〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
教会の使命・・・それは霊的戦い!

こう見ると、悪魔・悪霊どもは、神が創造された高次元を含む、すべての被造世界の領域に、魔の手を伸ばしていることがわかります。彼らが諸天にまで策略を張り巡らせ、地上に攻撃を仕掛けているとしたら、どのぐらい私たちが聖霊に満たされ、霊的戦いを意識しなければならないかということです。

「この世」は、大きく分ければ、二つの勢力の対立で成り立っています。それは、神の国と悪魔の国との戦いの構図です。何度もお話ししていますが、この二つしかないのです。私たちは神の国に生きるのか、悪魔の国の影響下で生きるのか、二つに一つです。中間はないのです。だから常に神の国の支配で生きることを意識しなければならないのです。

そして「教会」とはどういう存在なのか。エペソ人への手紙三章九〜十一節を見ますと、こうなっています。

『また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。
これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、
私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。』

神が奥義として世々、隠されていたのは、教会の創造でした。そして教会に与えた使命を知らしめることにあると言うのです。それは「教会を通して神のきわめて豊かな知恵を知らせる」と言うのです。
誰に知らせるのか、それは、「天上にある支配と権威に対して」と記されています。彼らに、神の極めて豊かな知恵を宣言するのが教会の役割だというのです。

「神の極めて豊かな知恵」を英語訳で見ますと、”manifold wisdom of God”となっています。「manifold」すなわち、多種多様で、多方面の神の知恵を、悪魔の組織にぶっつけるのが教会の役割です。悪魔が諸天も含んで策略を練り、人類に攻撃を仕掛けているのであれば、私たちも、多種多様な、多方面的な神の知恵によって戦わなければ勝利できるはずはありません。

実は先週、日本における全教会の大きな会議がありました。それは、「日本伝道会議」という会議が岐阜で開かれました。新城教会からも牧師たちが出席しました。今回は七回目でした。日本の教会は戦後、七年に一度ずつ、すべての教会が集まって、今後の日本宣教の方策を練る会議を行っています。
今回、久しぶりに日本伝道会議が開かれて、新城教会も、リバイバルミッションも、参加させていただきました。今、日本のキリスト教界は、たいへん苦戦しています。
以前もお話しさせていただきましたが、日本のキリスト教会、八千くらいありますが、その三分の一は「日本キリスト教団」という団体の教会です。しかしその教団は高齢化が進んで、これは十年ぐらい前の統計ですが、しばらくしたら消えてしまうのではないかと危惧されています。
そして今や、日本の牧師の平均年齢は七十歳。私はまだ青年会というような感じです。これからどうしたらいいのかです。
今回の宣教会議のテーマは「終わりから始める」というテーマだったそうです。コロナでも大変で、二千くらいの教会が活動を停止したのではないかと言われます。終わりから始める、ゼロから仕切り直すしかないのでは?という、悲しい響きがあります。

「第三回日本伝道会議」は、一九九一年に栃木県那須・塩原で行われました。その時、日本教会全体のコンセンサスとして、一つの声明文を採択し、発表しました。今回はどんな声明が出るのかわかりませんが、第三回は「日本、アジア、そして世界へ」という、大きなテーマを掲げて開催されました。そこで強調されたのは、「宣教の戦い、そして勝利」というテーマであり、「霊的戦い」だったのです。日本中の教会が、宣教とは、敵を意識しなかったら勝利できないという理解に至ったのです。

以前も少し紹介したことがありますが、「霊的な戦いと宣教戦略」という項目において、次のように綴られています。

“宣教は「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か」である十字架のことばを、「神の力、神の知恵」である福音として宣べ伝えることである。それゆえ、福音が全体として提示される時、おのずと、宣教はこの世の諸権力の反抗と人々のさまざまな反応を招く霊的な戦いとなります。とりわけ、キリストの権威と聖霊の力によりサタンと罪の支配から信仰者を解放する活動は教会の最も戦闘的側面であり、聖霊の与える剣である神のことばをはじめとする神の武具と祈りがこの戦いには不可欠です。”

このように述べています。日本のプロテスタント教会全体として、一九九一年の宣教会議では、霊的戦いを意識して立ち上がったのです。
そして九二年に何が起こりましたか?全日本のリバイバルを掲げて立ち上がった甲子園ミッションの準備の只中で、激しく聖霊が注がれ、霊的戦いが始まったのです。しかし霊的戦いの現実を見たら、および腰になって、逃げてしまいましたけれど、新城教会が霊的戦いに導かれたのは、決して特別なことではなかったのです。全日本の教会が一九九一年に、「宣教」とは、見える戦いではないと、初代教会と意識を共有し立ち上がったからです。その結果として、聖霊が注がれて、霊的戦いが始まり、九三年には甲子園ミッションが主によって開催されたということです。
ということは、霊的戦いは、日本全体に対する神の計画の実現に他ならないのです。

今私たちは、宣教七十周年という、特別な年を迎えていますが、教会の使命は、数多くあると思いますが、最も重要な使命として、霊的戦いを基礎とする宣教戦略にあると思うのです。ということは、我々クリスチャンが、どのぐらい日々の生活の中で、霊的戦いを意識するのかにかかっています。
特に秋分の日の期間、悪魔も攻撃を強める時期であることを意識して立ち上がるなら、敵の策略は見破られ、神の国は前進するはずです。

現実には、どうしたらよいのでしょうか。エペソ六章では、続いて述べています。エペソ六章十四節〜十七節、

『そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。』

とパウロは大胆に語っています。
 パウロがエペソ人への手紙を書いた時点、彼はローマにおいて幽閉されていました。牢屋に入れられていたのです。周りにはローマ兵たちが鎧兜を着けて、武器を持ってうろちょろしていたのです。その姿を見ながら、彼はローマ兵の武具・武器になぞらえて、霊的戦いについて考えました。

彼らは腰にベルトを締めて、そこに様々な武器を吊るしていたのですが、我々、クリスチャンにとっての帯とは、「真理の帯」でなければならないと彼は言いました。真理とは何でしょう?この世のまがいものの真理ではなく、主イエスが真理であるということです。「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」とイエスさまは語られました。イエスを我々の中心にしろ!とパウロは言いました。

そして「正義の胸当てをつけなさい。」
ローマ兵たちは、自らの心臓を守るために、分厚い胸当てをつけていました。それになぞらえて、正義の胸当てについて語りました。
そもそも正義って何でしょうか?現代は、正義が何かわからない時代です。日本は西側諸国に属していますから、ロシアとウクライナの戦争でも、ウクライナ側の正義に立っています。しかしロシア、中国、または北朝鮮に行けば、彼ら側の正義があるわけです。しかし、どちらも正しくないです。私たちは、神の正義に立たなければならないのです。
以前も少しお話ししましたけれど、現代人にとっての神とは科学です。科学技術が未来を予測する予言者のようになっています。ゆえに、私たちはこの世の情報が正義かのように勘違いするのです。しかし私たちの正義は、あくまでも神の国の正義でなければなりません。
日頃の様々な報道も、西側に立っても、正義ではありません。同様に、東側に立っても正義ではないのです。神の国の正義に立つことは、なかなか難しいです。

そして「平和の福音の靴を履け」と言いました。パウロはまた、こう語っています。『平和の神はあなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』と。
聖書が告げる平和とは、ことなかれ主義の平和ではありません。戦いに勝利して、勝ち取られた平和を「平和」と言います。霊的戦いによって勝利し、その結果、勝ち得た平和です。福音によって、悪しき力が打ち砕かれ、勝ち取られた平和が与えられるよう、祈りなさい!ということです。

そして「信仰の大盾をとって、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣である神のことばを受け取れ。」と告げました。これらを一言でまとめたら、「神の国の世界観に堅く立つ」ことに他なりません。今の時代、神の国の世界観に立つのはなかなか難しいです。それがすなわち、霊的戦いなのです。

六章十八〜十九節では、次のように語られています。

『あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。』

霊的戦い、それは高次元の戦いですが、この戦いに勝利する秘訣はただ一つ、パウロは祈り以外にないと理解していました。
もしも私たちが、霊的戦いの現実を実際に目で見ることができたら、誰もがその現実に驚いて、真剣に戦うようになるだろうし、祈るはずです。しかし、なかなか祈りのパワーが出てこないのは、その現実に覆いがかけられているからです。誰かが祈ってくれるから大丈夫!と言わないでください。祈りは、一人ひとりにとって重要であるからです。

「私たちの格闘は血肉に対するものではない」ことに関して、六章十八節で、祈りがいかに大切であるかについて語られています。
第一に、「すべての祈りと願いを用いろ」と命じています。
「すべての祈りと願いを用いる」とは、先ほどの「神の豊かな知恵を示す」という、”manifold wisdom of God”です。多種多様な、多面的な、多方面に渡る祈りを持って戦いなさいということです。
すべての祈りと願いを用いる。聖霊が教えてくださる、祈りのテーマを受け取り、戦わなければならないのです。

私は毎月、「霊的戦い専門課程」を持たせていただいています。明日から第十二期の専門課程が始まります。明日は娘が入院して、明後日、帝王切開です。少々、緊張する期間に専門課程があたっています。今回で専門課程は「十二年目」に入ります。よくやってきたなと自分でも驚いています。家内が死にそうな時も、一度も休んだことなく続けて来ました。
なぜ、続けているのかというと、家内がよく私に言いました。「それを続けている内はボケないと思うよ。」ある意味、ボケ防止で続けてきましたが、というより、毎月、神の前に出て、向き合い、すべての祈りと願いを聖霊によって受け取る事が必要だからです。聖霊により頼んで、多方面の祈りを受け取る。その機会をなくさない為に続けています。この働きをストップしたら、私は、多種多様な、多面的な、多方面にわたる祈りのテーマを受け取る事が難しくなるのではないかと思っています。続けている以上、神さまは、いろいろ教えてくださるような気がしています。
「何を祈ったらいいですか?」と聞いてみてください。必ず、主は、新しい祈りのテーマを下さいます。繰り返しの生活が人生みたいに思うかもしれませんが、そんな中で、聖霊によって祈るなら、教えて下さいます。主に聞いて祈ってみてください。不思議ですが、テーマが与えられます。ゆえにパウロは、すべての祈りと願いを用い、どんな時にも聖霊によって祈れ、絶えず目を覚まして祈れ、と命じたのです。それはまさしく、彼自身が体験した事柄でした。それを、エペソ人への手紙に綴られたのです。