私たちが「大東亜共栄圏」と呼んだ国々と地域のリバイバルであり、主が相続地として私たちキリストのからだである教会にその地を与えてくださるのだと信じます。”

戦争に日本中から多くの人たちが関わり、そしてその後の慰霊団にも日本中から多くの人たちが参加して、悪霊との関わりを持ちました。それはそのまま地の上に呪いとなり、また日本に対しても呪いとなってしまいました。けれども、そこに出向いて、和解ととりなしの働きを現地の人と共にするということは、日本のリバイバルとダイレクトに繋がることになるんだと先生はおっしゃっているわけです。本当にそうだなぁと感じさせられます。

この一月に、蓮池先生もそうですし、パプアニューギニアでこのような働きがなされたことには、主が、今年平和の福音を私たちを通して宣べ伝えさせるために、新しい扉をさらに開いてくださる預言的先駆けなのではないかと、自分自身考えさせられました。

話は変わりますが、新城教会では二〇二三年がスタートしてから、今日まで牧師先生方がメッセージを語っておられますが、何度も二〇二三年の預言的メッセージについて触れられ、感動を語っておられます。私もそのメッセージを聞いてすごく感動しました。素晴らしい預言的メッセージを主が教会に与えてくださったなぁと思います。またその一端に私も加えていただけたのは光栄なことだなぁと思わされています。
七名の牧師が語ったそれぞれが組み合わさって一つの剣となって、今までの礼拝の中では先生方お一人おひとりが、ご自分に与えられたメッセージについて、さらに掘り下げて語っておられます。
一月二十二日には上條先生が「一致しなさい」というメッセージを語っておられました。
教会という集まりは、それぞれ年齢が違ったり、性別が違ったり、また学歴や育った環境も違います。一人一人個性も違うし、考え方も違います。しかし教会は一致ができます。それは全員イエス・キリストという神を、信じる信仰を持っているからだと。そして私たち一人ひとりがすべて主を愛し、主を心から賛美し、リバイバルのために一つになって歩んでまいりましょう!ということを語っておられました。

この三年間の分断の時は、新城教会もなかなか皆で集うことができていなかったのですが、今年はイベントに対しての規制も事実上撤廃されますとのことです。既に三月から卒業式もマスクなしで出られますとか、政府から提示されています。
この時、私たちは主を愛し、毎週日曜日、この場所に集い、共に礼拝をささげることを心がけていきたいと思います。
巷では、レストランや商業施設などで規制が緩和されてもお客さんが戻らないとか、二割くらいコロナ前よりも業績が低いとか言ったりしていますが、教会では心から喜んで集うことを心がけていけたらなぁと思います。もちろんオンラインもこれからも続けて行きますし、遠くの方や、いろいろな事情がある方は、それで参加していただければ結構なのですが、集まって主を礼拝することにお互い心がけていけたらなぁと思います。

上條先生が開いておられましたが、エペソ人への手紙四章十六節、

『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』

一つ一つの部分がそれぞれキリストのからだとしてしっかりと結び合わされ、組み合わされて機能していく時に、この教会の働きも建て上げられるし、皆さんそれぞれの信仰も同じように建て上げられていくということであると思います。
さらに二月五日、岡本先生のメッセージで「主を誇る」というみことばが語られていましたが、その時にも一致の必要性について踏み込んだ話がされていました。

聖書を見るときに、完全なる平和が実現していた時があります。今私たちは平和を実現するために、福音を持ってこの世に対して働いていく者であるわけですが、天地創造がされたとき、人が堕落する前には、世界は完全な平和があったのです。しかし、人の堕落によって平和が崩れた。
それから今の世界まで不安定・分断・争いがあります。神さまが世界の歴史を通して実現されようとしているのは完全なる平和の回復であるわけです。神さまは初め、イスラエルの民を選んで、この民を通して平和を実現しようと思ったのですが、イスラエルの民も堕落してしまって、うまくいかなかった。
それから時代を経てエスさまによって完全なる平和の道が打ち立てられたわけです。それが完全に実現する時が来ます。いつでしょうか?新天新地が到来した時です。私たちはその過程、神さまの完全なる平和の回復を実現するため、この地に置かれているのです。

どのようにして平和は崩れたのか?人が神さまではなく自分を中心にしたときに平和は崩れました。だから平和の実現のために大切なのは、まず私たちが神さまとの関係を回復し、神さま中心の視点への変換が必要なわけです。マタイによる福音書五章九節、

『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。』

平和がない(不安定である・分断がある・争いがある)領域(この世)に、我々は平和を造る者として立たされているということであります。

その上で、私が昨年十二月二十八日に水曜礼拝でメッセージした中、ローマ人への手紙からお話ししたメッセージが今心に響いています。
ローマ人への手紙は、律法に書かれた食べ物や、律法に定められた捧げもの、祭りの規定などについて書かれた神の戒めや、割礼を実行することがクリスチャンにとって必要と考えていたユダヤ人クリスチャンと、そういった習慣がないローマに住んでいた外国人クリスチャンとの間に、宗教的また文化的な相違から分断が起きていた。それに対してパウロが「神の救いは行いによるのではなく信仰による義認だ」「信仰によるアブラハムの子孫が真の神の家族だ」と、生まれとか国籍とか、律法を守る守らない、割礼を受けている受けていないというのは関係ないんですよ!と、イエスさまによって新しくされた者が国を越えて神の家族となることができるということを述べているのが「ローマ人への手紙」です。

特に十二章から十六章までの後半部分は、ユダヤ人クリスチャンと外国人クリスチャンとが一つになること、つまり、教会内の一致について深く述べています。
十二章から十三章にかけて、その一致が、お互いに対する愛と赦しの決断とから生まれるのだと言っています。愛とは教会の全員が様々な才能や賜物を用いてお互いに仕え合うということ、また、お互いが謙遜にお互いを赦し合うというところから現わされていくんだということを述べています。
いろいろな民族がローマの教会の中にいました。それぞれの文化を持ってひとところに集まるとき、衝突は避けられないものがあると思います。どんな教会でもそれはあると思います。いろいろな違いがお互いにあるからです。それを乗り越えられるのは神さまの愛による赦しと和解の努力だけだと言うわけです。そのような努力をするなら、神と隣人を自分自身のように愛するという律法の一番大事な戒めを守ることになる。それがクリスチャンの最大の祝福に預かる、「愛」という聖書の中で最大の鍵となるようなテーマであります。
そして、この中で鍵となっているものが「平和」です。

今日のメッセージの後半部分、全てを詳しく触れることはできないのですが、まずこのローマ人への手紙の十二章一節には、このように書かれています。

『ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。』

このみことばをリビングバイブルで見てみると、こうなっています。

『愛する皆さん。そういうわけですから、あなたがたにお願いします。自分の体を神様にささげてください。それを、神様に喜んでいただける、生きた、きよい供え物としてください。神様がしてくださったことを思えば、これは、決して無理な注文ではないはずです。』

リビングバイブルは、原語の意味を汲み取って、文章をより分かりやすく訳したものです。ここで「神さまにささげられた供え物としてあなたがたの体をささげなさい。」と言われているのですが「イエスさまがしてくださったことを思えば無理な注文ではないでしょう。」とリビングバイブルには書いてありました。
この意味をかみ砕くと、「イエスさまがまず十字架によって身をささげてくださいました。だからあなたがたが神さまに身をささげることも、イエスさまがしてくださったことを思えば無理な注文ではない。」ということです。すなわちこれは「理にかなっている」ということになるわけです。「あなたがたが自分の身をささげるのは理にかなっています。無茶な注文ではない。」それが「私たちのささげる霊的な礼拝である」ということです。
私たちにとって理にかなった礼拝、そして霊的な礼拝というものが、「体をささげる」=「自分を生け贄とする」という意味なのです
それが霊的な礼拝なのです。具体的にどういうことか二節に書かれています。この世と調子を合わせず、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれ完全であるのかということをわきまえ知って、この世から私たちを聖く分けられた者として神の前に生きていく。神さまのみこころを知ってそれを行っていくことが、私たちが神の前に自分を生贄としてささげることですよ、それが霊的な礼拝ですよ、と言っているのです。
礼拝というと、私たちはこの場所で毎週日曜日の朝十時半から行われる、この時と空間に仕切られた行為が礼拝であると考えるかもしれませんが、今読んだみことばから、実はそういった時間的、空間的隔たりはない。私たちの人生そのもの、生活そのものに関わるものが私たちの霊的な礼拝と繋がっているというのです。
私たちがこの世と調子を合わせないで、聖書に教えられた神のみこころに従って歩み、みこころを知ってそれを行う。神さまが喜ぶことを求めて、それを実践しようとしていく。そのような歩みそのものが自分の身を捧げることになる。それこそ神の前に受け入れられる、ふさわしい理にかなった、霊的な礼拝だと書いてあるわけです。そのような歩みを神さまの前でできたら、イエスさまが先に成してくださった十字架の贖い、ご自分を犠牲にしてくださった、その犠牲に応える礼拝になっていくわけです。

その上で十二章を読み進んでいくと、神さまの前に私たちがどのように歩んでいくのかが、さらに具体的に描かれていますが、実は「教会の一致」と結びつけられ示されているのです。
まず、教会で一人ひとりが賜物を用いて仕え合うことに関して、ローマ書十二章三節から書かれています。まず「思い上がらない」ということが書いてあります。それぞれが思い上がらないように戒めとしてまず書かれています。
クリスチャンとして歩み出すと、それぞれが「自分の賜物は何だろうか」と意識するようになっていきます。ここにいらっしゃる皆さん、神さまから委ねられた賜物があるのです。賜物が分け与えられていない方は一人もいません。
どういったことかと言うと、他の人は気づかないけど自分は気になる。他の人は届かないけど自分は届く。そういったところです。分かりやすく言うと、自分が勤めている会社で神さまのみこころを求めてそれを実行することは、その人にしかできない、その人の賜物であるということができると思います。
分かりやすい賜物だと、賛美の賜物や、伝道の賜物、祈りの賜物とか、そういったものもあるかと思うのですが、他の人は自分あの人のために祈ることはできないけど、自分は祈ることができるというのも、神さまがその人に与えてくださっている賜物であると言うことができると思います。
それを用いることが大事です。そうなのだけど、その賜物を用いるのは、特別なことではない、それぞれみんなに与えられているものであるけど、それは私たちが神さまにささげられる当然のものとして与えられているもので優劣などないことをまず覚えなさいね、ということを、ここで言っていると思います。